第111話 羽柴の母、織田の姫
天正11年(1583年)9月中旬 京・勝豊邸 ねね・お市の方
源一郎が長浜に戻り、領内の地盤固めに奔走し始めた頃。
近江から遠く離れた京の地では、羽柴の行く末を決定づける静かな布石が打たれようとしていた。
京の空は、台風一過を思わせる抜けるような初秋の青に澄み渡っている。
洛中の喧騒を逃れた先にある、静かな寺院を改修した柴田勝豊の屋敷。
そこには、秋の気配を帯びた涼やかな風が、竹林を揺らして吹き抜けていた。
ねねは供を連れ、この屋敷を訪れていた。
先月、無事に出産を終えたお初殿の肥立ちは、驚くほど順調であった。
今では床を離れ、自ら立ち働こうとするほどに快復している。
そして何より、羽柴の血を継ぐ新たな命の誕生と、松若と名付けられた赤子の健やかさが、家中に活気を与えていた。乳をよく飲み、火がついたように泣き声を上げ、手足を力強く動かす。
その赤子の生命力の塊のような姿は、何物にも代えがたい喜びであった。
ねねは、お初殿と松若の様子に問題ないことを確認し、お市の方に直談判にやってきたのだ。
(殿とは、あの日、確かに約束いたしました…茶々姫を、源一郎の正室に、と)
ねねは、真新しい建材と、寺院特有の古びた線香の香りが混じり合う廊下を歩みながら、奥の間に待つ女性に思いを馳せた。
かつては遠く仰ぎ見る存在であった存在、お市の方。
しかし、今では、すっかり立場が逆転してしまった。
草鞋を胸に抱いて這いつくばっていた私たちが、今やお市の方の行く末を差配しているという、残酷な現実。
その方に、この縁組みの話をどう切り出すか。
ねねは気持ちを引き締め、お市の方がいる奥の間へと歩みを進めた。
奥の間に座るお市の方を見た瞬間、ねねは思わず息を呑んだ。
そこには、過去の憂いなど微塵も感じさせない、穏やかで晴れやかな表情を浮かべていた。
ただ前を向いて生き抜こうとする、凛とした美しさのようなものを感じた。
「羽柴筑前が妻、ねねにございます。お市様、まずはご無事で何よりにございます」
深々と頭を下げるねねに、お市の方は静かに応じた。
「ねね殿……よく、お越しくださいました。顔をお上げください。此度は筑前守殿のみならず、貴女様にもお心を砕いていただき、感謝の言葉もございません」
お市の方は、かつて織田の家臣の妻に過ぎなかったねねを、見下すことも媚びることもなく、穏やかに見つめ返し、頭を下げた。
ねねは思った。
(美しい方だ……)
小谷と北ノ庄。
二度の業火をくぐり抜け、死の淵を歩いてきたはずだというのに、このお方の身を包む空気は、かつて清洲の城で見上げていたあの頃と変わらぬ気高さがある。
いや、むしろ悲しみの試練を潜り抜けたことで、凄みを増しているように見えた。
このままにしておけば、世の男共は、己の虚栄を満たすための飾り物として、この方を利用するに違いない。
同じ女として、そんな真似は、絶対にさせてはならない。
今日は、茶々姫と源一郎殿の話をするだけのつもりであったが、お市の方自身のことについても考えねば。
静かに頭を下げるお市様を真っ直ぐに見めながら、ねねは固く決意した。
ねねが、最初に話を切り出した。
「勝豊殿の御加減も快方に向かっているご様子。夫・筑前守をはじめ、美濃守殿と源一郎殿も、安堵しております。何より、お市様と姫君がこうして穏やかな時を過ごされていること、私共にとっても無上の喜びにございます」
「また、此度の慶事につきましても、ご丁寧な祝辞を賜りありがとうございました。お陰様で美濃守殿の奥方も無事に出産を終え、生まれた松若も健やかに育っております」
「まぁ、それは喜ばしいこと。美濃守殿もさぞお喜びでしょう」
お市の方はふっと表情を和らげた。
「勝豊殿より伺っております。私と娘たちが、三介殿(信雄)の思惑に巻き込まれぬよう、美濃守殿が、『柴田の身内』としてこの屋敷で暮らせるよう手はずを整えてくださったと。感謝してもしきれません」
「夫から聞いております。三介殿がお市様と姫君を政争の具に使うことは必定。それを防ぐためには織田に戻さぬようにせねばと。これで良かったのでしょうか?」
