第118話 小牧長久手1ー戦の始まり
天正12年(1584年)3月上旬 大阪城/長島城 羽柴秀吉・織田信雄
大坂城、仮御殿の一室。
そこには、三井寺で見せた狂乱など微塵も感じさせず、愉しげに政に励む秀吉の姿があった。
「……信雄様より、文が届きました」
石田三成が差し出した書状を、秀吉は奪い取るようにして広げた。
そこには、血の匂いが漂ってきそうなほど荒い筆致で、岡田重孝、津川義冬、浅井長時の三名を「逆賊」として処断した旨が記されている。
「わっっははは……! やりおったわ、流石は三介殿(信雄)よ!」
秀吉は喉を鳴らして笑った。
その顔は、無邪気な子供のようでもあり、獲物が罠にかかったのを見届けた蜘蛛のようでもあった。
「官兵衛、読んでみよ。 信雄殿は、自らの手で三家老とも叩き折られた…我らが流した『内通』の噂を信じおって。あの者らには可哀想なことをしたの...ふふふっ」
書状を受け取り、目を通していた黒田勘兵衛が、書状を折り畳みながら言葉を発した。
「尾張からの報せでは、信雄様が三家老を呼び寄せる直前に、徳川殿の使者が長島を訪れていた様子。そこで何かが話し合われた結果、誅殺に繋がったとも見れますな」
秀吉が顎髭を撫でながら、しばらく考えて官兵衛に目を向けた。
「なるほど。我らの噂を家康が上手く拾って信雄殿の背中を押したか。神輿にする以上、降りること能わずということか。家康め、律儀な顔をして実に腹黒い奴よ。しかし、いい仕事をしてくれた」
秀吉は立ち上がり、窓の外に顔を向け、着々と築かれてゆく巨城の石垣を見下ろした。
「佐吉(石田三成)、見よ。これが『天運』というものだ…信雄殿が三家老を殺した。あの方は『忠臣を殺した暗愚な主君』という泥を自ら被った。これで、我らが兵を動かすための正義ができた」
秀吉の瞳から、笑みが消えた。
「…佐吉。直ちに諸国へ触れを出せ。織田宗家の嫡流を名乗りながら、あろうことか織田家に忠義を誓う家老たちを理不尽に惨殺した信雄様の暴挙、断じて許し難し、とな。我ら羽柴は、三家老の無念を晴らすため、そして織田家の規律を正すために出陣する!」
「はっ。直ちに」
三成が足早に去る。
秀吉は官兵衛の前に座り直し、声をかけた
「戦さの大義はできた。あとは如何に勝つかだな…勝てると思うか官兵衛」
「そうですな…兵の数では圧倒的にこちらが有利でしょう。しかし、武田や北条としのぎを削ってきた徳川の兵を甘く見てはなりません。将も戦慣れしている者ばかりなれば、一筋縄ではいかないでしょう」
「あとは、織田とのつながりが強い、美濃の池田殿、亀山の蒲生殿を味方につける必要がありますな」
官兵衛がゆっくりと答えた。
「徳川は強いか…信長公にこき使われつつ、武田と向かい合っていたのだからな…」
「池田には美濃に加え尾張を加増、蒲生には北伊勢を加増。これを餌に味方に引き入れる、どうだ?」
秀吉がそう言うと、官兵衛は口角をあげた。
「それは大盤振る舞いですな。しかし、尾張と北伊勢に接する彼らを味方にせぬことには始まりませんし。早速使者を仕立てましょう」
「ところで」
官兵衛が秀吉の目を見つめて、問いかけた。
「殿の甥御殿はいかがなされますので?」
「信吉と源一郎か。この戦は羽柴にとって天下分け目の戦だ。出陣させぬわけにはいかん。どこで武功を上げさせるかは、追って考えんといかんがな」
秀吉は、手に持った扇子を開け閉めしながら、ゆっくりと答えた。
「ねねに怒られるかもしれんが、それは致し方あるまい。源一郎も近く嫁を持つ立場になる。ここで男をあげておく必要があろう。それに、賤ヶ岳で見せた彼奴の戦略眼が本物かどうか確かめたい」
秀吉はそう言って、小さく笑った。
「それじゃ、始めるとするか」
時間を数日遡る、3月6日
伊勢・長島城の広間には、不気味なほどの静寂が満ちていた。
織田信雄は、上座に座り、膝の上で震える手を必死に隠していた。
その前には、呼び出された岡田重孝、津川義冬、浅井長時の三人が、何の疑いも持たずに平伏している。
「……面を上げよ」
信雄の声は、自分でも驚くほど乾いていた。
顔を上げた三人の顔には、信雄が幼い頃から見てきた厳しくも温かな表情が浮かんでいた。
白髪が増え、顔の皺も深くなっていた。
「殿、急ぎのご用とは何事でしょうか。徳川殿との盟約の件は聞いております。殿が決断された以上、我ら一同、全力を挙げて支える所存にございます」
岡田が真っ直ぐな目で告げる。
その忠義に満ちた言葉が、今の信雄には鋭い刃となって胸を刺した。
(嘘だ。お前たちは筑前と通じている…家康も、世間の噂もそう言っている。ここでお前たちを斬らねば、余は独りで死ぬことになるのだ)
信雄は、心の中で自分に言い聞かせた。
だが、彼らがかつて自分に注いでくれた献身の記憶が、決断を鈍らせる。
「……徳川殿より、連絡があった」
信雄は、絞り出すように言った。
「お前たち三人は、筑前守と密約を交わし、伊勢と尾張を売ろうとしているそうではないか」
三人の顔から、血の気が引いた。
「滅相もございません! 誰がそのような!」
「殿!筑前が流した噂に惑わされてはなりません!」
「我ら織田の家臣として、この命、殿に捧げた身! 裏切りなど断じて……!」
「問答無用!!」
信雄は、叫んだ。
これ以上彼らの声を聞けば、自分が壊れてしまうと思ったからだ。
「……やれっ!」
合図とともに、屏風の陰から伏せていた兵たちが一斉に飛び出した。
「殿! お考え直しを!」「殿――!!」
絶叫と、肉を断つ鈍い音が広間に響き渡る。
信雄は、目を逸らさなかった。逸らせなかった。
自分が命じた刃によって、自分を育ててくれた者たちの首が落ち、畳が赤黒い海に変わっていく様を、石のように固まって見つめ続けた。
やがて、静寂が戻る。
広間に漂うのは、噎せ返るような鉄の匂い。
「……終わった。これで、織田嫡流を守ることができる」
信雄は立ち上がったが、その足取りは危うかった。
三人の亡骸に背を向け、一歩一歩、屋敷の奥へと足を進めた。
その胸の奥には、家臣を殺させた家康への、そして自分をここまで追い詰めた秀吉への、どす黒い怨嗟の炎が音を立てて燃え広がっていた。
「……余をここまで辱めたこと、後悔させてやる」
雨の降り始めた長島城。
織田嫡流の誇りと引き換えに、信雄は自らの手で「最後の砦」を崩し去った。
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稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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