第88話 城代着任ーー秀成の決意
天正11年(1583年)6月 近江・長浜城 羽柴源一郎秀成
夜、縁側で月を眺めながら思考の海に沈んでいた私は、いつの間にかマルと共に眠りについていたようだ。
気を利かせた近習が、近くの部屋に布団を引き、そのまま寝かしつけてくれた。
なんとなく、そんな記憶がある。
東の空が白み始め、湖面に反射する明るい陽光で目が覚めた。
外に目をやると、湖面が深い藍色から淡い銀色へと塗り替えられていく光景が広がっていた。
足元では、相棒のマルが「もう起きるのか」と言わんばかりに小さく欠伸をし、私の足に鼻先を寄せている。
「……今日からだ、マル」
私はマルの頭を一度だけ撫で、階段を降り、光差す廊下へと足を踏み出した。
天守から降りた私を待っていたのは、控えていた侍女たちと、城代としての正装であった。
今日のために新調された鮮やかな色合いの直垂。
今の私の体には少々大きく、重い。
身支度を整えられている間にも、城内からは家臣たちが集まる気配が伝わってきた。
今日は、長浜城の城代としての初日だ。
近習たちの緊張した面持ち。
彼らが私に見るのは、ただの子供ではなく、羽柴筑前守秀吉の甥、羽柴美濃守秀長の嫡男。そして羽柴家の跡目の有力候補。加えて、この長浜の城代だ。
先の賤ヶ岳の戦いにおける私の活躍も、どうやら、尾ひれがついてすごい話になっているように聞く。
(おそらく、秀吉がそんな噂を意図的に流しているのだろうが)
横ではマルが侍女たちに身柄を確保されていた。
流石に評定の間には連れていけない。
私が連れていくと言えば問題ないかもしれないが、時と場をわきまえることは社会人の基本だ。
「マル、大人しく待っているようにな」
私はそう言ってマルの背中を優しく撫でると、まるでその言葉を理解しているように、マルは頭を私の腕にすりつけ「クゥン」と鳴き、座り込んだ。
身支度が終わり、広間へ続く廊下へと足を踏み出す。
昨夜の決意を思い出し、
「家康との対決の時はすぐだ。それまでに精一杯、羽柴が勝つための仕込みをしておかねば」
そう呟いた。
廊下の向こうからは、緊張感と熱気が押し寄せてくる。
私の元に集うのは、磯野員昌、小堀正次、羽田正親、本多俊政、片桐且元、平野長泰、加藤嘉明。
そして黒田長政、竹中重門。
彼らは、私という新たな『道』に、己の命を賭けようとしている。
私が評定の間へと一歩足を踏み入れると、一瞬にして空気が張り詰め、居並ぶ面々が一斉に平伏した。
「ザザッ」という衣擦れの音が重なり、波が引くように頭が垂れる。
私は一段高い上座へと進み、静かに座った。
平伏したまま微動だにしない家臣たちを見渡してから、静かにそして深く息を吸い込んだ。
「皆、面を上げてくれ」
私の声に応じて、まず最前列の小堀正次が、次いで磯野員昌、そして他の家臣達がゆっくりと顔を上げた。
彼らの瞳は、熱を帯びていた。
長年、私のそばにいた者たちが多く、感無量という心境なのだと思う。
私も同じ気持ちだ。生まれ育ったこの城で、城代として領国統治に携われることに大きな喜びと重積を感じている。
そんな気持ちを、言葉に出した。
「今日から長浜の城代として、皆と共に歩むこととなった。羽柴筑前守様の蔵入地(直轄領)を任せられるという重責。この身には過ぎたるものだ」
「しかし、任せられた以上は、この地を、これまで以上に豊かな地にしたいと思う。皆の力を、貸してほしい」
家臣筆頭の小堀正次が、まず言葉を発した。
「源一郎様、長浜城代へのご就任、心よりお祝い申し上げます。かつて筑前守様がこの地で羽柴の礎を築かれたように、若君がこの長浜から一歩を踏み出されること、我らの無上の喜びでございます」
「たとえ火の中水の中、この命、若君の御心のままに使い捨ててくだされ」
正次の熱を帯びた言葉は、広間に並ぶ他の家臣たちへも伝播していく。
次に、小堀の隣に座している老将――私の祖父・磯野員昌が、口を開いた。
「……源一郎」
祖父の、低い声が響く。
そこには親族としての情愛と、武士としての厳格さが混在しているように感じた。
「此度の城代の拝命、誠にめでたい……しかし、城代とはこの地の民の声を聞き、部下の命を預かる『柱』となることだ」
「羽柴の将として、いかなる苦難があろうとも、背を向けることは許されん。その覚悟はあるか?」
祖父の鋭い眼差しが、私の瞳を射抜く。
それは「孫」に向ける目ではなく、「主君」を叱咤する目のように見えた。
「はい、覚悟は決まっています。お祖父様」
私はその視線を受け止め、はっきりと言い切った。
「私の背負うものは、私の命だけではありません。ここにいる皆の命、長浜の民、そして羽柴の未来です」
「それを守り抜くため、私は身命を賭して頑張るつもりです」
私の答えを聞き、祖父の口元に、わずかな、しかし確かな満足の色が浮かんだ。
「……頼もしい言葉よ。ならば、この員昌、残された命のすべてを捧げよう」
「長浜の地、心のままに治めるがよい」
祖父が再び深く頭を下げると、それに続くように、片桐且元や黒田長政ら若手たちも、熱気がこもった声で叫んだ。
「「命の限り、お供いたします!」」
広間を満たした声は、新しい時代の産声を告げるように、長浜の空へと高く響き渡っていった。
磯野員昌
家臣たちの声が広間にこだまし、盛り上がりをみせる中、
磯野は、昔を思い出して思わず笑い声を上げた
「ふふふっ」
皆の目が自分に集まる。
「いやぁ、すまぬ……少し昔を思い出してな」
「二年前のちょうど今頃だ。……まだ竹若と呼ばれていた源一郎が、わしの目を見て言った言葉がある。『羽柴は累代の土地も家臣も持たぬ、根の浅い家。だから、磯野員昌の孫である私に力を貸してほしい』とな」
片桐且元や黒田長政らが、意外な過去に耳をそばだてる。
白髭をなでながら、噛みしめるように言葉を続けた。
「源一郎は『私の背後に武の家があると示したい』と言った。わしはその心意気に惚れ、いつかお主が自らの名を背負って立つ時、その背後に立つと約束した……」
「それが、わずか二年で現実になったと思うと可笑しくてな」
そう言って、磯野のごつごつとした拳が、畳を強く一打した。
「……あの日、お主が求めた『武』は、ここにある。源一郎…お主がどれほどの重荷を背負おうとも、この員昌が盾となり、矛となって、お主の進む道を切り開いてやろう」
「お主の背後には、磯野の武がある。安心せよ」
そう言い切ると、深々と頭を下げた。
祖父の心境を察したのか、目の前に静かに座る孫は、静かに微笑み、頷いた。
「……ありがとうございます、お祖父様。共に羽柴の家を盛り立てましょう」
その答えに、磯野は満足げに、ただ静かに頭を下げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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