「もちろん、良かったと思っています。恐らくその懸念は当たっています。我が甥ながら、あれは思慮が足りません。自らの権勢のため、私だけでなく娘たちも道具にしようとするでしょう。本当に感謝しております」
お市の方の言葉に、ねねは笑顔を浮かべ、大きく頷いた。
「それと、ねね殿の甥御、源一郎殿には、かねてから気に掛けていただいておりました。おかげで、娘たちも随分と気が紛れたようです」
お市の方は、どこか意味ありげな含みを持たせて、ふふっと悪戯っぽく笑った。
ねねは、お市の方の口から「源一郎」の名が、それも親愛の情を伴って出たことに驚いた。
「あの子は少々、大人びておりまして...歳に見合わぬ思慮に驚かさせれることが多うございます」
「長浜で生まれ育ち、北近江の者たちに囲まれて育ったゆえでしょうか、随分と姫君のことに心を砕いていた様子…北ノ庄に向かうお市様と姫様に慰みの品をお送りしたとも聞いています」
「ええ、そうなのです。年頃の娘を相手に、色合いも美しい匂い袋をあつらえて、あえて名も明かさずに贈ってこられたのです。並の若君にできることではございません……ふふっ、なかなかに女泣かせな殿御なこと。つい先日も、この屋敷に大層な品を届けていただきました。城代就任祝いのお裾分けだとか」
「女の扱いを心得ているのは、一体誰に似たのでしょうか…あっ、これは失礼いたしました」
お市の方はわざとらしく口元を押さえ、上目遣いでねねの方を見た。
お市の方が、年頃の娘を持つ「一人の母」の顔で、明るく冗談を口にしている。
ねねは、その姿を見て、胸に熱いものが込み上げた。
自分の夫の「手癖」を暗に揶揄されたような形だが、それは否定しようのない事実だ。
ここではあえて突っ込まず、ねねは愉快そうに肩をすくめて見せた。
「源一郎殿は、真っ直ぐで純真な若君にございます。どこぞの、若い女に現を抜かすお猿さんとは、中身が違います」
ねねが茶目っ気たっぷりに言い放つと、二人は顔を見合わせ、堰を切ったように笑い合った。
お市の方
北ノ庄の城が炎に包まれたあの日、私の命は勝家殿と共に果てるはずだった。
いや、果てねばならぬと思っていた。
しかし、私と娘たちの手を掴み、死の淵から引き上げたのは、羽柴筑前守の弟・美濃守殿と、その嫡男である源一郎殿であった。
義理の息子である勝豊殿から明かされた、「柴田の家を存続させ、織田の政争から私たちを切り離す」という策。
それが羽柴の覇権を盤石にするための理を含んでいることは、私とて理解している。
だが、同時にそれは、これ以上ないほど強固で、そして不思議なほどに温かい盾であった。
誰が命じたわけでもなく、羽柴の身内である二人が、私たちのために知恵を絞り、勝豊殿を動かした。
その事実に、私の胸に、灯火のような温もりが宿ったのを覚えている。
そして今、目の前で、私を気遣い、冗談を言って笑っているねね殿。
彼女には、天下を手にしつつある筑前守の正室としての奢りなど微塵もなかった。
あるのは、厄介な夫を持ち、家の行く末を憂い、それでも愛する者たちを守り抜こうとする、一人の女の姿だ。
(……この方は、ずっとこうして歩んでこられたのね)
自らの夫をお猿さんと呼んで悪戯っぽく笑うねね殿を見つめながら、私はかつての清洲城を思い出していた。
織田の妹として、気高くあることを求められた自分。
足軽から這い上がり、夫の立身出世を支えるために泥を払い、時にその尻を叩いて生きてきたねね殿。
立場の全く違う二人が、今こうして向かい合い、声を上げて笑い合っている。
その事実は、お市の方にとって、もはや屈辱ではなく、安らぎであった。
こんな風に、腹の底から可笑しさがこみ上げ、冗談を言い合える時が、私の人生に再び訪れるなどとは思いも寄らなかった。
(続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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