第三章 「サブリル村冒険の旅・前編19」
部屋へ入ってから、私たちは女将さんが用意してくれたのが、コネクティングドア付きのファミリールームだと気づいた。
室内はとても広く、木の床はぴかぴかに磨かれている。中央には小さなテーブルが置かれ、その上には小皿に盛られたお菓子が綺麗に並べられていた。
私とカイアさんは、まず荷物を部屋の隅へ置き、腰を下ろそうとした――その時、バルコニーの方から、小七と女将さんの会話が聞こえてきた。
「小七様、こちらの力加減でよろしいでしょうか?」
「はい、女将さん。翼のところは、もう少し強めでも大丈夫ですよ。」
「こちらでしょうか?」
「そ、そう……そこです。やっぱりここは素晴らしい宿ですねぇ。」
私とカイアさんは顔を見合わせ、思わず扉の隙間からそっと覗き込む。
バルコニーでは、女将さんが丁寧に小七の翼をマッサージしていた。
力加減は絶妙らしく、小七は目を細め、うっとりと幸せそうな表情を浮かべている。
本当なら止めるべきなのだろうけど、あまりにも気持ちよさそうで――結局、私は何も言えなかった。
……だって、すごく可愛かったから。
カイアさんは呆れた顔でその光景を見つめた後、ため息混じりにこちらへ振り返った。
「本大爺は先に寝る。夕飯の時間になったら起こしてくれ。」
そうして、カイアさんは休憩へ。小七は専用の客室サービスを満喫中。
時間にも体力にもまだ余裕があった私は、ルミナを探しに行き、村を案内してもらおうと思った。
けれどルミナは、「お母さんが戻ってくるまで待ってて」と言い、先に一人で見て回っていてほしいと言ったので、私は一人で村へ出ることにした。
赤レンガの道を歩きながら、現実の都市とはまるで違う異世界の村並みを眺める。
すると、不意に――一年前の出来事を思い出した。
あの時、私は雪澈パパと蝶祈ママ、それから弟の晞夏と一緒に、いちご狩りへ行った。
あの頃の晞夏はまだ元気で、いちごを摘みながら、「いちごの別名」だとか、「実はいちごはベリー類じゃない」とか、得意げに雑学を披露していた。
その自慢げな顔には少し腹が立ったけれど――それでも、あの日は本当に楽しかった。
今ごろ、雪澈パパと蝶祈ママはどうしているんだろう。
それに、晞夏の身体は……。
そんなことを考えながら道を進んでいると、広場のような空き地の前を通りかかった。
何気なく目を向けると、大勢の人が集まり、何かをしている。
そこで、以前ルミナが話していたことを思い出した。
――ここは「サブリル自警団」の訓練場だったはず。
特に他に行く場所もなかった私は、軽い見物気分でそちらへ向かった。
「おや、カイアのところのお嬢さんじゃないか。」
最初に声をかけてきたのは、日に焼けた肌をした大柄な人物だった。
私は慌てて頭を下げ、礼儀正しく返事をする。
「おじさん、こんにちは。ここでは何をしてるんですか?」
「……おじさん?」
その瞬間、相手の眉がぴくりと動いた。
周囲で見ていた隊員たちも一斉にこちらを向き、やがて誰かが吹き出す。
「クリス隊長、またおじさんって言われてる!」
「『ははははっ!』」
「えっ? 私、間違えましたか?」
私は戸惑った。
だって、どう見ても私よりずっと年上の大人だったから。
「お嬢ちゃん、クリス隊長は女の人だぞ。」
近くにいた優しそうなおじさんが小声で教えてくれる。
「ええっ!? す、すみません……!」
私は慌ててクリス隊長へ謝った。
けれどクリス隊長は豪快に笑うだけで、まったく気にした様子もなく、逞しい手で私の頭を軽く撫でた。
その時、人混みの奥から見覚えのある姿がゆっくり現れる。
「ヨカゲ? どうしてここに?」
「……」
「お嬢ちゃん、ヨカゲと知り合いなのか?」
「はい。今、カイアさんと一緒に晨光旅館へ泊まってます。」
クリス隊長は頷くと、今度はヨカゲへ視線を向け、口元を吊り上げた。
「また訓練に来たのか、小僧?」
「……」
ヨカゲは無言のまま、簡単に礼をする。
「お前はほんっと愛想のないガキだなぁ。オーダ、お前、この小僧の相手してやれ!」
彼女は短髪を乱暴にかきながら、近くにいた茶色いツンツン頭のお兄さんへ声をかけた。
「はい!」
オーダは素早く木剣を手に取り、そのままヨカゲと共に訓練場中央へ向かう。
私の表情に浮かんだ疑問に気づいたのか、クリス隊長は腕を組み、世間話をするような口調で言った。
「この小僧、自警団に入りたがっててな。毎日のようにここへ来ては、俺たちに勝負を挑んでくるんだ。まったく、まだガキのくせに、腕だけはそこそこある。だが、この村では――」
言葉の途中で、訓練が始まった。
先に動いたのはヨカゲだった。
右手の木剣を横薙ぎに振るう。
――バキッ!
