第七章 虚空
ちょっと長くなり過ぎてしまいました
リナが「特級」という言葉の意味を、ようやく真面目に聞く気になったのは、ゴルの葬儀を終えて侯爵邸へ戻って四日目の朝だった。
理由は単純だった。
「学校、まだ行けないの?」
朝食の席でそう聞いたリナに、アルベルトがパンを切りながら答えた。
「その前に、特級認定を終わらせなければならない」
「それ、絶対やらないとダメ?」
「ああ」
「なんで?」
「お前が何者なのかを、帝国として正式に決める必要がある」
リナは眉を寄せた。
「私はリナだよ?」
「そういう話ではない」
「リナリエッタでもある」
「それも知っている」
「じゃあ決まってるじゃん」
隣のユリウスが吹き出した。
「父上、頑張ってください」
「お前も説明しろ」
「無理です。僕も同じことを言われたら、少し納得します」
「するな」
クラウディアは静かに茶を飲んでいたが、口元がわずかに緩んでいた。リナは三人を見回し、最後にアルベルトを見る。
「特級って、すっごく強い人なんでしょ?」
「大雑把に言えば」
「じゃあ上級は?」
「私やクラウディア、ユリウスがそうだ」
「兄ちゃんも?」
「ああ」
リナはユリウスを見る。
「兄ちゃん強かったんだ」
「今さら!?」
「だって戦ってるとこ見たことないもん」
「十五年間積み上げてきた自尊心が五日で削られていく……」
「大丈夫?」
「原因はお前だ」
リナはニカッと笑った。ユリウスはため息をついた。アルベルトが話を戻す。
「上級でも、時間をかければ惑星の地表へ壊滅的な被害を与えられる」
リナの笑顔が少し消えた。
「……人も?」
「ああ」
アルベルトは誤魔化さなかった。
「だが、惑星そのものを壊すことはできない」
「惑星そのもの?」
「大地を焼くのではない。海を干上がらせることでもない。星自体を、天体として維持できないほど破壊する」
「……」
「それが、一人で可能な者だけが特級だ」
リナは手の中のパンを見た。
「そんなことして、何になるの?」
「普通は、しない」
「じゃあなんでできるか調べるの?」
今度はアルベルトが黙った。それは十歳の子供へ説明するには、あまりにも嫌な話だった。
クラウディアが先に口を開いた。
「できる者がいる以上、知らないままにはできないからです」
リナが見る。
「クラウディアさん」
「敵国が持っているかもしれない。自国に生まれるかもしれない。本人すら、自分が何をできるのか知らないかもしれない」
「私みたいに?」
「ええ」
クラウディアはリナの目を見た。
「知らないことは、危険をなくしてはくれません」
リナは少し考えた。
「……じゃあ調べる」
アルベルトが顔を上げた。
「いいのか?」
「うん。でも」
「何だ」
「星、壊すの?」
「壊さない」
即答だった。
「絶対?」
「絶対だ」
「ならいい」
アルベルトは、わずかに肩の力を抜いた。
実際のところ、その言葉を守るために、帝国中枢では三日間、ほとんど徹夜の議論が続いていた。
理由は、リナが「特級かもしれない」からだけではない。
すでに一度。
正式認定すら受けていない十歳の少女が、リューベック連星国の主力艦隊を、帝国側の護衛艦と惑星へほとんど被害を出さず消している。
しかも本人には再現する意思も、方法の理解もなかった。強さを証明するには十分すぎる事件だった。同時に、それだけで認定を終わらせてはいけない理由にもなっていた。
帝国が今知りたいのは、もう一度艦隊を消せるかではない。何が起きたのか。どこまで制御できるのか。そして、二度と同じことを起こさないために何を教えるべきか。
そのための認定試験だった。
*
帝国魔力管理院。特級認定審査室。
そこに並んでいた顔ぶれを見たリナは、入口で止まった。
「父ちゃん」
「何だ」
「帰っていい?」
「駄目だ」
「知らない人いっぱい」
「三人だけだ」
「偉そうな人、三人は多いよ」
「聞こえとるぞ」
部屋の奥から、しわがれた声が飛んできた。
リナがそちらを見る。
