第117話 盟約の代償
天正12年(1584年)遠江・浜松城/尾張・清洲城 徳川家康/織田信雄
遠江・浜松城 徳川家康
家康は、清洲の織田信雄から届いたばかりの書状を、手元の行灯の火にかざして読み返した。
「……筑前は狂うた。会見の場で『殺される夢を見た』と喚き、余に暗殺の濡れ衣を着せようとした。父上の大恩を忘れ、織田宗家を蔑ろにするその悪逆、断じて許し難し。今や余が頼れるのは、亡き父が最も信頼した同盟者である徳川殿、貴殿しかおらぬ。どうか立ち上がり、共にこの痴れ者の猿を討ち果たしてほしい」
書きなぐられた文字からは、信雄様の苛立ちと、それ以上の侮りが透けて見える。
家康は、ふっと溜息を漏らして書状を畳んだ。
「……信雄様は、三井寺での一件を『猿の乱心』と断じておられる。伝え聞く話では、筑前守はこのままでは信雄様に殺されると大粒の涙を流しながら非難したとか...」
家康の言葉に、座を囲んでいた家臣たちが一斉に視線を向けた。
「乱心、でございますか。それだけ聞けばそのようにも思えますが...」
酒井忠次が、白髪の混じった眉をぴくりと動かした。
「あの人たらしの筑前が、意味もなく狂態を晒すはずがございませぬ。おそらくは、信雄様の度量を測るための狂言…あるいは、対話の余地を断つための瀬踏みでしょうな」
「左様。猿は夢など見ませぬ。奴が見るのは、盤面のみ」
本多正信が、薄笑いを浮かべて口を挟む。
「信雄様に、自分を狂人と思わせて油断させ、その隙に三家老を切り離す。すべては筋書き通りでございましょう」
広間に沈黙が流れる。
家臣たちの目は、一様に「今こそ立つべきだ」と訴えていた。
羽柴の勢力は日増しに膨れ上がり、もはやその勢いは徳川の五カ国をも覆おうとしている。
今、この機を逃せば、我らもまた、あの猿の胃袋に収まるのを待つだけになる。
しかし、家康は容易に頷くことができなかった。
「……我ら徳川は、亡き信長公との同盟を盾に、織田体制の『律儀な守護者』として生きてきた」
家康は、自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「先の乱(本能寺の変とそれに続く天正壬午の乱)において、私が甲斐・信濃の五カ国を得られたのも、ひとえに織田の遺領を隣国として守るという名分があったからこそだ…体制の内側で、秩序を守りながら大きくなる。それが我が徳川の歩むべき道ではないのか。表立って織田の嫡流を担ぎ上げ、羽柴と決裂するのは、あまりに危うい」
「殿、それは違います」
大久保忠世が、こらえきれぬといった様子で身を乗り出した。
「体制を壊そうとしているのは、我らではなく、羽柴! 金と力で織田の家そのものを塗り替えようとしております。今、織田の血筋を守るために立たねば、守るべき体制そのものが消えてなくなるのですぞ!」
「立つなら、今しかございませぬ。羽柴が天下の隅々にまで根を張る前に」
本多忠勝の、地を這うような低い声が響く。
家康は、目を閉じた。
頭では、理屈は分かっている。
私がいくら体制を守っていても、その体制自体を否定する者とは折り合わない。
いつか必ず衝突する...それであれば、相手が力をつける前に早くケリをつけた方がよい。
そもそも、羽柴秀吉という男が、どうしようもなく嫌いだ。
奴のやることは、すべてが軽薄で、浮ついている。
金銀をばら撒き、土地の重みを知らぬ商人のようなやり口で天下を計ろうとする。
米を育て、土に根ざし、忠義を積み重ねていくという武士の本分を、奴は黄金の輝きで塗り潰そうとしている。
あのような男が、亡き信長公の跡を継ぐなど、断じて許せることではない。
家康は、絞り出すように言った。
「今、やるしかないか...放っておけば信雄様も筑前に飲みこまれるであろう。そうなると我らが立ち上がる大義も失われる」
「「「!!」」」
家臣達は、期待を込めた目で一斉に家康の方を見た。
「だが、相手はあの筑前だ。口先だけで今の地位を築いたわけではない。山崎で、賤ヶ岳で、奴が見せた用兵、そして畿内一円からかき集められる圧倒的な動員力。まともにぶつかれば、我が精鋭とて数で押し潰されるわ……徳川の命運すべてを賭けて立ち向かわねば負ける」
家康は再び視線を書状に落とし、吐き捨てるように言った後、目を瞑って沈黙した。
無言の時間が流れた。
しばらくして、家康はかっと目を開き、断固たる口調で言い切った。
「徳川は、織田の正統なる後継者・信雄様を支持する。織田の家を簒奪せんとする逆賊・羽柴筑前を討つ」
「よっしゃぁッ!!」
真っ先に吠えたのは、本多平八郎忠勝だった。
「あの猿に天下をいいようにされては、亡き信長公にも、死んでいった仲間たちにも申し訳が立たぬ!」
大久保忠世が不敵な笑みを浮かべ、力強く膝を叩いた。
「ようやく、徳川の槍を振るう時が来ましたな。相手が十万、二十万と連れてこようが、我ら三河武士の意地、筑前の鼻柱に叩き込んでやりましょうぞ!」
「落ち着け。勇むのはよいが、浮き足立つな」
家康は、意気込む家臣達の心を抑えるように、静かに手を挙げた。
「奴は、簡単に勝てる相手ではない。(本多)正信、直ちに使者を走らす。紀州の雑賀・根来、長宗我部、佐々、さらには毛利、上杉にもだ。秀吉に不満を抱くすべての牙を、奴の背後に向かせねばならん。包囲網を築き上げ、徹底的に叩く」
「忠次、清洲へ使いを走らせる。返答は『承知』だ。ただし...信雄様には条件を一つ、飲んでいただく」
家康は、ゆっくりと言葉を続けた。
「我らは…信雄様を立てる。その代わり、信雄様には神輿から降りぬことがないよう、しっかりと退路を断っていただかねばならん」
尾張・清洲城 織田信雄
「はっ。我が主は、信長公の御嫡流たる信雄様を、全力でお支えする所存にございます」
尾張・清洲城の広間には、久しぶりに晴れやかな笑い声が響いていた。
「……おお、徳川殿が! まさしく余に味方すると申すか!」
浜松からの使者・酒井重忠を前に、織田信雄は扇子を叩き、身を乗り出した。
その瞳は、まるで欲しかった玩具を手に入れた子供のように輝いている。
(勝てる。これで、あの小癪な猿をぎゃふんと言わせてやれる!)
