第94話 秀吉の帰還と内助の策
天正11年(1583年)6月 山城・山﨑城 羽柴秀吉
秀成が、長浜城で城代の仕事に取り掛かり始めた頃。
秀吉が賤ヶ岳の戦後処理をあらかた終え、意気揚々と山崎城へ帰還した。
「おお、ねね! 戻ったぞ。見事な大勝利であった!」
奥御殿へ足を踏み入れた秀吉は、出迎えた妻のねねに向かって満面の笑みで両手を広げた。
天下人への階段をまた大きく登った夫の凱旋である。
さぞかし喜んで迎えられるだろうと疑わなかった。
いや、その様に装っていたというのが正解だ。
ねねが、元服したばかりの源一郎を前線に出したことに怒っていることは、当然、秀吉も聞いていた。
案の定、ねねの顔には冷ややかな微笑みが張り付いていた。
「お帰りなさいませ、殿。大勝利おめでとうございます。大層なご活躍であったと聞いていおります」
「おうとも! わしの采配が冴え渡ってな――」
「ええ、それはもう。……源一郎殿を、最前線へ連れ出すほどに見事な采配であったとか」
ピシャリと言い放たれ、秀吉の顔からスッと血の気が引いた。
見れば、ねねの斜め後ろには秀長の妻であるお初が控えており、彼女もまた能面のような無表情で秀吉を見つめている。
「あ、いや、あれは小一郎が連れてきたのであって、それに源一郎自身がどうしても行きたいと……」
「元服を済ませたとはいえ、まだ九つの子供を戦場に立たせるなど、 武功を立てれば良いという話ではありません。もしあの身に万が一のことがあれば、何とするおつもりでしたか!」
天下の覇者になりつつある男が、妻たちの圧に押され、首をすくめた。
「……面目ない。じゃが、あやつは大活躍じゃったぞ? 半兵衛もかくやという知謀。やつは羽柴の宝じゃな」
「お初殿、真に素晴らしい子を授けてくれた、感謝しきれんわ! はははっ」
秀吉が必死で話題を変えようとすると、ねねはふう、と小さくため息をつき、お初に目配せをしてから口を開いた。
「美濃守殿、源一郎殿にも、だいぶ小言を言いましたので、これ以上は申しません。しかし、以降はもう少しお気をつけてくださいまし」
ねねがそう言うと、お初も、大きくなったお腹をさすりながら、静かに頭を下げた。
「わかっておる。無闇に危険に晒すことはせぬ。今回、長浜城代に命じたのもそのためだ。生まれ育った場所で、成長してくれることを願っての。家臣もしっかりしておるから、任せておいても大丈夫だ」
秀吉は、ねねとお初の顔を交互に見つめ、一際声を和らげて続けた。
「源一郎には、折を見て京へ顔を出すよう伝えてある。お初殿、もうすぐ臨月であろう。後ろ髪を引かれることなく、安心して産んでくれ」
その言葉に、ねねの眉間の皺がようやく解け、お初の顔にも柔らかさ戻った。
源一郎を長浜へ置いたのは、戦のためではなく、母子の安らぎを思ってのこと――
自分の思いが二人に伝わり、笑みが戻ったことを察して、秀吉はほっと息を吐いた。
そこに、ねねが新たな矢を射ってきた。
「ところで。お市様たちのことですが……小一郎殿の手配で、京の勝豊殿の屋敷へ身をお寄せになったとか」
ねねの目が鋭い。
「うむ。信雄殿の庇護に入れば、必ず政争の具にされるからな。柴田の家長として勝豊を立てて、その身内として匿う。小一郎の献策じゃが見事な一手よ」
「ほう……」
ねねは、秀吉の顔をジロリと覗き込んだ。
「殿はさぞかし、がっかりされたのではありませんか? 巷では、殿がお市様を己の側室として手元に置きたがっているのではと、まことしやかに囁かれておりますが…」
秀吉は、大声を上げてカラカラと笑い飛ばした。
「馬鹿なことを! 巷の噂など無責任なものよ。たしかに信長公の妹君としてお市様を敬ってはいるが、女としての情を抱くわけがなかろう。お市様はお前と同じようなお歳ぞ? ……お主がおるのにそんな気を持つわけあるまい」
