第101話 跡目の図
天正11年(1583年)8月中旬 大坂城(普請中) 羽柴秀長
大坂の地は、天下の鳴動をそのまま形にしたような熱気と喧騒に包まれていた。
秀吉は、お初の出産を見届けた後、山崎城に向かっている秀長と合流するべく、急ぎ大坂へ戻っていた。
かつて本願寺が誇った要害の跡地では、数万の領民が蟻のようにうごめき、巨大な石垣が天を突く勢いで積み上げている。
立ち込める土埃、木材を曳く地響き、そして絶え間なく響く槌の音。
それは「羽柴」という新たな時代の産声のようでもあった。
播磨から駆けつけた秀長が、城下に設けられた秀吉の仮御殿の門をくぐった時、出迎えたのは、秀吉の豪快な笑い声だった。
「おお、小一郎! 遅かったではないか! 待ちかねたぞ!」
「兄者、そう急かされますな。播磨から休む暇もなく馬を飛ばして参ったのです」
土埃にまみれた旅装のまま、秀長は相好を崩した。
秀吉は弟の肩を力をこめて叩き、我がことのように胸を張る。
「お初殿は実に見事であったぞ! 産後の肥立ちも良く、今はねねが、つきっきりで面倒を見ておる。赤子も実に元気だ。声が大きくてな、誰に似たのか将来が楽しみな暴れん坊よ!」
「……そうですか、無事でしたか」
秀長は、母子ともに健康であることを知り、深く安堵の息を吐き出した。
二人はそのまま奥の広間へと向かい、冷えた茶を啜りながら、新しい家族の話題に花を咲かせた。
「ところで小一郎。次男坊の名はなんとする?」
秀吉が身を乗り出して尋ねた。
「はい。長男が竹であれば、次は……『松若』はどうかと」
「松若か!なぜ、松を選んだ?」
秀吉が身を乗り出すと、秀長は穏やかに、しかし一文字ずつ刻み込むように答えた。
「松は、冬にあってもその青々とした葉を失いません。その生命力の強さは、健やかさと長寿の証……兄者、我ら羽柴の根はまだ浅い。なればこそ、千年の時を越えて色を変えぬ松の如く、羽柴の繁栄を永劫に保つ礎となってほしい……そう願ったのです」
「なるほど、常緑の松か。羽柴の繁栄を象徴するに相応しい良い名よ!」
秀吉は満足げに頷き、自分のことのように喜んだ。
夕刻 仮御殿、奥の間
喧騒を遮るように設えられたの一室に、秀吉、秀長、黒田官兵衛の三人が小さな円を作っていた。
窓の外では、まだ普請の槌音が残響のように響いているが、この部屋の空気だけは、冷え切った井戸の底のように静まり返っている。
秀吉が、塗り立ての漆が匂う机の上に、大坂城の縄張りの絵図を広げた。
「大坂の城と町づくりが始まっておる。やがて、ここが日の本の中心となる。しかし、城や町がいかに立派であっても、中身が固まらぬままでは、羽柴の天下は完成せぬ」
秀吉の眼光に鋭さを帯びる。
「先日、ねねと話をした。…源一郎を、わしの養嗣子とする。そして、お市様の子・茶々をこれに添わせる」
「織田の血を、羽柴の嫡流として取り込むのだ。小一郎、異存はあるか」
秀長は、兄が差し出した天下の計を、瞬時に呑み込んだ。
驚きはない。
松若が生まれた今、長男である源一郎が、羽柴の本家へ入ることは、一族の繁栄を考えればこれ以上ない布石である。
「……異存ございませぬ。源一郎を兄者のもとへ出すことに、迷いがあろうはずがございません。我が子が天下の柱石となるのであれば、親としてこれ以上の誉れはありません」
「しかし、お市の方の姫君を源一郎に添わせるというのは、どういう狙いで?」
「小一郎、お前も分かっておろう。今の羽柴は、信長公が遺した『織田』という巨大な衣を借りて歩いておるに過ぎぬ。わしは今でも織田の筆頭家老という立場よ。旧臣どもの心根には『織田が主』という思いが残っておるわ」
秀吉は身を乗り出し、官兵衛に視線を投げた。
官兵衛が、待ってましたとばかりに静かに口を開く。
「織田の血を引く姫と源一郎殿に子が生まれればどうなるか。その子は、羽柴の血を持ちながら、織田の血筋としての箔も備えることになります」
「今、信長公の残した姫で未婚の者はお一人のみ。本能寺の変の後、蒲生忠三郎殿の養女となっております。しかし、この姫を娶ってしまえば、信長公の娘を正室とする蒲生殿が外戚として力を持ち過ぎます」
「そのとおりだ」
