第112話 女の戦い
天正11年(1583年)9月下旬 京・柴田勝豊邸 お市の方
お市の方
二人が顔を見合わせたんまりと笑い合った後、少し、会話に間ができた。
すると、ねね殿の纏う空気が微かに変わった。
座を正し、膝をわずかに進め、ひっそりと言葉を発した。
声の調子は一段低い。
「お市様。茶々様は亡き信長公の面影を色濃く宿し、類まれなる美姫に育っておられると伺っております。これから先、邪な野心を抱く男たちが、その美しさと織田の血筋を狙って狼のごとく群がるでしょう」
ねね殿の真っ直ぐな視線が、私の瞳を射抜く。
「大名のみならず、名家や公家……そうした方々から正式な申し出が届いてしまえば、後から抗うのは難しゅうございます。今が、楔を打ち込む好機にございます」
そして、一呼吸置き、ねね殿が淀みなく告げた。
「...茶々様を、源一郎秀成の正室に迎えさせていただきたいのです」
私は息を呑み、言葉を失った。
あまりに直截な申し出に、戸惑いの色が隠せなかった。
ねね殿は構わず、諭すように言葉を重ねる。
「織田と羽柴の間に不穏な風が吹く今、中立を保つのはかえって危うい『悪手』にございます。どちらにも付かぬ立場は、双方から利用される隙を与えるだけのこと。どうか、羽柴を……いえ、私と美濃守殿(秀長)を信じ、身内となっていただきたいのです。それがお市様と姫君方を守る、最大の盾となりましょう」
「源一郎殿を? しかし、まだ九つでは?茶々とは六つも離れております。何より、源一郎殿ならば他家からもっと良い縁談が引く手数多でしょう」
私は、戸惑いながら何とか言葉を紡いだ。
「年齢の差など、あの子の才覚と、これから共に過ごす月日が必ずや埋めてくれましょう。何より、源一郎殿は茶々様にとっての命の恩人。いつか他家の見知らぬ男に駒として嫁がされるより、身内として、姉弟のように育ちながら縁を深める方が、姫の心もどれほど安らぐことか」
ねね殿は、さらに私の方への膝を擦り寄せた。
「悪いようにはいたしませぬ。このねねが、命懸けで皆様をお守りいたします。美濃守殿も同じ思いでございます…源一郎殿は、浅井の重臣であった磯野員昌殿の孫。周囲には北近江ゆかりの家臣も多うございます。北近江で育たれた茶々様にとって、これほど居心地のよい場所は他にございません」
私は、ねね殿の「覚悟」を悟った。
これは、ただの政略結婚ではない。
三介殿や筑前守、果ては世の男どもの際限のない欲望から、私と幼い娘を、そして羽柴家そのものを守ろうとする女の戦なのだ。
私の脳裏に、かつての故郷・小谷の記憶が過った。
「…今も目と瞑ると、小谷の山を渡る風と匂いが蘇ってきます。あの城で、かつて夫と過ごした日々の眩しさ……まだ四つだった茶々が、父の腕の中で屈託なく笑っていた顔が今も目に浮かびます」
私の瞳に、堪えていた熱いものが滲む。
「あの日以来、あの子の瞳から本当の輝きが消えてしまったように思います。あの子に人並みの幸せを……あの時こぼしていたような心からの笑顔を、取り戻してやりたい。それが母としての願いです」
私の震える手を、ねね殿が両手でそっと包み込んだ。その手は、温かく慈しみに満ちていた。
「……これはここだけの話でございます。今生まれた松若が無事に一年を過ごすことができた暁には、源一郎殿を自分たちの養嗣子に迎えるつもりでございます。そうなれば、源一郎殿は羽柴の正嫡……織田と浅井の血を次の世の中心に残すことができます」
ねね殿は最後に、声を潜めて秘中の言葉を口にした。
沈黙が、奥の間を支配した。
庭の蹲に水が落ちる音だけが響く。
「源一郎殿を……羽柴の跡継に……」
「はい。あの子ならば、茶々様を単なる政略の具ではなく、生涯の伴侶として、慈しみ守り抜くでしょう」
ねねの言葉には、天下人の妻としての計算ではなく、一人の母としての切実な響きがあった。
私たちの齢は、ほぼ同じ。
戦国の世という荒波に翻弄され、それでもなお、前に進んでいかねばならない女としての重荷も、きっと同じ。
男たちが領地を奪い合い、誰に付き、誰を倒すのかと騒ぐ外の世界が、ひどく遠く空虚なものに感じられた。
私たちは子供たちの健やかな成長を願い、幸せな「明日」を祈る。
これは、静かで、そして何よりも強かな女たちの『戦』なのだ。
目の前のこの女性は、その戦を共に戦い抜くための、唯一無二の同志なのだ。
ねね殿の手をそっと見つめる。
その手は、家族を食わせ、励まし、時に叱り飛ばしてきた、生きていくための強さを持った手だ。
私はその温かな手に、自分と、そして茶々たちの運命を預けたいと願った。
私は、ふっと肩から力が抜けるのを感じ、自然と微笑みが浮かんだ。
「ねね殿。貴女様の仰ること、よく分かりました…源一郎殿の、あの優しい瞳を信じましょう。茶々の未来、源一郎殿に託させていただきます」
ねね殿は、今日一番の笑顔を浮かべた後、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。では、この話は当面、私とお市様、そして勝豊殿の胸の内だけに留めておきましょう。修理亮殿の喪が明け、時節が来ましたら、私から殿に『内々に話をつけておきました』と、有無を言わさず納得させておきますゆえ」
「まぁ。筑前殿は、さぞ渋い顔をされるでしょうね」
私がそう言ってくすりと笑うと、女二人の視線が重なり、共に声を出して笑った。
男たちが戦場で干戈を交え領地を奪い合うその裏側で、女たちは、次の時代の礎を築いていた。
その一手が、羽柴という家を、そして天下の形を根底から変えていくことになる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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