あっけらかんと言い放つ秀吉。
ねねは、自分と「同年代」の女には興味がないと言われカチンときたようだが、慌てて付け足した言葉でなんとか気を沈めたようだ。
...危なかった。
ねねは、相変わらず、じっとした目で秀吉を見ている。
「…では、姫君たちはどうです?」
ねねが探りを入れると、秀吉は目を細めた。
「あの三人の姫君か……亡き大殿の面影と、お市様の美貌を受け継いでおる。少し育てば、さぞかし天下に名立たる美姫になるかも……」
「はっ?今なんとおっしゃいましたか。まさか十を少し過ぎたばかりの娘にご関心があるわけではないでしょうね。特に、茶々様はお美しいと評判でございますが、まさか…」
秀吉の胸中で、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
ねねは、お市様ではなく、三姉妹の方に警戒をしている。特に茶々に対して。
確かに、全くその気がなかったとは言わないが…
ねねが、そんな秀吉の顔を見つめながら、氷の微笑みをたたえて話を続けた。
「殿。源一郎殿ですが、今回の武功でその名が全国に鳴り響いていると聞きます。他家から変な縁談を持ち込まれ、政略に利用される前に、身を固めるべきかと思います」
「...源一郎殿と茶々様を、いずれ添い遂げさせてはいかがでしょうか」
「…………は?」
秀吉は間の抜けた声を出し、まばたきを繰り返した。
ねねは感じていた。
夫は、若い女が好きだ。歳を取るほどにその傾向が強くなっている。
子を求めるのであれば、若い方がいいのはわかる。そう思ってきた。
しかし、それだけが理由ではないようだ。
昔の自分であれば絶対に手が届かない姫君を戦利品のように側に置くことで、戦国の勝者であることを誇示したい。そんな濁った欲望を感じる。
少なくともあの三姉妹には手をつけさせてはいけない。
女の直感が疼く。
「茶々様は十五、源一郎は九つ。この程度の年の差など、源一郎殿がもう少し大きくなれば何の問題もありません。それにあの子は早熟です。私は、お似合いだと思います」
「何より、源一郎殿は、お市様や姫たちの命の恩人。茶々様も、心を許すでしょう」
ねねの言葉は滑らかで、一切の隙がなかった。
「ま、待て、ねね。何も茶々でなくとも……織田の姫なら他にも……」
秀吉が咄嗟に口を開く。
「おや、何かご不満でも? 織田の血を、源一郎殿に迎える。これほど天下への聞こえが良い話はありません。しかも、長浜城代となり、浅井ゆかりの家臣を多く持つ源一郎殿にとって、これ以上の縁はないと思いますが」
「ま さ か、殿は、源一郎殿を蔑ろにし、茶々様を別の誰か……例えば、ご自身の手元にでも置きたいと?」
「そ、そんなことは……っ」
ねねの冷たく鋭い視線に射抜かれ、秀吉は言葉に詰まった。
ここで反対すれば、「自分が茶々を狙っている」と白状するに等しい。
「……わかった。お前の言う通りじゃ。喪が明けるのを待って、茶々様を迎え入れよう」
秀吉が折れた。
「ありがとうございます。では、今はまだ深い喪中ゆえ表沙汰にはせず、折を見て私からお市様へ、内々に打診しておきます」
ねねは、にっこりと、今日一番の美しい笑顔を咲かせた。
源一郎本人のあずかり知らぬところで、「秀吉の女癖から三姉妹を守り、羽柴の血に織田を迎え入れる策」が、ひっそりと、進められていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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