胸のすくような思いだった。
徳川という『織田の番犬』さえ手なずければ、羽柴など恐るるに足らん。
信雄の脳裏には、数多の兵を連れた徳川家康が自分の前に平伏し、その威光を背に自分が京へ乗り込む光景が浮かんでいた。
(猿め、父上に拾われた分際で余を蔑ろにしたこと、泣いて謝っても許さぬぞ)
「我らは、織田家の同盟者として、不義の徒を討つ覚悟にございます」
重忠の立て板に水流すような口上に、信雄は満面の笑みで頷いた。
「左様か! やはり徳川殿は律儀者よ。父上が最も頼りにしていただけのことはある。徳川殿が味方してくれてるのであれば、羽柴など恐るるに足らん。猿の鼻柱を叩き折り、己の分を分からせてやるのだ!」
信雄は高笑いした。
これまでの鬱屈が霧散していくような快感。
しかし、重忠の表情は、冬の氷のように固まったままだった。
「一つ、我が主よりの『お願い』がございます。筑前守を討つ大義を天下に示すため、まずは尾張の身辺を清めていただきたい」
「身辺を清める? 何のことだ?」
「筑前守と内通している三家老、岡田重孝、津川義冬、浅井長時。この三名の首を、撥ねていただきたいのです」
信雄の笑みが、凍りついたように消えた。
「……何だと?」
信雄は耳を疑った。
三人の顔が、信雄の脳裏を駆け巡る。
彼らは父・信長の頃よりの重臣であり、信雄の幼少時から側にいた者たちだ。
巷では、彼らが筑前に鞍替えし、筑前の命を受けて余を傀儡にしようと企んでいると噂されている。
内心ではまだ「余を裏切るはずがない」という思いが残ってはいるが、そのような諫言が後をたたないため、近いうちに家老を罷免し遠ざけようとは思っていた。
しかし、殺すことまでは考えていなかった。
「殺せというのか…それは、できぬ。奴らは余を幼少より支えてきた者たちだ。疑いがあるというだけで殺すなど…」
「左様にございますか」
重忠の目は、信雄を試すように据わっていた。
「ならば、徳川は兵を出せませぬ。彼らを生かしておけば、背後から撃たれるのは徳川にございます。身内の不浄を断てぬお方に、命を預けられぬと……主は、そう申しております」
冷たい沈黙が広間を支配する。
信雄の脳裏には、三人の顔がよぎっていた。
余の我が儘を笑って許してくれた、あの懐かしい顔。
しかし、もしここで断れば、徳川の加勢は消える。
そうなれば、ただ一人で、あの秀吉と対峙せねばならない。
広間の静寂が、信雄の首を絞めるように重くのしかかった。
三人の懐かしい笑顔を、恐怖が塗りつぶしていく。
「…相分かった。徳川殿の、言うとおりにしよう」
信雄は、絞り出すようにそう告げた。
その瞬間、彼の胸の奥底に、得体の知れない「どす黒いもの」が湧き上がった。
それは、己の家臣を殺させようとする家康への、言葉にならない不信感。
そして、弱みに付け込まれて手足を捥がれるような、耐え難い嫌悪感。
家康を「番犬」と呼んで侮っていたはずの無邪気な心は、いまや鋭い棘で傷だらけになっていた。
(家康……其方もまた、余を操るのか)
喉の奥にこみ上げてくるのは、吐き気を催すような鉄の味だった。
信雄は、膝の上で震える拳を隠すように、強く、強く握りしめた。
これから始まる戦いが、自分にとっての救いなのか、それとも地獄の始まりなのか。
彼にはもう、分からなくなっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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