第110話 長浜の政務と富国の種
天正11年(1583年) 近江・長浜城 羽柴源一郎秀成
昨日、広間で巡らせた重い思考の靄は、すでに頭の中にはなかった。
信吉兄上を守るためには、何よりもまず、足元であるこの長浜の地を盤石にしなければならない。
諸将を納得させる力は、領民たちの豊かな暮らしと、それを基盤とした武力があってこそ成り立つものだ。
身支度を整えた私は、政務を執り行う広間へと足を運んだ。
そこにはすでに、家臣筆頭の小堀正次や羽田正親、片桐且元ら、長浜の内政を支える者たちが顔を揃え、山積みの帳面を前に控えていた。
上座に腰を下ろし、一同を見渡す。
「皆、朝早くからご苦労。さっそく、領内の政務について状況を教えてほしい。まずは、例の薬草園はどうなっていいる?」
小堀正次が答える。
「はい、順調に手配が進んでおります。伊吹山麓にて、日当たりや水はけを考慮して区画を割りました。今の時期に植えられるものを選りすぐって、種や苗を植え付ける段取りをしております」
「薬師が言うには、血を補い冷えを治す『当帰』、鎮痛・鎮静に効く『芍薬』や『牡丹』、そして根が喉の痛みや咳に効く『桔梗』が、ちょうど植えどきとのこと。京や大和周辺から良質な種を取り寄せております」
私は予想外の進展に、感嘆の声をあげた。
「おお! なかなかの進展ぶりのようだな。皆の理解と素早い動きに感謝する。それで、補中益気湯の量産の方は?」
小堀が自身満々な顔で、薬生産の状況を報告する。
「唐や朝鮮から入手せねばならない人参、甘草、黄耆 は堺の商人からまとまった量を入手しております。それ以外に必要な薬草は、近江や京の商人を通じてかき集めております」
「領内に丸薬作りの工房を作り、領民を雇って作業をさせております。ようやく、安定して作れるようになった頃合いでございます。が...」
「が、金がかかりすぎるか」
私の言葉に、小堀は苦い顔で頷いた。
「はっ。商人どもが、こちらが大量に欲していることを察し、足元を見て値を釣り上げてきております。これ以上の増産は、売値を考えると割に合いませぬ」
「分かっている。だが、唐物の薬草はこちらでは育たぬようだからな」
私はそう言うと、国内産業と銀の流出について考えを巡らせた。
乾燥した大地を好む作物は、日本の風土では栽培が難しく、この時代では国内栽培は無理だ。
しかし、現時点で我々が薬草を買い漁るくらいでは、大した財政負担ではない。
それよりも深刻なのは生糸や絹製品の輸入だ。
日本では良質な生糸を取る技術がなく、明から大量に買い付けていた。
これによって、我が国の銀が大量に国外に流出したはずだ。
早急に対策を考えねばならない。
「まぁ、赤字にならぬ範囲で買い付けを続けてくれ」
どうしようもないことを分かっている小堀は、ただ「はっ」とだけ答え頷いた。
そして、小堀は懐から竹筒を取り出し、
「若殿、これをご覧んください」
そう言ってそれを手のひらの上でひっくり返すと、蜂蜜の甘い香りを纏って黒光りする、小指の先ほどの丸薬が転がり出た。
「ほぉ、竹筒に詰めたのか」
私は、小堀の手から筒を受け取った。
「これまでは木箱や袋に詰めていたが、これなら腰に下げて戦場へも持ち込みやすい。泥にまみれても中身が湿らず、一つずつ手際よく取り出せる。実によい工夫だ」
「はっ。使い勝手を第一に考えました」
私は、手のひらの丸薬を一つ指先でつまみ、そのまま口に含んだ。
舌の上に、蜂蜜のほのかな甘みが広がる。
しかし、その直後、鼻を抜ける強烈な生薬の香りと、喉の奥を熱くする独特の苦みが追いかけてきた。
竹筒を小堀に返し、疲れの見える彼の顔をじっと見つめた。
ここ数ヶ月、内政に兵站にと奔走してきた小堀の目の下に、隈ができている。
「随分疲れているな、小堀。今すぐその丸薬を口に含め。後ほど、まとまった量を届けさせるので毎日飲むように。今、小堀に倒れられては、私が困る」
突然の気遣いに、小堀は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに得心したような苦笑いを浮かべた。
「……若殿。それは暗に、今以上に働けという宣告にございますな? 全く、我が主君はどこまでも厳しい」
「ははは、それは勘繰りすぎというもの。得難い家臣の身を案じているだけだ」
「そういうことにしておきましょう。では、ありがたく頂戴いたします」
