第86話 柴田勝豊の重責
天正11年(1583年)5月 京・勝豊屋敷 羽柴源一郎秀成
山崎城で、母やねね様、信吉兄上、そしてマルの温もりを存分に味わった後、父と共に京の都に入った。
向かったのは、洛中にある静かな寺院。
そこでは、賤ヶ岳の戦いの直前に降伏し、重い病の床にあった柴田勝豊が静養していた。
「――これは、羽柴美濃守様。それに、源一郎殿まで……」
病床から身を起こそうとする勝豊を、父上が制した。
その顔色にはかつての死相はなく、生気が戻りつつある。
療養で筋肉は落ちていたが、眼光は武士のそれを取り戻していた。
「勝豊殿、無理をされなくて良い。今日は礼を言いに来たのだ」
父がその手を優しく握る。
「以前お会いした時は、まさに虫の息といった風であったが、ずいぶん元気になられたようだ」
「酒はいかんぞ、勝豊殿。嗜む程度ならよいが、過ぎれば万病のもとだ」
勝豊は照れくさそうに笑った。
「面目ない。戦場で死ぬなら本望だが、酒のせいで床で死ぬのは御免だ。あれから一滴も飲んではおらん」
私も隣で深く頭を下げた。
「勝豊殿、よくぞお身体を持ち直されました。お元気そうなお姿を拝見でき感無量です」
ひとしきり笑顔が交わされた後、父上の表情が引き締まった。
「聞いておると思うが、先の戦で羽柴が勝利。修理亮殿は北ノ庄にて自刃、玄蕃(佐久間盛政)殿も討死された。……そして、お市の方様と三姉妹の姫君は、我らが保護させていただいた」
勝豊は神妙な顔をして頷いた。
「そのようだな。山路(正国)から聞いた。羽柴筑前様が大勝利とな。美濃大返し、山路の寝返りの策の話もな」
そして、父と私の顔を交互に見てから、言葉を続けた。
「玄蕃が敵陣に引き込まれたことが敗因だという話だが、その道筋を書いたのはそなたらだと」
「槍を振り回すだけの玄蕃では勝てなかったのは当たり前よ」
「しかも、その筋書きに、齢九つの源一郎殿が噛んでいるとは驚いたがな」
私はにこやかな顔を勝豊に向け、
「その節は、ご協力いただきありがとうございました。勝豊殿の文が大変役に立ちました」
と言って、小さく頭を下げた。
「少しは役に立てたのであれば何よりだ。あの程度のこと感謝は無用だ」
「山路も喜んでおった。やつは親父殿のわしへの仕打ちを根に持っていたようだからな」
勝豊は、父と私の顔を覗き込み、破顔した。
「はははっ! にしても楽しい親子よな。我らへの温情は心からのものに見える。しかし、それを利用する冷徹さ、戦場で敵を躊躇なく討つ果敢さも持ち合わせている」
「頼もしいことよ!」
父がにこやかに頷き、本題を切り出した。
「勝豊殿。貴殿の早期の降伏と将監殿の働きが、どれほど多くの命を救ったか。そして、我らがお市様をお救いできたことを、何よりの僥倖と思っておる」
「兄・筑前守も貴殿のことを大いに気にかけている。将監殿の活躍のことも随分褒めておられた。いずれ良い沙汰があるだろう」
一旦、言葉が途切れ、父がためらいながら言葉を続けた。
「修理亮殿は最期に、貴殿に事後を託すと仰ったと聞いておる。修理亮殿の実子が残っていない以上、柴田の家督を継ぎ、その一族を束ねる責任があるのは、今や貴殿だ」
「……そこで相談がある。お市の方と姫君らのことだ」
勝豊の目が鋭くなった。
「…お市様とその娘達は、織田家当主・三法師様、または実質的な家長である信雄殿が面倒を見るのが筋…」
「しかし、三法師様はまだ幼少の身、そして、信雄殿は…失礼ながら素質に問題がある」
「何より、信雄殿にお任せすれば、必ず政に利用しようとされるはず。北ノ庄の惨劇を目の当たりにした義母や姪たちを、その中へ放り込むのは酷というもの...」
父は一呼吸置き、勝豊を真っ直ぐに見つめた。
