第102話 伸びゆく竹、千年の松
天正11年(1583年)8月下旬 山城・山﨑城 羽柴秀長
部屋に入ると、微かに焚かれた香の香りが小一郎を迎え入れた。
行灯の柔らかな灯りの向こうで、お初が愛おしそうに腕の中の小さな塊を見つめている。
「……ただいま戻った、お初。大儀であったな。お主も赤子もともに無事で何よりだ」
「殿……お帰りなさいませ」
お初は顔を上げ、深い安堵と至福に包まれた微笑みを浮かべた。
その目には、戦国の妻として無事に男子を産み落とし、夫の血を繋いだという重責を果たした涙が微かに滲んでいる。
秀長は、その傍らに静かに腰を下ろし、赤子の寝顔を覗き込んだ。
生後二週間余り。生まれたての赤くしわくちゃな猿のような顔から、乳をよく飲み、ふくよかな丸みを帯びた姿へと変わりつつある。
甘い乳の匂いが漂う中、時折ぴくぴくと動く小さな唇に、秀長は分かち難い血の繋がりを感じていた。
「兄者も、羽柴の男子が誕生したと、大層喜んでおったわ。でかしたな、お初」
「もったいないお言葉にございます……ですが、殿のお顔を見られて、ようやくほっといたしました」
お初は、赤子を包む産着をそっと整えながら、ふふっと小さく笑った。
「この子、殿に似て、どこか頑固そうな顔をしておりませんか?」
「左様か……わしが頑固と思われておったとは意外だな」
秀長が赤子を起こさぬように声を潜めて笑うと、お初も袖で口元を隠して静かに笑い声を立てた。
「だが、良い。この乱世を生き抜くには、それくらいの頑固さがちょうど良いわ」
秀長は、硬くひび割れた自らの大きな指を伸ばし、赤子の柔らかい頬にそっと触れた。
そのあまりの温かさと脆さに、指が震えた。
「お初、この子の名だが」
お初が身を乗り出すようにして、期待に満ちた目で夫を見つめる。
秀長は、赤子から目を離さぬまま、静かに言った。
「『松若』だ」
「松……若……」
「そうだ。松はどの季節でも青々とした葉を落とさず、千年の時を保つと言われる。兄の竹若(源一郎)が真っ直ぐ天に伸びる勢いなら、この子は羽柴の繁栄を永劫に支える不変の礎となってほしい……そう願った」
「松若……良い名にございますね。風雪に耐え、常に瑞々しき緑を保つ。我が家にとって、これほど頼もしい名はございません」
お初は感極まったようにポロポロと涙をこぼし、眠る松若を見つめた。
「ああ。お前がこの子を産んでくれたおかげで、我が家の根は、より一層、大地に深く、強く張られたのだ」
小一郎はその妻の細い肩を抱き寄せた。
翌朝
秀長は嫡男・秀成と広間で向かい合っていた。
五月末、賤ヶ岳の戦勝の報告のため、この山﨑城を訪れ、お初に烈火の如く怒られて以来の再会だ。
秀成は長浜城主として北近江の政務を預かっているからか、わずか三ヶ月の間ではあるが、少し成長しているように見えた。
「源一郎。長浜の様子、伝え聞いている。よくやっているようだな」
「はい、ありがとうございます、父上。優秀な家臣を多くつけていただきましたので、彼らが政務を動かしてくれてます。私は、神輿に乗っているだけです」
「そんなに謙遜する必要はあるまい。検地に乗り出し、薬草栽培や薬製造など新しい産業を興そうと奮闘していると聞いておる。領民にも、慕われておるようだな。よいことだ」
定期的に、小堀や羽田など家老衆が、文で政務の内容を知らせてくる。
城代として、本当に上手くやっているようだ。
褒め称える内容ばかりだが…奴らは源一郎に対して盲目なところがあるからな。
「そういえば、大坂で伊勢屋と会った。また儲け話をいただいたと感謝しておったぞ。それと、城下に店を構えたいそうだ。中心部の良さそうなところに店を出せるよう口利きをしてやった」
「はははっ、そうですか。薬草園を任せようと思っていますので。まぁ取らぬ狸にならねばいいのですが」
