第98話 滝川一益の降伏
天正11年(1583年)8月上旬 山城・山崎城 羽柴源一郎秀成
「さて……」
秀吉が、ふっと声の温度を下げた。
「そろそろ、あの『しぶとい爺』を呼ぶとするか。やつの牙がどうなったか見ものよ」
氏郷が静かに頷いた。
「はっ。いつでもお呼びできまする。……もはや、戦うための牙は抜け落ちているように見受けられましたが」
「牙が抜けたか。……どうだかな」
秀吉は顎を撫で、忌々しさと敬意がないまぜになったような笑みを浮かべた。
「本能寺さえなければ、間違いなく織田家最大の領主となっておった男だ。あの猛獣が、そう易々と牙を抜かれるとは思えんがな」
やがて、廊下に重苦しい足音が響いた。
護衛の武士に伴われ、一人の男が広間へと通される。
滝川左近将監一益。
今年で五十九歳。
かつて信長から関東管領を任じられ、「進むも退くも滝川」と謳われた織田家の最強の宿老。
しかし、当時の精悍な姿は見る影もなく、げっそりと削げ落ちた頬、無造作に束ねられた髪には白髪が目立ち、枯れ木のように小さく見えた。
今年の正月から始まった七ヶ月に及ぶ攻防がいかに凄惨であったか、その姿が無言のうちに物語っている。
一益は、板敷きに両手をつき、ゆっくりと、深く額を擦りつけた。
「……滝川左近将監、ここに至り、武運拙く、罷り越しました」
かすれた、砂を噛むような声だった。
しかし、卑屈さは微塵も感じさせない声だ。
「……面を上げよ、左近」
秀吉が、まるで茶飲み話でも始めるかのような柔らかく、そして低い声で応じた。
一益が顔を上げる。
その瞬間、私は思わず息を呑んだ。
枯れ果てた肉体とは裏腹に、その眼だけは、今なお射抜くような鋭い光を放っていた。
「見事であったぞ、左近。本当に見事な采配であったわ」
「柴田が敗れ、信孝殿が腹を切ってもなお、ここまで粘るとは思わんかった。天晴れよ」
秀吉は膝を叩き、本心から称賛するような口調で言った。
「正月の伊勢での蜂起、そして要衝の城の神速の奪取。見事に我が軍を伊勢の泥沼に釘付けにしおった。あと少し柴田修理亮が粘っておれば、違った結果になったやもしれんな」
秀吉の言葉に、一益は表情を変えなかった。
ただ、乾いた唇をゆっくりと開き、低い声で返した。
「……負け犬の策など、今更語るまでもござらぬ。筑前守……我が策は、完璧だと思った」
一益の眼光が、秀吉、そして傍らに控える氏郷と私を順番に射抜いた。
「たが、早まった。結果から見ればだが、あと三月、挙兵が遅ければ挟み撃ちにできたものを。悔やまれるわ」
広間に、ヒリヒリとした冷たい緊張が走った。
命乞いをするどころか、勝ち筋を見誤ったと、時機さえ間違えねば勝ったのは自分だと言い切った。
大軍に囲まれ、全てを失ってなお、この男の誇りは少しも折れていなかった。
「左様か」
秀吉は面白そうに、くくっと喉の奥で笑った。
そして、先ほどよりも一層低く、そして冷たい声で小さくつぶやいた。
「時機を誤らぬことこそ勝利の鉄則。軍略の最も重要なことだ。そうではないか?左近」
「明智がそうだったようにな...」
周囲の空気が凍った。
「ふふふっふ、時機を逸した策は、いくら良策でも塵芥同然よ。左近ともあろう者が、それを理解しておらぬわけではあるまい。焦ったの」
そして、秀吉は表情を消し、冷たい眼を一益に向けた。
「……貴様にはここで、腹を切ってもらわねばならんと思うたが」
空気が張り詰めた。
一益が僅かに顎を引き、覚悟を決めたようにスッと目を閉じる。
私と氏郷も、思わず姿勢を正し、固唾を呑んで次の言葉を待った。
「殺さぬ」
予想外の言葉に、一益がバッと目を開いた。
「殺すには、惜しい。その武勇、その知略、そしてその図太い性根を、ここで灰にするのは勿体無い」
