第84話 山﨑の春雷と連枝の予兆
天正11年(1583年)5月下旬 山城・山崎城 羽柴源一郎秀成
早速、父・秀長一行が新たな領国である播磨へ向かうことになった。
賤ヶ岳の戦いが終わり、羽柴がより一層力を得たことで、これでまで先送りにしていた備前・備中の宇喜多や中国の毛利への対応に着手する必要があった。
宇喜多は羽柴に臣従しているので、関係性の強化を進めること。
毛利については、昨年に結んだ同盟関係が機能しているが、それを羽柴に臣従する形へと変えていくこと。
父は、西側諸国との交渉、調整という大役を任された形だ。
小堀らに捕まらなくとも、母には会いたいと思っていた。
京を通って領国へ向かう父も、少しの間、山﨑に滞在するということで、私もそれに同行している。
賤ヶ岳の勝利の吉報を携えて凱旋した父と私を待っていたのは、祝杯ではなく、伊吹山の雷鳴よりも凄まじい「母の怒り」であった。
山崎城の奥御殿の一室。
そこには、羽柴の家を後ろから支える二人の女性――ねね様と、母・お初が静かに座っていた。
入った瞬間から座敷の空気は凍りついていた。
「……ただいま戻りました、母上」
俺が畳に膝をつき、精一杯の殊勝な顔で挨拶をした。
顔をあげると、母・お初の目には、大粒の涙がたまっているのが見えた。
「源一郎殿……あなたは、自分が何をしたか分かっているのですか」
「は、はい。伯父上の命に従い、木之本の本陣へ……」
「黙りなさい!」
お初の叱咤が、広間に響き渡った。
隣で茶を啜っていたねね様が、そっと目を伏せる。
「元服を終えたばかりの身で、最前線に立つなど……もしあなたに万一のことがあったら、私は、羽柴美濃守の家はどうなると思うのです! 勇名など、あなたが命を失えば塵芥も同然です!」
母は泣きながら、私の方へ擦り寄り、肩を強く揺さぶった。
武家の妻としての矜持よりも、一人の母としての不安と愛情が勝ったのだ。
そして、その矛先は当然、私の後ろで肩身を狭くして座っている父へと向けられる。
「殿! 貴方も貴方です! 息子を止めるどころか、共に戦場に出るとは何事ですか! 父なら、命に代えても嫡男を後方に留めるのが役目でございましょう!」
「……いや、お初、それには深い事情が……」
「言い訳など聞きとうございません! 義兄上が『行け』と言っても、殿だけは『否』と言わねばならなかったはずです!」
今や、羽柴美濃守秀長として天下に名を知られる父が、今は借りてきた猫のように小さくなっている。
その姿がおかしく、クスッと笑ってしまった。
「何がおかしいのですか、源一郎殿。母の気持ちがわかっているのですか!」
それが、さらに母の怒りに油を注ぐ。
そろそろ潮時かと見定めたのであろう、ねね様がすすっていた湯呑みを置き、「お初殿 …」と声をかけた時だった。
母が、不意に顔を顰めて腹部を押さえた。
「……うっ」
「お初! どうした!」
父が血相を変えて駆け寄る。
母の腹部は、以前に会った時よりも明らかに大きく膨らんでいた。
お腹をさすりながら母が言う。
「……大丈夫です。少し、この子が暴れただけですから」
現在妊娠八ヶ月。
初夏には、俺に弟か妹ができる予定だ。
そのふっくらとしたお腹を見て、父はそれまでの申し訳なさと、新しい命への喜びに顔を綻ばせた。
「……ああ、そうであった。お初、済まぬ。こんな大事な時に、心配をかけて」
「これからは、播磨や但馬の統治に専念し、無茶な戦は控えさせよう。なぁ、源一郎?」
「はい。父上の仰る通りです。母上、新しい弟か妹のためにも、二度と無茶はいたしません」
俺は、深く頭を下げた。
ようやく母の表情が和らぎ、広間に穏やかな空気が戻る。
それを見計らったように、ねね様がいたずらっぽく口を開いた。
「お初殿。お怒りはごもっとも。しかし、お二方とも十分反省しているご様子。戦帰りの殿方を叱ってばかりでは、可哀想です。宿敵・柴田修理亮殿を打ち破った大勝利に、喜びの言葉があってもいいと思いますが」
その言葉に、母は、父と私の顔を優しい目つきで見つめた後、お腹を抑えていた手を畳につき、深々と頭を下げた。
「美濃守殿、源一郎殿。この度の大勝利、誠におめでとうございます。唐土の項羽・樊噲もかくや、というご活躍。妻として、母として誇りに思います」
「そして、無事のお帰り、これ以上の喜びはございません」
