第100話 羽柴の継嗣(けいし)
天正11年(1583年)8月中旬 山城・山崎城 羽柴源一郎秀成
「男か! 小一郎に次男が生まれたか!」
秀吉が膝をバンと叩き、己のことのように顔を紅潮させて喜んだ。
「でかしたぞ! さすがは羽柴を支える小一郎の妻よ。これで我らの土台はさらに盤石じゃ!」
「母上も無事なのですね……!」
私は深い安堵の息を吐き出し、張り詰めていた糸が切れたようにその場へ座り込んだ。
弟ができた。
父上と母上の間に、そして私に、秀長の血を継ぐ新しい家族が誕生したのだ。
小さな命の産声を聞きながら、胸の奥から湧き上がるような温かい喜びに包まれていた。
しかし、産声が上がったからといって、すぐに対面できるわけではない。
その後には後産(胎盤の排出)の処理や、血や羊水にまみれた寝具の片付け、産婦の身体を拭き清めて着替えさせるなど、慌ただしい処置が続く。
この時代の産屋は、産婆や侍女たちが取り仕切る女たちの領域だ。
男が、消耗しきった産婦の無防備な姿を目にするような無粋な真似は許されない。
秀吉と私は、奥の控えの間で今か今かと待たされていた。
普段から忙しない秀吉が、いつもに増してソワソワしている。
やがて、侍女が「お部屋が整いました」と報せに来た。
じっとしていられない秀吉は、侍女の案内もそこそこに「構わん、少しだけ顔を見るだけじゃ」と、足早に産屋に近づき、誰よりも早く襖を開けた。
「お初殿、大儀であった! 大儀であったぞ!」
部屋に入るなり、秀吉は布団に横たわる母に向かって声をかけた。
部屋の中は真新しい布団に敷き直され、落ち着いた香が微かに焚き染められていた。
疲労困憊で青白い顔をしながらも、母上は嬉しそうに目を細めた。
「筑前守様……ありがとうございます。無事に、男の子が生まれました」
「うむ! 小一郎に代わって、わしが礼を言うぞ。よくぞ羽柴に丈夫な男子を産んでくれた!ねねも大義であったな」
秀吉はそう言って、布団の横に腰をおろし、ねね様が抱きかかえている小さな赤子を覗き込んだ。
私もたまらず、その横にしゃがみ込む。
白い産着に包まれた赤ん坊は、顔を真っ赤にして、きゅっと固く目を閉じていた。
ふう、ふうと規則正しい微かな寝息が聞こえる。
「……源一郎殿。ほら、貴方の弟ですよ」
ねね様がそっと腕を下げ、俺に赤子を近づけてくれた。
私は恐る恐る、その小さな小さな額に指先で触れた。
温かい。
そして、驚くほど柔らかい。
(弟……私の、弟……)
前世での人生と、この戦国での九年。
合わせて五十年近い時を生きてきたが、「命の誕生」という瞬間に立ち会うのは、これが初めてだった。
だからこそ、このあまりにも小さく、弱々しく、それでいて途轍もなく力強い「生」が、たまらなく神秘的で、奇跡のように思えた。
先ほどまでこの世に存在しなかった命が、今、確かにここで呼吸をしている。
その生命の輝きに、胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲むのを止められなかった。
「……可愛いか、源一郎」
秀吉が、私の頭を優しく撫でながらぽつりと言った。
「はい……小さくて、温かいです」
「そうか。お主も今日から兄じゃな」
秀吉はくしゃっと顔を崩して笑うと、今度はねね様に向き直った。
「ねねも、よう支えてくれた! 産屋の隅々まで気を配り、滞りなく侍女たちを動かした見事な差配。それがあったからこその安産ぞ。まさにお前とお初殿、二人の手柄じゃ!」
「殿……もったいないお言葉です。ですが、一番頑張ったのはお初殿と、この子ですからね」
ねね様も、安堵の涙を浮かべながら微笑んだ。
「よーし! わかった、祝いじゃ! 盛大な祝いじゃあ!!」
突然、秀吉が弾かれたように立ち上がり、大声をあげた。
「おい、誰かある! すぐに堺の商人を呼べ! 極上の絹で産着を百着……いや、二百着作らせい! それから太刀じゃな! 男子たるもの、立派な名物の太刀が要るわ! 粟田口か? 正宗か!?」
「と、殿! 赤子に太刀など持てませぬし、産着が二百着あってもそれほど必要ありせぬ。すぐに大きくなりますから!」
ねね様が慌ててたしなめるが、火のついた秀吉の勢いは止まらない。
「ええい、構わん! 小一郎の次男坊の祝いじゃぞ! そうだ、長浜や姫路の蔵から米を出せ! 領民にも餅を振る舞うのじゃ! 馬も要るな、まだ乗れんが子馬を探させよ! 」
「殿! 声が大きすぎます、お初殿も若君も驚いてしまいますよ!」
「おっと、そうじゃったそうじゃった。すまんすまん」