「天下の城下町への出店に口利きをしてもらったとなると、出産祝いは派手なものになりそうですね」
秀成がそう言って大きく笑った。
(確かにそうだ)
(伊勢屋としては、羽柴、特に私(秀長)や秀成とのつながりを世間に喧伝する絶好の機会)
(大枚を叩いて祝いを用意するだろう)
「祝いの品だ。遠慮なくいただくことにしようか」
秀長がそう言うと、秀成は笑いながら言葉を返した。
「ふふふっ、伊勢屋の儲けは我らのおかげ。それは彼らも十分にわかっているでしょう。それに、これからさらに儲けが大きくなるのが見えています。持っている全ての財産を吐き出してでも祝いを持ってくるでしょう。後で元を取った上で、お釣りがでますから」
秀成が口元に笑みを浮かべている。
この子は、銭の流れというもの、商人というものがわかっている。
「その通りだ」
秀長は深く頷き、茶をひと口すすった。
「槍や刀で奪い取れる領地には限りがある。だが、銭と物の流れを握れば、戦わずして天下の富をこの手の中に集めることができる。兄者が大坂を本拠に定めたのも、まさにそれゆえだ」
「堺や京の商人たちも、大坂の普請によって巨万の富が動くのを目の当たりにして、目の色を変えております。彼らは最早、織田の旧臣や毛利の動向よりも、我ら羽柴の機嫌を損ねることを恐れているでしょう」
秀成は涼やかに答えた。
「……見事なものだ」
秀長は思わず、感嘆の吐息を漏らした。
武人としての勇猛さを重んじる古い思考の者たちには、この銭と利の恐ろしさは理解できまい。
(……これで良い)私は胸の内で深く頷いた。
(松若という次男が生まれ、私の家系は絶える心配がなくなった)
(秀勝様をどう処遇するかなどという懸念すら、源一郎のこの成長ぶりを見れば、いずれ時が解決する些事のように思えてくる)
「よし。ならば伊勢屋の祝いがどれほど積まれるか、二人で楽しみに待つとしよう」
「はい!しかし、伊勢屋よりも伯父上のはしゃぎ振りの方が心配ですが...」
秀成が困った表情で呟いた。
「ああ、聞いておる。絹の産着を二百着、領内で餅まき、粟田口と正宗の刀だったか。ねね殿が諌めてくれたようだが、兄者のことだ、豪勢なことを考えていることだろう。皆に迷惑をかけなければいいのだが」
秀長がそう言うと、自然と二人の目が合い、くすくすと笑い合った。
「その件は、ねね殿に任せることにしよう。あとで話をしておく」
「それはそうと、源一郎は、西国のことはどこまで知っておる?」
秀長の目が、武将のそれへと変わった。
西国――すなわち、毛利との国境交渉と、最前線に立つ宇喜多家の差配のことである。
「賤ヶ岳の戦いが終わってすぐ、伯父上が毛利に対して、宇喜多と国境を接する『美作・備中・伯耆』の三国を割譲することを条件に講和を迫っていると聞いています。これを拒否した場合は毛利を滅ぼすと強気に出ているようですが、毛利の両川・吉川元春殿や小早川隆景殿が強硬に反対されているとか」
「父上が、備前の宇喜多家を支援しつつ、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を通じて交渉を進めているのですよね?」
秀成が、対毛利との交渉内容を整理して答えた。
よくわかっている。
秀長は深く息を吐いた。
「そうだ。毛利も賤ヶ岳の戦いの結果を見て、もはや我らには勝てぬと悟ったようだが、備中や美作の国割り(領土境界)について、細かな駆け引きが続いておる……なかなかまとまらん」
「ここで頼りになるのが、宇喜多の存在だ」
(続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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