第108話 二つの慶事と見えざる亀裂(1)
天正11年(1583年)9月 近江・長浜城 羽柴源一郎秀成
山崎での滞在を終え、約一月ぶりに自身が治める長浜へと帰還した。
湖を渡ってくる風には冷たさが混じり、季節は確実に冬へと向かっていっていた。
しかし、長浜城内を包む空気は、外の秋風を吹き飛ばすほどの活気に満ちていた。
私は、広間に集まった家臣たちの前で、明るい声を張り上げた。
「皆、山崎での不在中、首尾よく政を進めてくれて感謝する…さて、既に文で知ってはいるだろうが、改めて皆に知らせる。母上が、無事に男児を出産された。私の弟となる。母子ともに、至極健勝だ」
その瞬間、広間が沸き立つような歓声に包まれた。
「誠におめでとうございまする、源一郎様!」
「これで羽柴の家も、いよいよ安泰にございますな!」
家臣たちが、まるで自分の息子や弟が生まれたかのように顔を綻ばせ、隣の者と手を取り合って喜んでいる。
「名は『松若』と決まった。常緑の松のように粘り強く、末永く羽柴の家を支える柱となってほしい。そんな願いを込めて、父上が名付けられた」
「伯父上は、喜びのあまり絹の産着を二百枚、名刀と名馬を用意させようとして、ねね様に嗜められていたが」
私がそう付け加えると、広間はどっと大きな笑いに包まれた。
そして、まず家臣筆頭の小堀正次が最初に言葉を発した。
「筑前様らしいですな…しかし、源一郎様。親族の少ない我が羽柴家にとって、この上ない慶事にございます。筑前守様や美濃守様の御喜びも、さぞかし、ひとしおでございましょう」
その言葉に、周囲の者たちも深く頷いている。
羽柴家は、急速に天下の表舞台へと躍り出た。しかし、それを支える血縁の枝はまだ細い。
そこに新しい「松の若木」が加わったことは、ここに集う家臣たちにとっても、自分たちの奉公が報われた気がするのだろう。
「松若様がそれほど健やかであるならば、さらに多くの弟君、妹君を期待してしまいますな!」
「左様。美濃守様もまだお若い。長浜の城が子供たちの声で溢れかえる日も、そう遠くはありますまい」
気の早い羽田正次、本多俊政の軽口に、私は苦笑いしながらも、胸に温かいものが込み上げてきた。
(養嗣子の件や、茶々様との縁組みについては……父との約束もある。今はまだ話す時ではないな)
(この純粋な喜びを皆で分かち合うだけで十分だ)
私は内心でそう呟きながら、皆の喜びの声を心地よく聞いていた。
ふと横に視線をやると、近くに控えていた祖父・磯野員昌と目があった。
「お祖父様、おめでとうございます。孫が生まれました。山崎の奥も今は落ち着いているはずです。折を見て、ぜひ顔を見に行ってやってください。母上も、お祖父様の顔が見えればきっと喜ぶことでしょう」
私の言葉に、員昌は一瞬だけ目を泳がせ、すぐに生真面目な顔を作って咳払いをした。
「……源一郎殿。お言葉ですが、某はこの長浜を守る将。私情で役目を離れるなど、武士の範としていかがなものかと」
いかにも質実剛健な彼らしい断り方だったが、その手は落ち着きなく膝の上で何度も握り直されている。
私には、その建前の裏にある、孫の顔を見たくてたまらない祖父としての顔が透けて見えた。
「お祖父様、そう固いことを仰らずに。この先、いつ戦が始まって身動きが取れなくなるか分かったものではありません。行ける時にしっかりと、その目に新しい命を焼き付けておくべきだと思います。それが、これから戦場に立つ武士にとっての、何よりの糧となるのですから」
諭すようにそう告げると、祖父はなおも「しかし……」と何事か呟き、困ったように白い眉を寄せた。
周囲の家臣たちが「何を仰いますか、磯野殿!」「我らが留守は守りますゆえ!」と囃し立てる。
「…ふん。皆がそこまで申すのであれば、これも主命として、致し方なく赴くとするか」
員昌は渋々といった表情を無理に浮かべ、不機嫌そうに口をへの字に曲げてみせた。
だが、その目元は隠しきれぬ喜びに緩み、蓄えた髭の奥で口角が小刻みに震えている。
(全く、わかりやすい方だ)
政略や内政に頭を捻る日々も悪くはないが、目の前で強面な老武士が孫と娘に会える喜びを必死に隠している姿を見るのは、それ以上に胸にくるものがある。
「お祖父様。山崎へ行くなら、私からの出産祝いを持って行っていただけませんか?後で伊勢屋を呼びますので、一緒に品定めをいたしましょう」
「……お前がそこまで言うのなら、断るわけにもいかんな」
そう言って、ようやく員昌が(本人としては隠しているつもりだろうが)満面の笑みに近い顔で頭を下げた。
広間に再び笑い声が広がる。
弟の誕生祝いの話が落ち着いた後、私は、もう一つの慶事について口を開いた。
「あともう一つ、祝い事がある。いよいよ池田恒興殿の姫君が、信吉兄上の元へ輿入れされるそうだ」
その言葉に、控えていた側近たちの間に微かな緊張が走った。
元織田家の宿老であり、今や羽柴陣営において美濃十三万石を治める重鎮・池田恒興の娘と、実子のいない羽柴筑前守の最年長の甥との縁組。
これが意味する政治的な重大さを思案しているのか、広間に沈黙が広がった。
私は、構わずに言葉を続ける。
「山崎の戦いの折、伯父上と池田殿の間で交わされた約定だそうだ。美濃の領国も落ち着き、いよいよ手筈が整ったのだろう」
すると、すっかり私の側近に落ち着いた片桐且元が口を開く。
「宿老である池田殿が、信吉様の義父となり、後ろ盾になると…つまり、次代の羽柴の中核に池田殿が食い込んでこということですか」
片桐の言葉を皮切りに、重苦しい沈黙が破られた。
小堀が、眉間に深い皺を寄せて同調する。
「左様ですな。池田家という強力な外戚を得ることで、信吉様のお立場は間違いなく強固になる...」
その隣で、古参の羽田が冷静な分析を口にした。
「……血筋で言えば、信吉様は筑前守様の最年長の甥。しかし、先の賤ヶ岳でも河内に留まり、いまだ三好姓のままでございます。片や我らが源一郎様は、美濃守様の御嫡男としてこの長浜を治め、これまでに数々の武功を打ち立ててこられた。心配は無用にございましょう」
「私もそのように考えます。池田殿が後ろ盾となろうが、その事実は変らず、源一郎様のお立場を脅かすものでございません」
片桐が、私の方を横目でチラッてから答えた。
(続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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