「ゆえに、柴田修理亮殿の跡目である貴殿が、この京の屋敷にて、一族の長として義理の母とその子の身を保護していただけないか」
勝豊は、予想外の話に目を見開き、父の顔を凝視した。
父は、その目をじっと見返し、そして静かに頷いて言葉を続けた。
「これならば、天下への聞こえも良く、織田家の家政への介入にもならん」
「羽柴は、あくまで『柴田家の身内同士の静養』を支援する形を採れる」
安土を出る前、父と秀吉は、お市の方と三姉妹の扱いについて協議をした。
本来であれば、寡婦となったお市の方は、実質的な家長である信雄の庇護に入るのが筋。
そして、この時代、一族の女を誰に嫁がせるのかを決めるのは家長の権限。詰まるところ家族の問題だ。
いくら秀吉が信雄よりも政治力や軍事力が上でも、家族の問題に立ち入ることはできない。
織田の女であるお市の方と娘達が、信雄の庇護に入ってしまうと、信雄の考え一つでいかようにもされてしまう。
それを防ぐには、織田の女に戻さないことだ。
『柴田の家が残り、保護すべき家長がいる』ことにしてしまえばいい。
秀吉もこれに賛成した。
史実では、秀吉がお市の方に思いを寄せていたという説もあるが、実際は違うと思っている。
清洲会議の後、お市の方を勝家に嫁がせるという筋は、当時お市の方を庇護していた信孝が描いた。
それについて秀吉と相談していた節もある。
勝家とお市の方を争ったというのも、後代の作り話だろう。
五十を過ぎた秀吉が興味を示したのは、年若い女性だ。
子を成すことを期待したのか、十代から二十代の女性を側室に迎えるようになる。
そういう意味でも、お市の方は対象外(この時三十八前後)だ。
逆に危ないのは、史実どおり三姉妹の方だ。
養父となる勝豊とお市の方に守ってもらう必要がある。
勝豊はしばらく黙って考えた後、深く嘆息した。
「……そこまで考えておられるのか」
「私を、柴田の看板を守る主とすることで、お市の方を『柴田の家族』として扱う。そうすることで、政争の具に利用されることから守ろうということか…」
父が勝豊の顔を見つめて答えた。
「左様…貴殿を利用する形になって申し訳ないが、お市の方と姫君を守るためだ。どうか承知してほしい」
「この屋敷を早急に改築したいと考えている。加えて、当面の生活に不自由しない禄も用意しよう」
「申し訳ないが、すぐに城持ちに復帰させることはできん。ほとぼりが冷めるまではな」
そして、勝豊の肩をポンと叩いた。
「寝てばかりでは退屈であろう。まずは京で悪い虫に睨みを利かせてくれ」
「いずれは、薬代の元を返してもらうためにも、槍働きの活躍を期待しておる」
そう言って「ふはははっは」と笑った。
勝豊の目から、一筋の涙が溢れた。
「……親父殿に不義理を働き、裏切り者の汚名を背負ってまで生きた甲斐があった」
「親父殿からの『自由に生きよ』との遺言があったそうだ。その通りにさせてもらう」
「この勝豊、柴田の名に懸けて、お市様たちをお守りいたしましょう。そして、すぐに戦場へ戻るゆえ、待っていてくだされ」
そう言って、頭を下げた。
本来なら死ぬはずだった者たちが生き残り、新たな「絆」が形作られていく。
母から生まれる新しい命。
信吉兄上ら一門衆との結束。
そして今、旧敵であった柴田との間に結ばれた、奇妙で強固な連帯。
すべてが絡み合いながら、羽柴の運命が、より強固なものへと変わっていく。
そんな淡い期待が胸に広がるのを感じた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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