白髪の老人が、大きな椅子へ深く座っていた。軍服。胸いっぱいの徽章。七十をとうに越えているように見える。
なのに。
リナは一目で分かった。
強い。
管理艦で見た兵士とも。
父とも。
まるで違う。
目の前に人が座っているというより。
大きな山が。
人の形をしてそこにあるような感じだった。
「……お爺ちゃん、すごいね」
部屋が静まった。アルベルトが額を押さえる。
「リナ」
「なに?」
「その方はエルネスト・バルト元帥だ」
「うん」
「帝国第一特級、《破軍》」
「うん」
「……もう少し何かないのか」
リナはエルネストを見る。
「こんにちは」
「はっはっは!」
老人は豪快に笑った。
「よいよい。元帥だの第一だの言われるより、よっぽどましじゃ」
「お爺ちゃんでいい?」
「父ちゃんよりは正確じゃな」
「閣下」
アルベルトが低い声を出す。
「冗談じゃ」
「父ちゃん、顔怖いよ」
「お前は誰のせいだと思っている」
「元からじゃない?」
「……」
エルネストがまた笑った。
「アルベルト、お前の娘は面白いな」
「面白さで育てた覚えはありません」
「十年育てとらんだろう」
アルベルトの顔から表情が消えた。エルネストが一瞬だけ、目を細める。
「……すまん。今のは儂が悪かった」
「いえ」
リナは二人を見比べる。
何かあったらしい。
でも。
今は聞かない方がいい気がした。
そういうことも、少しずつ分かるようになってきた。
「次」
凛とした女性の声がした。
銀色の髪。白い軍装。頭の後ろには、細い光の輪が冠のように浮かんでいる。
「私はミレイア・アルセリア。帝国第二特級、《白冠》」
リナはじっと見る。
「お姫様?」
ミレイアの眉が上がった。
「正確には皇帝陛下の孫だ」
「じゃあお姫様っぽい人」
「……間違ってはいないが」
「髪、私と似てるね」
ミレイアは自分の髪を一房摘んだ。
「色味は違うな。私は純銀に近い」
「私、ちょっと青い」
「そうだな」
「クラウディアさんは金色」
「それは知っている」
「みんな髪きれいだね」
ミレイアは認定対象の少女をどう扱うべきか。
皇族として。
特級として。
いくつも言葉を考えてきた。
そのすべてが、髪の話で一度崩れた。
「……後で話をしよう」
「うん」
「そして私だ」
三人目の男が言った。
黒髪。眼鏡。姿勢が異様にいい。
リナはなんとなく、クラウディアと同じ種類の予感を覚えた。
「サイラス・フォン・ヴェルナー。帝国第三特級、《天壁》だ」
「……」
「何だ」
「先生っぽい」
サイラスが止まった。エルネストが横を向いた。ミレイアの肩が揺れる。
「なぜだ」
「眼鏡」
「それだけか」
「あと怒りそう」
「怒らない」
「ほんと?」
「必要なら叱る」
「やっぱ先生だ」
エルネストがとうとう声を出して笑った。
「サイラス、お前はもう負けとるぞ」
「何の勝負ですか」
「知らん」
「では負けていません」
「そういうところじゃ」
リナは少し安心した。
特級。
もっと。
人ではない何かを想像していた。
でも。
笑う。
困る。
怒る。
父ちゃんと同じ。
兄ちゃんとも。
ゴル爺とも。
ちゃんと人だった。
そこで。
「リナ」
エルネストが呼んだ。
「何、お爺ちゃん」
「リューベックの艦隊が消えた時のこと、どこまで覚えとる」
部屋の空気が少し変わった。リナの笑顔が消える。
「……あんまり」
「歌ったのは」
「ちょっと」
「何をした」
「分かんない」
リナは自分の手を見る。
「ゴル爺が死んで。何にも感じなくなって。空がビリビリして」
そこで言葉を切った。
「気づいたら、船が全部いなくなってた」
「怖いか」
エルネストの問いにリナは小さく頷いた。
「自分が」
「そうか」
老人は笑わなかった。
「なら、その怖さは捨てるな」
「……」
「力がある奴は、自分を怖がれなくなった時が一番危ない」
サイラスとミレイアが黙って聞いている。
「今日やるのは、あの日の再現じゃない」
エルネストは続けた。
「誰も殺さん。星も壊さん。分からん力を、分かるところから一個ずつ見る。それでええ」
