第89話 長浜の統治、初めの一歩
天正11年(1583年)6月 近江・長浜城 羽柴源一郎秀成
城代着任の儀式は終わった。
これから、長浜の統治についての評議だ。
「では、早速だが、今後の長浜の方針を話し合いたい」
私の声は、静まり返った広間に凛として響いた。
「まず第一に、民を慰撫することから始めたい。先の戦の傷跡が残っているだろう。年貢の減免を布告し、戦災に遭った村には、来年に向けて種籾を優先的に配ろうと思うが、どうか」
「……若君」
口を開いたのは、内政の実務を担う小堀正次だ。
「減免と種籾の配布、理には適っております。まさに仁の政。しかし、城の備蓄も無限ではございませぬ。軍を維持するための蓄えが削られることを懸念する声も出ましょう」
「言いたいことはわかる。しかし、木ではなく森を見るべきだ」
私は迷わず答える。
「民を飢えさせれば離散し、田畑を耕す者がいなくなる。そうなれば、来年の秋には一粒の米も入らなくなる」
「今、種籾を惜しむのは、自らの首を絞めるに等しいのではないか」
「...左様でございますな。承知いたしました」
小堀は、私の言葉の意を汲み取り、深く頷いた。
しかし、表情は渋いままだ。
そんな小堀の姿に思わず笑ってしまった。
「ふふっふ、何もそこまで渋い面をしなくてもいいだろう。まぁ小堀の思いもわからんでもないが...」
「実はな、そちらに内緒にしていたが、伯父上から城代の就任祝いとして銀子をいただいているのだ」
その言葉に小堀と羽田の表情が変わった。
「なんと!」「どれほどの銀子をいただいたのですか?」
「銀二百貫だ」
その言葉が私の口から出た瞬間、広間の空気が凍りついた。
「…………は?」
小堀が、まるで理解不能な異国の言葉を聞いたかのように呆然と口を開けた。
隣にいる羽田も同じ顔をして固まっている。
「わ、若君……今、なんと? 私の耳の聞き間違いでなければ、二百貫と申されましたか?」
「ああ、その通りだ。近々京からの使者が届けてくれる手筈になっている」
私が努めて平然と答えると、広間は一転して、沸き立つような騒然とした空気に包まれた。
「銀二百貫……! 米に換算すれば優に四千石を超えるではないか」
「先の戦への恩賞で、中川殿や高山殿が二百貫を授かったと聞いたが……」
家臣たちの間に、戦慄に近い驚愕が広がっていく。
老練な磯野すら、白髪の眉を跳ね上げ、言葉を失っている。
彼らの脳裏には一つの事実が強烈に刻み込まれたはずだ。
――羽柴秀吉という男が、この甥に対し、どれほどの愛着と期待を寄せているかという事実が。
「な、なんと……筑前様は、それほどまでに若君を……」
小堀が震える手で膝を叩いた。
「これほどの軍資金があれば、種籾を配るどころか、北近江の道を整備することすら可能です」
「渋い顔をしていた自分が恥ずかしくなりました。資金があるなら、話は別でございます!」
「ふふ、そうだろう? 小堀」
私はニヤリと笑みを深めた。
「伯父上は、私に『この銀で自由にやってみよ』と仰っているのだ。だからこそ、出し惜しみはせぬ。この銀をすべて長浜の発展に注ぎ込む」
「……恐れ入りました」
小堀は、今度は感服のあまり平伏した。
片桐且元や加藤嘉明たちも、主君への畏敬の念を新たにしたように、頬を紅潮させて深く頷いている。
銀二百貫という「現金」の力。
それは、家臣たちの不安を一掃し、私が進める施策に爆発的な推進力を与えるはずだ。
家臣たちが驚いている銀二百貫=四千石の価値はいかほどか。
私が城代を務める長浜は北近江(浅井・伊香・坂田の三郡)の拠点であり、石高は約十五万石。
五公五民とすると、年貢は約七万石。
そこから支払われれる家臣たちへの知行(給料)は七割程度で、城代の手元に残るのは約二万石。
これが、領内の統治に使える資金となる。
四千石というのは、統治資金一年分の二割に相当する。
それが現ナマ一括で(徴収の手間もかけず)、転がりこんでくるということを意味する。
今は六月、年貢を待っていれば早くて十月まで資金がない(普通は商人から前借りするのだが)。
まさしく、金のことを心配せず、思いっきりやってみることができるというわけだ。
続いて、軍事について打ち出した。
「では、次に軍の話だ」
「軍の調練は磯野殿を総大将とし、本多俊政、平野長泰がこれに当たるように。個の武勇も確かに重要だが、戦の勝敗は一糸乱れぬ行軍、そして兵站の速さで決まる。先の賤ヶ岳の結果を見ればわかるだろう」
「これからの羽柴の戦は、小さな局地戦ではない。大規模な軍勢による広域での戦いだ」
「黒田長政は、これに参画し、先達から多くを学ぶように」
「槍働きの功名より、行軍の足並みを重んじると?」
磯野が目を細める。
「その通りです。どれほど剛勇な将であっても、腹を空かせた兵や、到着の遅れた軍勢では勝てません」
「お祖父様、磯野の精鋭を核に、長浜の軍を一塊の矛へと鍛え直してくれませんか」
「……ふむ。個の武功を競う戦から、数の力で圧し潰す戦への転換ということか。面白い」
磯野の言葉に、黒田も「承知いたしました! 泥にまみれ、羽柴の戦を学び取ります」と目を輝かせて応じた。
「そして、片桐は、奉行衆と連携して兵站の強化にあたってほしい。備蓄の確保、輸送手段の強化が何よりも重要だ。いつでもどこへでも物資を動かせるように準備をしておいてくれ」
「ははっ!しかと承りました」
片桐が深々と頭を下げた。
次に、私は地図の一角、広大な淡海の湖を指差した。
「羽田には、淡海の湖の『舟運』の強化をお願いしたい。越前と京を結び、摂津へとつながる水路の強化だ。港の強化や新たな開設が必要なら、改めて議論しよう」
「それと、水路の安全を守るため水軍の再整備を進める。北近江の船大工を総動員し、鉄砲を使用する新たな水戦の形を構築せよ。伯父上から志摩の九鬼殿を紹介してもらうつもりだ」
「加藤嘉明と共にあたってほしい」
水運に明るい羽田が、その言葉に顔を上気させた。
「若君、その考えに、胸のすく思いです。湖を制する者は、日の本の物流の心臓を握るも同然」
「加藤殿、我らで度肝を抜く水運と水軍を仕立てましょうぞ!」
「ははっ!」
加藤の威勢の良い返信が広間に響く。
近江、そして淡海の湖は完全に織田に平定され、本能寺以降は羽柴が掌握しており平穏だ。
賊が出ることもないので、水運を守る水軍はそれほど必要はない。
しかし、湖で鍛えた水軍の力は、そのまま海に転用できる。
事実、近江の堅田水軍は各地の海の戦いで活躍したそうだ。
せっかく水運が盛んな長浜にいるのだ、水軍を鍛えておくことは将来役に立つかもしれない。
私の横では、竹中重門が真剣な表情で私の言葉に頷いている。
彼には私の思考を学ばせ、よき参謀として育てていこうと思う。
(続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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