木剣同士が激しくぶつかる。
オーダはその勢いのまま押し込み、ヨカゲを半歩後退させた。
続けてオーダが突きを放つ。
ヨカゲが身体を捻って避けた瞬間、さらに右から斬撃が飛ぶ。
再び木剣がぶつかり合う。
ヨカゲは剣で受け止めるが、衝撃で足がわずかに滑った。
オーダは雄叫びを上げ、そのまま力任せに押し切る。
ヨカゲは地面へ倒れ込んだ。
その隙を逃さず、オーダは木剣を振り下ろす――
その瞬間だった。
ヨカゲの身体が、漆黒の霧に包まれる。
霧が揺らめいた次の瞬間、彼はオーダの背後へ回り込み、木剣の先端をぴたりと背中へ突きつけていた。
「参った。」
「……ありがとうございました。」
クリス隊長は腕組みを解き、二人を呼び戻す。
オーダはまず彼女へ礼をして謝罪し、そのまま隊列へ戻っていった。
「オーダ、最後の振り下ろしが大振りすぎる。もっと速く、無駄なく動け!」
それから彼女はヨカゲへ視線を向ける。
「小僧、お前も今回は悪くなかった。だが最後、魔力を使っただろ? 規則上、やっぱりお前は自警団には入れない。」
「……」
ヨカゲは俯き、歯を食いしばった。
拳を強く握り締め、悔しさを押し殺している。
クリス隊長はそんな彼をちらりと見た後、急にこちらを向き、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そういえば、お嬢ちゃん。確か自分を『勇者』って言ってたよな?」
「えっ、あの……私は――」
「なら、お前がその小僧と一本やってみろ!」
「『えぇっ!?』」
一瞬、場が静まり返る。
次の瞬間、周囲から驚きの声が上がった。
もちろん、私自身も呆然としていた。
しかもクリス隊長は、「いいこと思いついた!」みたいな顔をしている。
「隊長、その……カイアさんが言ってましたよ? その子、中二病らしくて――」
「中二病じゃないもん!」
「でも今日、広場で――」
「そ、それはカイアさんが――」
そこまで言いかけた瞬間、私はハッとした。
――絶対に正体を明かすな。
カイアさんの言葉が脳裏に蘇り、私は慌てて口を塞ぐ。
クリス隊長はそんな私を見て、不思議そうにしながらも手を叩いた。
「まあ模擬戦だ。怪我しない程度にな。特にお前だ、小僧――魔力は禁止だ。まだ身体が耐えられねぇ。」
そして彼女は私へ木剣を差し出す。
「お嬢ちゃんも、軽い運動だと思えばいい。危なくはない。『勇者』になりたいなら、こういう壁は越えないとな?」
そう言いながら肩を叩き、小声で「行ってこい、勇者」と囁くと、そのまま私を訓練場へ押し出した。
私とヨカゲは互いに礼をし、それぞれ一歩下がる。
(や、やばい……ヨカゲ、めちゃくちゃ怖いんだけど。カイアさん、小七、ルミナ――誰か助けてぇぇぇ!)
そんな脳内劇場を繰り広げている間に、訓練は始まっていた。
ヨカゲは先ほどと同じように、迷いなくこちらへ突っ込んでくる。
(どうしよう、私こんなの使えないよ……!)
(もういいや! 適当に殴られれば、きっと隊長が止めてくれるはず!)
そう決意した瞬間、ヨカゲの突きが飛んできた。
鋭く冷たい視線に、私は思わず目を閉じ、反射的に木剣を振るう。
――パキッ!
手が急に軽くなった。
恐る恐る目を開けると――
二本の木剣が、綺麗に真っ二つになっていた。
私は呆然と立ち尽くし、折れた木剣をぽとりと地面へ落とす。
周囲を見渡せば、ヨカゲを含め、全員が唖然としていた。
私は乾いた笑みを浮かべる。
「こ、これ……木剣が古かっただけ、とかですかね?」
「『……』」
誰も答えない。
私はその隙を逃さず、深々と頭を下げ――適当な理由をつけて、そのまま訓練場から逃げ出した。




