第104話 巡り着いた香り
天正11年(1583年)8月下旬 山城・山﨑城 羽柴源一郎秀成
父との話を終え、自室に戻った私は、しばらく沈黙の中に身を沈めた。
開け放たれた縁側の向こうでは、沈みかけの陽の光が、淀川の水面を赤く照らし出している。
「茶々との縁組み……ついに、ここまで来たか」
その名を呟くと、胸の奥に熱が広がるのを感じた。
かつて、新しい人生の指針を定めた際、帳面を広げながら彼女の運命を思い巡らせたことがあった。
まだ、本能寺の変が起こる前。
顔も声も知らない、ただ歴史の中で知っている少女のことを何度も考えた。
浅井長政の娘にして、やがて秀吉の側室となり、豊臣を滅亡へと導く茶々、淀君。
私は、彼女のことを政権の中枢に抱え込むにはあまりにも危うい爆弾として見ていた。
あの時、自分に問いかけた三つの選択肢を思い出す。
遠ざけるか。
始末するか。
それとも、私が妻として抱え込むか。
羽柴の未来を盤石にするため、もっとも適当な選択肢は私の妻にすることだと考えた。
一方で、彼女を歴史という結果で判断せず、今を生きる真の姿を見て決めようとも思った。
もし碌でも無い人物なのであれば、その時、別の選択肢を考えようと。
昨年の秋、長浜の町衆の名を借りて贈った匂い袋。
長浜に、お市の方と姫君のことを気にかけている者がいることを知らせ、不安を軽減したいと思ったことは本心だったが、それが全てではなかった。
彼女達に、北近江にゆかりを持つ私の存在を知らせ、いつか来るべき時のために縁の糸を繋いでおくという、打算的な思いもあった。
賤ヶ岳の戦いの後。
本来ならば勝家とともに死ぬはずだったお市の方が生き残り、長浜で初めて対面したあの時。
私の目の前にいたのは、私が恐れていた女性などではなかった。
妹のお江に、
『えっ?一番喜んでいるのは姉様でしょう?こんな綺麗な色を選ぶ御方ってどんな方だろうって』
と暴露され、耳を真っ赤に染めながら狼狽えていた姿。
『えっええ……素敵な贈り物に感謝いたします』と、消え入りそうな声で恥じらっていた横顔。
それは、歴史で知る傲慢で狭量な淀君の姿ではなく、凄惨な落城を生き延び、慣れぬ土地に不安を抱く母や妹たちを気遣い、気丈に振る舞いながらも見知らぬ贈り主に淡い想いを抱く、純真な少女の姿だった。
もう、茶々を恐れる必要はない。
史実の彼女は、あまりに過酷な運命を辿った。
母を失い、乳母や近臣たちが蠢く大坂城の奥という空間で、我が子のために豊臣の権威を守ることだけを生きがいに生きた女性。
彼女を歪ませたのは、彼女自身の気性ではない。
彼女を取り巻く政の毒だ。
その毒は、すべて私が引き受ければいい。
そして、史実の茶々の傍らには、乳母である大蔵卿局がいた。
彼女は愛息・大野治長と共に大坂城で絶大な権力を握り、主君への忠誠心ゆえか、あるいは自身の野心のためか、強硬な姿勢で豊臣を滅亡へと加速させた影の主役とも言われる。
だが、この世界線は違う。
茶々の実母・お市の方が健在だ。
権力に執着する乳母や、甘言を弄する側近が口を挟む隙などない。
お市の方が「母」として健在である限り、茶々が歪んだ情念に支配されることも、周囲の増長を許すこともないはずだ。
(お市の方を味方につけ、支える。それこそが茶々を守ることにつながる)
今の彼女は、母の暖かな光の中にいる。
その光を、一時のまどろみで終わらせてはならない。
私は縁側の向こうに広がる茜色の空を見つめながら、改めて自分に言い聞かせた。
それは、羽柴の悲惨な未来を回避し、家族を守るという目的のためだけではない。
前世では知ることができなかった、誰かと心を通わせ、共に歩み、温かな日々を築き上げるというささやかな幸せ。それを、他でもない彼女と共に生きて、手にしてみたいと思った。
歴史の傍観者としてではなく、この時代に生きる一人の男として、心の底からそう願っていた。
政略の色が強い縁組なのかもしれない。
打算の匂い袋が結んだ糸かもしれない。
しかし、あの日、長浜の風に乗った香は、巡り巡って、今、私の下に届いた。
本来、結ばれるはずのなかった縁が、私の蒔いた小さな種によって、太い糸となって結ばれたのだ。
<作者の一言>
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回の話は、これまで物語の中で描いてきた「茶々の未来をどうするか」という大きな懸案へのひとつの答えであり、長く仕込んできた伏線の回収話でした。
とくに、第47話・48話で登場した「匂い袋」のエピソードは、今回のこの結末をイメージして書いたものです。
あの時、匂い袋の香りと共に手渡した打算という名の細い糸が、巡り巡って、時間をかけて主人公自身の願いへと変わり、切れない太い糸として結ばれる。
このシーンを書きたくて物語を紡いできたので、無事にここまで書き進めることができて、作者としても感無量です。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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