リナは少し考え。
「うん」
と答えた。
*
認定試験は、リナが想像していたものとは違った。
「星を壊さないの?」
「壊さない」
白い試験室。サイラスが端末を操作している。
「よかった」
「実際に惑星を一つ破壊するたびに認定していたら、帝国の領土がいくらあっても足りん」
エルネストが言った。
「でも、できるか分かんないんでしょ?」
「だから複数の試験を組み合わせる」
サイラスが答える。
「出力。継続時間。制御。空間への作用。物質への干渉。そして、既存の特級記録との比較」
「それで分かる?」
「少なくとも、上級と特級の境界は誤魔化せない」
ミレイアが腕を組む。
「認定する側に、現役特級三名が揃っているのもそのためだ」
「三人で見るの?」
「ああ」
「緊張する」
「今さらか?」
サイラスが言う。
「さっきまで好き放題言っていただろう」
「試験は別だよ」
「……それはそうか」
リナは中央の円形台へ立った。周囲に何重もの結界が展開する。
「これ壊したら怒られる?」
「壊すな」
「壊すつもりないよ!」
「なら聞くな」
「先生厳しい」
「私は先生ではない」
「そのうち先生になるかも」
サイラスが眉を寄せた。なぜか、エルネストが楽しそうに笑っている。
「始めるぞ」
サイラスの声が変わった。リナも少しだけ真剣になる。
「まず、自分の周りにある魔力を意識しろ」
「うん」
「昨日までの訓練と同じだ。外へ放つな。集めるだけでいい」
「分かった」
目を閉じる。
最近、分かるようになってきた。
自分の中にあるもの。
水でも。
火でもない。
もっと。
形のない何か。
身体の隅々まで。
いや。
身体の中だけではない。
どこまでが自分なのか。
意識すると境目が曖昧になる。
「……あ」
リナが呟いた。観測室の計器が一斉に跳ね上がった。
「抑えろ」
サイラスの声。
「出してないよ?」
「分かっている。だから問題なんだ」
「え?」
「集中を続けろ」
リナは言われた通りにする。空気が止まった。
いや、空気ではない。
部屋の中の何かが静かになった。ミレイアの表情が変わる。
「これは」
「空間干渉だ」
サイラスが即答する。
「術式を使っていない」
「本人も理解しておらんぞ」
エルネストが椅子から身を起こした。
「リナ」
「なに?」
「今、何をしとる」
「何も」
「何も、では困る」
「えーと……」
目を閉じたままリナは考える。
「動かないで、って思ってる」
「何に」
「全部?」
三人の特級が同時に黙った。
「リナ」
アルベルトが観測室の向こうから声をかける。
「無理はするな」
「大丈夫だよ、父ちゃん」
「少しでも変だと思ったら止めろ」
「うん」
その瞬間、魔力が少し緩んだ。計測値が落ちる。サイラスの目が細くなる。
「……感情に連動している」
「父親の声で安定したな」
ミレイアが呟く。エルネストは何も言わずリナを見ていた。
十歳。
まだ魔法の基本すら習っていない。
なのにこの子が本気で「止まれ」と思ったとき。
周囲の空間そのものが。
その意思へ従おうとした。
*
二時間後。リナは机に突っ伏していた。
「疲れた」
「当然だ」
サイラスが言う。
「もう終わり?」
「あと一つ」
「まだあるの!?」
「最後だ」
「さっきも最後って言った」
「区切りの最後だ」
「ずるい」
「試験とはそういうものだ」
「学校行きたくなくなってきた……」
「学校の試験はもっと長いぞ」
「えっ」
サイラスは少しだけ意地の悪い顔をした。
「嘘だ」
「先生!」
「私は先生ではない」
ミレイアが笑った。
「サイラス、お前、子供相手だと意外と性格が悪いな」
「皇孫殿下に言われたくありません」
「何?」
「何でも」
最後の試験。目の前には直径数メートルほどの黒い球体が浮かんでいる。サイラスが説明する。
「壊せ」
「これ?」
「ああ」
「簡単そう」
「普通の魔導師には壊せない」
「父ちゃんでも?」
「私でも難しい」
観測室からアルベルトが答えた。
「へえ」
「ただし」