秀吉は立ち上がり、一歩、また一歩と一益の前に歩み寄った。
そして、見下ろすように言葉を発した。
「伊勢の領地はすべて没収する。徹底的にわしに反旗を翻し、そして完膚なきまでに敗れたのだ、納得はしてくれるな?」
「だが、命は取らん。頭を丸め、しばらく寺で過ごせ」
それは、武将・滝川一益の「死」を意味していた。
領地も兵も取り上げられ、ただの隠居坊主として生き恥を晒せという宣告。
誇り高き宿老にとっては、首を撥ねられるよりも残酷で、屈辱的な仕打ちとも言える。
「……俺に、生き恥を晒せと申すか。この、猿めが」
一益の口から、無意識に昔の呼び名が漏れた。
激しい怒りと屈辱で、一益の肩が小刻みに震えている。
しかし秀吉は怒るどころか、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、生きてもらう。戦さはまだ終わらぬ。そのうち、お主の力を発揮してもらう機会が来よう。それまでの間、身体を休めておくがいい」
予想外の言葉に、一益がバッと目を開いた。
私と氏郷も、思わず顔を見合わせた。
「……俺を、また戦場に引きずり出すと言うのか」
一益の掠れた声に、秀吉は平然と頷く。
「当たり前よ。お主の描いた絵図は、時機がズレたゆえにただの紙屑となった。……だが、使い所さえ間違えねば、その采配は天下一品。いずれ来る大戦の折には、この秀吉のために粉骨砕身してもらう」
ただの隠居として腐らせる気など、最初から毛頭ない。
それに、下手に片隅に押しやれば薄暗いことを考えかねない。それなら表で使った方が両方にとって得策。
敵対した宿老のプライドを一度完全にへし折りながら、同時に「お前の力はまだ必要だ」と存在意義を投げ与える。この男の「人たらし」は、相手を奈落の底に突き落としてから救いの糸を垂らすような、悪魔的な人心掌握の術であった。
一益の震えが止まり、やがてそれは低く、乾いた笑い声へと変わっていった。
「……ふっ、ふははっ。底知れぬ男よ。よかろう……この一益、地獄の淵から這い上がり、再び天下に名を知らしめてくれる」
一益は、今までで最も深く、床に額を擦りつけるように頭を下げた。
その瞬間、織田家が誇った最強の武将「滝川左近将監」は歴史の表舞台から一度降り、同時に羽柴秀吉の下についたことが、誰の目にも明らかになった。
「……見事なものですね」
一益が退出した後、氏郷が静かに口を開いた。
その若き名将の瞳には、時代が音を立てて入れ替わっていく様が、確かに焼き付いているようだった。
「滝川殿の誇りを打ち砕きながら、次の居場所まで用意する……殿の御器量、底が知れません」
「ふん、あの爺には、長島で散々手こずらされたからな。死ぬまでこき使ってやらんと元が取れんわ」
秀吉は元の席に戻り、再び団扇を手に取って豪快に笑った。
そして、秀吉は私たち二人の若者に向き直った。
その目は、もはや過去の戦いではなく、はるか先の未来を見据えていた。
「さて、これで後顧の憂いは絶った。忠三郎、源一郎」
広間の窓から眼下を指差した。
「わしは、この狭い山崎を出て、大坂へ移る。安土城をも凌ぐ、誰も文句を言わせぬ日の本一の城を築く……お前たちには、期待しておるぞ」
「はっ!」
私と氏郷は、声を揃えて頭を下げた。
窓の外を見やれば、淀川の豊かな水が、果てしなく広がる大坂の平野へと向かって流れていくのが見えた。
夏の日差しはますます強く、私と氏郷の影を、城の床に力強く刻みつけていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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