第116話 主従の終焉 ――織田体制との決別
天正12年(1584年)正月 近江・三井寺 羽柴源一郎秀成
琵琶湖から吹き付ける凍てつくような寒風が、近江・三井寺の境内を吹き抜けていた。
長浜から駆けつけた私は、冷え切った広間の末席で、歴史が後戻りのできない破局へと向かう瞬間を、息を殺して見つめていた。
上座で青白い顔をして座っているのは、織田信雄。
そしてその対面には、私の伯父、羽柴筑前守秀吉が、普段の愛嬌を削ぎ落とした、岩のように冷たい表情で座っている。
私は秀吉の冷たい目に恐怖を覚えながら、信雄の背後に控える護衛たちへ視線をやった。
そこには、本来ならば信雄様を最も近くで支えるべき重臣――岡田重孝、津川義冬、浅井長時の三名の姿はない。
年が明ける前、秀吉は信雄の家老である彼ら三名と、滝川雄利の四名を大坂に招いた。
そして会談の末に、羽柴への忠誠を誓う起請文を強要した。
その結果、滝川雄利のみが署名を拒絶して逃げ帰り、あろうことか「三名は秀吉に寝返った」と信雄に報告してしまった。
自分の手足となるべき家老たちが、羽柴に籠絡された。
そのことに怒り狂う信雄と秀吉をなんとか和解させようと、池田恒興と蒲生氏郷が、両者の話合いの場を設けたのが、今回の会合だ。
「ですから、幾度も申し上げております通り、織田と羽柴の間には何の遺恨もございませぬ」
「すべては些末な行き違いに過ぎず…」
両者の間では、池田恒興と蒲生氏郷が、何とか場を丸く収めようと必死に弁を振るう。
恒興は、先日、娘を秀吉の甥・三好信吉の妻に出し、羽柴と縁戚関係となった。
ここで両者が決裂すれば、織田の宿老としての面目も、羽柴との絆も同時に失いかねない。
一方の氏郷は、亡き信長公の娘婿だ。
織田の血筋を絶やすまいという忠義と、領地である伊勢亀山を戦火から守りたいという思いが、その必死な口調から伝わってきた。
だが、秀吉の目は、すでに彼らを見ていなかった。
業を煮やした信雄が、震える声を絞り出した。
「……筑前、単刀直入に問う」
「大坂に招いた岡田、津川、浅井に、羽柴への忠誠を強いたのは事実か。滝川の話では、其方は、自らへの忠誠を誓う起請文を要求し、余を孤立させようとしているというではないか!」
秀吉は、のらりくらりと、しかし酷く冷ややかに笑った。
「忠誠? 滅相もございませぬ。彼ら三名が、今の織田家の行く末を案じ、羽柴と手を携えたいと願い出たのです。某は、織田と羽柴の絆を盤石にしたいという彼らの思いを、無下にはできなかった…ただ、それだけのことにございます」
「嘘をつけ! 奴らは余の家臣だ! それを籠絡し、余を傀儡にするつもりだろう!」
信雄の叫びに、秀吉の顔に微かな笑みが浮かんだ。
「傀儡、でございますか」
低い声が広間に響き、池田、蒲生の二人が息を呑んだ。
「信雄様。誰のおかげで、柴田勝家を討ち、伊勢・尾張を安堵されたとお思いか。某は大殿への御恩に報いるため、私欲を捨てて戦ってきたのです。それを傀儡などと……恩を仇で返すとは、このことにございますな!」
「なっ……」
「それほど某が信じられぬのならば、もはや言葉を重ねる意味はございませぬ。ああ、何という悲劇か!」
「亡き大殿には、海より深き恩こそあれ、怨みなど微塵もございませぬ! それなのに……あぁ、それなのに!」
秀吉は床に手をつき、悲痛な声で叫んだ。
「信雄様は、この藤吉郎を密かに殺そうと企んでおられる! 大殿の御恩に報いようと粉骨砕身してきた某を、亡きものにしようとなさっているのだ!」
秀吉は突然、大粒の涙を流し始め、床を叩いて慟哭した。
「な、何を馬鹿なことを!」
信雄が弾かれたように身を乗り出し、顔を真っ赤にして否定する。