小堀は手慣れた仕草で丸薬を口に放り込み、無骨に咀嚼した。
その顔が、薬の苦みで一瞬だけ歪む。
見れば、小堀の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
それが生薬の苦さのせいか、あるいは別の理由によるものか、あえて問いはしなかった。
「頼りにしている、小堀殿」
私が笑いかけると、小堀もまた、口元に笑みを浮かべた。
ひとしきり和やかな沈黙が流れた後、私は、懐から大切に持ち帰った小さな包みを取り出した。
「ところで、私も、京での滞在中、南蛮の知識を持つ者から珍しい種と球根を二つほど仕入れてきた。『せいじ(薬用サルビア)』と『蕃紅花(サフラン)』というものらしい」
見慣れぬ名前に首を傾げる小堀に、丁寧に効能を説明した。
「『せいじ』(セージ:薬用サルビアとも呼ばれ強い殺菌作用がある)は、南蛮では『この草が庭にある家から死人は出ない』と言われ、傷口の洗浄や喉の痛みに重宝するらしい。今の時期がちょうど植えどきだ。もう一つの『蕃紅花』(サフラン:室町時代に薬草として日本にも伝わっている。高い鎮静作用がある)は、血の巡りを良し、身体の痛みに効くらしく、特に婦人の病に良く効くそうだ」
「南蛮の薬草でございますか。唐物に頼らぬ新たな手立てとなるやもしれませぬな。さっそく薬草園の区画に加え、大切に育てさせましょう」
私は、小堀の前向きな返答に大きく頷き、言葉を続けた。
「頼む。宣教師から聞き取った育て方を書いた紙があるので、後でそれを確認してほしい」
「…して、もう一つ、『椎茸』の栽培はどうなっている?」
私が問いかけると、片桐は明るい顔つきで頷いた。
「はっ。若君のご教示の通り、クヌギやコナラなどの原木を切り出し、山間の日陰にて寝かせております。もちろん、まだ芽が出る時期ではございませぬが、領民たちも『若君の秘策』とあって、熱心に世話をしております」
「そうか、それは良い。焦る必要はない。来年か再来年の秋を楽しみに待つとしよう」
私はそう言って深く頷いた。
前世の知識を活かした内政の種が、少しずつだが確実に根を張り始めている。
戦乱の世において、食糧の増産と医療の充実は、自領の経済を豊かにし、領民の心を掴む最強の武器となるのだ。
「羽田。伊勢屋宗右衛門に任せてある曲直瀬道三殿への働きかけだが、あれから三ヶ月……そろそろ何らかの反応があっても良い頃合いだな」
長浜の町衆に顔の利く羽田正親に視線を向ける。商人の統括を任せている彼のもとには、いち早く情報が集まるはずだ。
「はっ。つい先日、伊勢屋より報告が上がっております。結論から申せば、道三殿は極めて慎重なご様子」
「千宗易殿の仲介にて、丸薬の現物と若殿の書状は無事に渡りました。当初は『武家の酔狂に付き合う暇はない』と取り付く島もなかったようですが……同封した製法の書付を一読するなり、顔色を変えたとのこと」
「ほう。それで?」
「後日、伊勢屋のもとへ『用いられている生薬や蜂蜜の産地を詳しく知りたい』と、問合せが来たそうです。お抱えの弟子たちも巻き込み、細かく吟味している最中の様子。すぐにお墨付きとはいきませぬが、伊勢屋は確かな手応えを感じているようです」
私は小さく頷いた。
天下の名医が、素性の知れぬ新薬にすぐ飛びつくようでは逆に底が知れる。
徹底的に検証するその姿勢こそが、かえって信頼に値する。
「それで良い。真に価値あるものを認めさせるには手間がかかる。だが、道三殿が首を縦に振れば、それは天下の太鼓判となる」
私は羽田に力強く告げた。
「宗右衛門に伝えてくれ。道三殿やその門弟が欲するものは、できる限り支援するようにと。薬草を調べ、医学の書を紐解くにも莫大な金が要るはずだ。我らの支援で医術の営みを支え、この国により多くの良医を育てたいのだとな」
「ははっ、承りました!」
羽田が、深く力強く頭を下げた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今話は少し過去のおさらいのような内容になってしまいました。
当時の薬や薬草について調べていると、つい一話分を書いてしまいまして。
楽しんでいただけたら幸いです。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。