秀吉が強く頷いた。
「忠三郎の養女を乞い願えば、『羽柴の義父』として存在感を出すに違いない。しかも、やつは信長公の義理の息子でもある。旧織田派が忠三郎に集結されては厄介よ」
「一方……お市様の姫君は、織田の血を引いているだけでなく、我らが直接保護しておる。誰にも気兼ねすることなく差配できる...まぁ形式上は(柴田)勝豊に了解をもらう必要はあるがな」
その秀吉の言葉に、しばらく沈黙が続いた。
秀吉が、秀長と官兵衛の顔を交互に見つめ、先ほどよりも一層重い声で言った。
「源一郎と茶々の間に子が生まれれば、それはもはや『借り物の衣』ではなく、羽柴と織田が溶け合った真の嫡流よ」
秀吉は、膝の上に置いた手をぐっと握り締めた。
「小一郎、官兵衛。織田の旧臣をはじめ、徳川や毛利、上杉、長宗我部といった連中には、羽柴は織田を乗っ取った不義の家臣という思いがあるはずだ...実際、そういう側面はあるがな...その思いがある限り、やつらはいつでもわしに牙を剥く大義名分を手にしていることになる」
「しかし、お市様の長女であり、織田の血を継ぐ茶々を源一郎に添わせ、二人の間に子が成ればどうなる。その子に弓を引くことは、織田の血筋を否定することに繋がる」
秀長は沈黙した。
兄が描いているのは、単なる縁組みではない。
織田という巨大な過去を、羽柴が完全に取り込み、血のレベルで上書きしてしまうという、『簒奪』の絵図であった。
しかし、そこには、どうしても動かせない大きな障害がある。
「……しかし、兄者。そうなれば、養嗣子として迎えた秀勝様はどうなるのです。あの方は、紛れもなく信長公の御子息にございます」
官兵衛が、冷たい言葉を放った。
「現状、羽柴の家督を継ぐべき順位は、秀勝様が筆頭にございます。織田の旧臣たちは、あの方を旗印に『織田への回帰』を夢見ている可能性もあります。あの方は羽柴の世を保証する看板であると同時に、羽柴を織田に縛り付ける楔』とも言えますな」
「於次(秀勝)は、わしを父と慕う可愛い子よ」
秀吉は鼻を鳴らした。
「だが……あやつの中に流れるのは織田の血だ。羽柴の血ではない。わしの後、家臣どもが織田の威光を傘に着て、わしの一族を軽んじるようになっては、死んでも死にきれぬわ」
秀吉の胸中を察した秀長が、静かにそして冷たい声で疑問を呈した。
「兄者……秀勝様は、どうにもお身体が弱い。この大坂城で天下を動かす激務には耐えらぬのではございませぬか?」
秀吉と官兵衛の視線が、秀長に集まった。
「……ほう」
秀吉の唇が、歪な弧を描いた。
弟が吐いた言葉の意味を瞬時に咀嚼する。
「織田の勢威がまだ残る今は、於次を跡継として据えておく。だがその陰で、源一郎に天下の政を仕込み、茶々との間に『織田の血を引く子』を産ませる。……時が来れば、於次には病弱を理由に、景色の良い領地で静養してもらう」
「小一郎、そういうことか?」
「はっ、それが信長公のご子息であり、羽柴筑前守の跡目であった方に対する、最良の扱いかと」
「……得心いたしました」
官兵衛が深く頭を下げる。
「『病弱な兄に代わり、健やかな弟が実務を執る』。これを家中に染み込ませれば、いずれ代替わりが必要となった際も、水が低きに流れるが如く自然に行われましょう。暗殺や追放といった無粋な真似をせずとも、天下の心は自ずと源一郎殿に向かいましょう」
「よし、決まりだ。その方向で話を進める」
「ただし、この話はまだ胸の内に止めよ。下手に於次のことを口に出せば、織田派の連中が源一郎や松若に危害を加えかねん。今は於次が後取りよ」
「「ははっ」」
秀長と官兵衛が口を揃えて承諾すると、秀吉は満面の笑みを浮かべ大きく笑った。
秀吉の笑い声が、仮御殿の薄い壁を越え、外の普請の音に混じっていった。
それは、織田という巨大な家を飲み込み「羽柴の家」を新たに築こうとする男の強い意志でもあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。
最後の官兵衛の言葉「水が低きに流れるが如く自然に行われましょう」に気づいていただけたでしょうか。
少し仕込んでみました。
(諸説ありますが、上善如水)