ねね様からピシャリと叱られ、秀吉が照れ隠しのように頭を掻く。
そのあまりにも極端で、滑稽なまでの喜びように、俺も母上も、思わず吹き出してしまった。
先ほどまでの厳粛な感動は霧散し、部屋の中は一気に明るい笑い声に包まれる。
戦国の覇者へと駆け上がる天下人が、一人の赤子の誕生に我を忘れてはしゃぎ回っている。
それは紛れもなく、羽柴という「家族」が迎えた、最も温かく幸福な光景だった。
羽柴秀吉
その日の夜。
山崎城の最も奥まった部屋で、秀吉とねねは、夫婦水入らずで酒杯を交わしていた。
「ねねよ、小一郎に次男が生まれたのは、まこと天の恵よな」
秀吉が機嫌良く酒をあおる。
ねねもまた、安堵の笑みを浮かべて頷いた。
「ええ。お初殿も無事で、本当に良かったです。これで小一郎殿の跡継ぎの心配もなくなりました」
「うむ……」
秀吉は盃を置き、急に声のトーンを落として鋭い眼光を見せた。
「小一郎に万が一のことがあっても、家を継ぐ男子が二人できた。ならば……源一郎を、わしの手元に引き取ろうと思う」
「源一郎殿を、私たちの養子にするということですね」
ねねは神妙な声で答えた。
秀吉も声を落として静かに言った。
「あやつの才覚は、一介の大名や、小一郎の後継に留めておくにはあまりにも惜しい。わしの養嗣子として天下の政を仕込ませ、いずれは羽柴を継がせようと思っとる」
「しかし、既に秀勝様(幼名;於次丸、織田信長の四男で秀吉の養嗣子になっている)がおられます。いかがなさいますので…」
ねねは不安そうに秀吉の目を見つめた。
「あやつは信長公の他の息子達とは違い、控えめで真面目、そして繊細だ。身体も丈夫ではない。最近は寝所で過ごすことが多いと聞いておる……」
「ねね...覚えているだろうが、わしのような下賤の身が一国一城の主になったとき、周囲の嫉妬をかわし、なにより信長公の猜疑心から家を守るため、ご子息を養嗣子に貰い受けたのだ。いずれ自分の息子が家を継ぐとなれば、わしが活躍して、いくら家が大きくなっても足を引っ張られることはない。そう思ったのだ」
「はい、覚えております。織田家の重臣まで上り詰められたのも、秀勝様が跡継であったからこそ」
ねねは、夫の心の内が見えず、不安げな表情で言葉を返した。
「しかし、もはや信長公はおらず、織田の旧領は信雄の尾張、北伊勢を除けば全てわしが抑えた。今となっては、信長公に配慮する必要はない…」
「於次(秀勝の幼名)はいい子だ、やつに不満はない。しかし、わしの血筋でもない者に、死に物狂いで大きくした家を渡そうとは思わん。ねねよ…ここだけの話だが……いや、ここではやめておこう」
秀吉がそう言うと、ねねは、しばらく沈黙したあと、声を震わせながら秀吉の手をそっと握った。
「於次は、心根の優しい子。我が子と思って接してきました…殿、絶対にご無体なことはしてくださいますな」
「ああ、わかっておる。於次は我らの子だ」
「今は、身体の弱い跡継を、源一郎のような健やかな身内が支える形を作るということよ。身内が盤石であれば、あやつも安心して静養できよう。それ以上でない。この話は近いうちに小一郎とも相談する」
ねねは静かに頷き、秀吉の手からそっと腕を離した。
そして、居住まいを正して、言葉を続けた。
「もう一つお願いがございます。生まれたばかりの赤子が、無事に育つとは限らないのが世の常でございます。もしものことがあれば、小一郎殿の家系が途絶えてしまいます。……それに、子を産んですぐに、長男を引き離されるというのでは、お初殿の気持ちを考えると… 同じ女として、承服いたしかねます」
「少なくとも、あの子が一年を無事に過ごすまで、源一郎殿の養子縁組はお待ちください」
秀吉は顎を撫で、小さく息を吐いた。
「なるほど、そうかもしれんな。来年、か……畿内の周辺には、まだわしの下につかぬ者も多い。それらを片付け終わる頃には、次男の丈夫さも知れよう」
「ありがとうございます」
ねねは、口元に微笑をたたえ、深く頭を下げた。
「ねね、安心せよ。悪いようにはせん。まずは小一郎を呼び、二人で酒を酌み交わしながら話すことにする」
「よろしくお願いいたします。……これで、羽柴の根はいよいよ深く、強く張り巡らされることになりますね」
ねねの微笑みはどこまでも深く、秀吉はそれに応えるように力強く盃をあおった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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