その言葉に、父と私は居住まいを正した。
そして、父が柔和な笑みを浮かべ、母の手を取った。
「はい、無事に戻ってきました」
そう言って、静かに母を抱き寄せた。
夫婦の時間が続いてるとき、手持ち無沙汰になったねね様と目が合った。
「小一郎殿が項羽か樊噲なら、源一郎殿はさしずめ関羽か呂布といったところでしょうか?」
ねね様が冗談めかして言った。
「そうですね。私は、最後に項羽に勝った劉邦を支え、天下を安んじた張良や蕭何のような人物を目指したいです」
私はそう言ってニコッと微笑み返した。
「ふふっ、知恵で天下取りを支えた方々になぞらえるとは源一郎殿らしいですね」
「源一郎殿は今回、天下に名を知らしめました。さらに、お市様を救い出した立役者とも聞いています。あながち、夢物語ではないかもしれませんね」
ねね様がふふっと笑った。
その後、家族団欒で食事を囲んだ。
戦の話で盛り上がり、次に生まれるのが息子か娘かを論じ、酒も入ってにぎやかな宴となっていた。
酒を飲まない私は茶を啜りながら、そんな楽しげな家族の顔を眺めていると、母と目があった。
「源一郎殿、聞くところによると、お市の方と姫君に会ったとか。お美しい方でしたか?」
皆の目が私に集中する。ねね様の目が鋭い。
「えっ?いや、お市の方は噂に違わず美しい方でしたが…」
ねね様が切り込んでくる。
「お市の方のことはよろしいのです。年増が美しかろうが問題ではありません」
「三人の姫君のことです。何やらコソコソと贈り物などされているようですが?」
私はあまりに明け透けな質問に戸惑った。
(いや、年増って。確かに三十後半はこの時代ではそういう意識だろうが)
(やはり、いろいろ噂が広まっているようだ。別にコソコソしているつもりはないのだが…)
(これは、嫁取りの話だな。ねね様は前々から狙っていたようだからな)
下手に答えてはだめだと思い、努めて冷静かつ簡潔に返した。
「元とは言え、祖父の主家に連なるお方。蔑ろにしてはいけないと思い、慰みの品を贈っただけです」
「そのような意図はありません」
ねね様はじっと私の目を見つめたままだ。
「そのような意図ね。どのような意図かは知りませんが、大切に思う気持ちはあると」
「茶々姫はどのような方でしたか?」
「えっ?いや、お市の方に似て美しい姫…だったような…」
「ほう。美しかったと…」
ねね様が母の顔を見て、二人で小さく頷きあった。
ここで、父が助け船に入った。
「源一郎はまだ子供。女子にそれほど関心はないしょう。私も同じ年の頃は野山を駆けずり回る方が楽しかった。の?源一郎?」
「はい。父上の仰るとおりです。私は書を読んでいるのが楽しいです」
「はははっ、書が楽しいか。本当に変わった奴だの」
父がそう言って笑うのに合わせて、私も笑った。
「「はっはっはっは」」
私は、少し仕返しをしてやろうと思い、
「お市の方も今やお一人の身。あれ程美しいお方なら世の男どもは放っておかないかもしれませんね。伯父上とか…」
「なっ!ななっ!」
ねね様の眼が見開き、固まってしまった。
その様子を見てこれはまずいと思ったのか、母が声をかける。
「ねね様、大丈夫ですよ。義兄様はそんなことはありませんから。源一郎殿!何を言うのですか」
父も重ねて言う。
「そうじゃ… 兄はねね殿のことしか見ておらぬ。なにも問題ない…」
しかし、ねね様は固まったまま、
「有り得る…こうしてはいられない。文を書かねば」
そう言って、慌てて部屋を出ていった。
あの秀吉のことだ、全く心配はないとは言い切れない。
両親はそう思っているのだろう、顔を見合わせて「はぁぁ」とため息をついた。
(お市の方は、二人の夫を失っている。そして、その両方に秀吉が関わっている)
(信長公のような絶対権力者がいれば、無理に嫁がされるということもあるかもしれないが、今は無理だ。それでなくとも、史実と違って、勝家の養子となっていた勝豊もいる)
(いずれにせよ、今は喪中だ。さすがの秀吉も動くことはないだろう)
私は思考を続けながら、ねね様が出ていった先を見つめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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