「誰がそのような途方もない嘘を吹き込んだ! 余は其方を殺そうなどとは企んでおらぬ! 何を勘違いしておる、筑前!」
恒興殿らが狼狽して宥めようとするが、秀吉はそれを振り払う。
「数日前、某は夢を見たのです。信雄様がこの藤吉郎を殺そうと、枕元に刺客を送り込む恐ろしき夢を。某の夢は、昔から決して外れぬ正夢にござる」
「ゆ、夢だと……? たっ戯言を言うでない!」
「戯言ではございませぬ! 信雄様が某を逆恨みしている今、その夢はもはや『確信』へと変わり申した…信雄様、貴殿は今、この瞬間もこの藤吉郎を殺そうと考えておられるはずだ。某を殺し、羽柴を滅ぼそうと!」
広間にいた全員が、絶句した。
天下の行方を左右するこの重大な場で、堂々と「お前に殺される夢を見た」と言い放ったのだ。
これでは論理も理屈も通用しない。対話など最初から成立しない。
池田恒興も蒲生氏郷も、あまりの理不尽な言い分に口を開けたまま固まっている。
信雄に至っては、怒りと恐怖で唇をわななかせ、言葉すら発せなくなっていた。
(……理屈ではない。これは、秀吉による『絶縁状』だ)
私は、信雄の反応を注視した。
織田家嫡流という強い自負を持つ信雄にとって、この理不尽な物言いは烈火のごとき怒りを呼び起こしたようだった。
「筑前。其方、正気か?」
信雄様の声は、怒りで低く震えていた。
「余を誰だと思っている。天下の主、織田信長が嫡子なるぞ。その余に向かって、夢想の戯言で殺しの疑いをかけるとは…家臣の分際で、あまりに度を越した無礼であろう!」
信雄にとって、秀吉はいまだに父・信長に拾われた「猿」に過ぎない。
どれほど羽柴が台頭しようとも、織田の血を引く自分こそが主であり、秀吉はその手足であるべきだという思いが頭から離れることはない。
「無礼、と仰せられますか!」
秀吉は床を叩き、芝居がかった慟哭をさらに激しくした。
「某はただ、刺客からこの身を守ために、こうして涙ながらに訴えているのです! それを無礼とは……もはや織田の家中に、この藤吉郎の居場所はございませぬな!」
「黙れ! 其方の浅ましい狂言など聞きとうないわ!」
信雄は吐き捨てるように立ち上がった。
「池田、蒲生、よう見よ。筑前はもはや狂うた。夢と現の区別もつかぬ男に、織田の政道を任せるわけにはいかぬ。三家老の件もそうだ。奴らが其方に起請文を書いたというのも、どうせ其方が脅し、騙したに違いあるまい!」
信雄は、秀吉の行動を「愚かな小細工」と断じ、その背後にある権力掌握の才を完全に見誤っていた。
「……もはや、某を殺そうと企む者と、和睦などできませぬ。これにて御免!」
秀吉は涙を拭いもせず、侮蔑を含んだような薄笑いを一瞬だけ浮かべ、足早に退室した。
後に残されたのは、怒りで肩を震わせる信雄と、沈痛な面持ちの池田と蒲生であった。
「……案ずるな、恒興。あのような狂った猿、一度叩いて分を分からせてやればよいのだ」
信雄は、自分を正義と信じて疑わない様子で、高らかに言い放った。
「戻るぞ! 長島へ戻り、織田の威光を天下に見せつけてやるわ!」
(……終わった)
私は、膝の上で固く拳を握りしめた。
信雄は、秀吉の術中に自ら飛び込んでいったのだ。
彼は今、秀吉を「恐るべき強敵」ではなく「分をわきまえぬ愚かな家臣」だと見誤っている。
血筋という虚飾にしがみつく男が、本物の怪物に飲み込まれる。
その破滅への秒読みが、今始まった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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