サイラスが続ける。
「力任せに吹き飛ばすな」
「じゃあどうするの?」
「好きにしろ」
「え?」
「方法は問わない」
リナは黒い球を見る。硬そう。殴る? たぶん違う。火? できない。雷? よく分からない。
「……ねえ」
「何だ」
「これ、なくしてもいい?」
サイラスの眉が動いた。
「壊せと言った」
「人とか、入ってない?」
「入っていない」
「本当に?」
「生命反応なし。外部接続なし。試験用の物体だ」
リナは、もう一度黒い球を見る。
「……じゃあ、いい」
リナは手を伸ばした。触れない。少し離れたまま球体を見る。
「邪魔だなあ」
ただ。
そう思った。
次の瞬間。
黒い球体が消えた。
音も。
光も。
爆発もない。
そこに。
何も残らなかった。
「……」
リナが振り返る。
「できた」
誰も返事をしなかった。
「え?」
サイラスがゆっくり眼鏡を外した。
レンズを拭く。
戻す。
もう一度。
空になった場所を見る。
「……転移ではない」
「分かるか?」
ミレイアが聞く。
「座標痕がない」
エルネストが立ち上がる。
「粉砕でもないな」
「残留物なし」
「魔力変換は」
「観測不能です」
職員が震える声で答える。
「対象物の構成情報が……途中から消失しています」
「消失?」
リナが首を傾げる。
「私、壊しただけだよ?」
三人の特級がリナを見る。
そして。
エルネストが最初に笑った。
「なるほど」
「お爺ちゃん?」
「こりゃ、《破軍》でもない。《白冠》でもない。《天壁》でもない」
老人は空になった場所を見る。
「何もないところへ、全部落とし込むか」
リナには意味が分からない。ミレイアが静かに言った。
「虚空」
「こくう?」
「ああ」
リナが口の中で繰り返す。
「こくう……」
サイラスがしばらく沈黙した後。
「まだ能力の原理は不明だ。名前を能力そのものと決めつけるべきではない」
「相変わらず固いのう」
「重要です」
「じゃが悪くない」
エルネストは笑った。
「何もない場所。届かん場所。底の見えん空」
リナが困った顔をする。
「怖くない?」
「特級の二つ名なんぞ、だいたい怖い」
「白冠はきれいだよ?」
「私は例外らしい」
ミレイアが少し胸を張った。
「破軍は怖い」
「儂は気に入っとる」
「天壁は?」
「堅そう」
「……まあいい」
サイラスは諦めた。
*
その日の午後。
皇宮。
リナは人生で初めて逃げたいほど堅苦しい服を着せられていた。
「やだー……」
「我慢なさい」
クラウディアが髪を整える。
「首苦しい」
「苦しくありません」
「昨日も聞いた」
「今日も同じ答えです」
「髪もいっぱい付いてる」
「付けていません。編んでいます」
「重い」
「髪はあなたのものです」
「じゃあ切る」
「駄目です」
「なんで!」
「今は駄目という意味です」
アルベルトは少し離れたところで助けを求める娘から目を逸らした。
「父ちゃん!」
「頑張れ」
「裏切り者!」
「私にできることはない」
「あるでしょ!」
「クラウディアに勝てると思うか?」
「父ちゃん弱い!」
「家庭内には戦ってはいけない相手がいる」
「侯爵様」
クラウディアの声が少し低くなる。
「何か?」
「いえ」
アルベルトは姿勢を正した。
*
謁見の間。
リナはたくさんの大人の前へ立っていた。
皇帝。
皇族。
軍人。
官僚。
貴族。
そして。
三人の特級。
父と兄。
クラウディア。
リナはものすごく帰りたかった。
「リナリエッタ・レーヴェン」
皇帝が名を呼ぶ。
「はい」
珍しく、ちゃんと返事をした。クラウディアに絶対に「リナでいいよー」と言うなと三回言われたからだ。
「帝国魔力管理院ならびに現役特級三名の審査結果を受理した」
リナはよく分からないまま聞く。
「単独で惑星級天体を破壊し得る出力と干渉能力を有すると認める」
広間が静まり返る。
「よって本日をもって、汝をアルセリア帝国第四特級として正式に認定する」
第四。
その言葉が。
広間の空気を変えた。
帝国に。
四人。
共和国には。
二人。
この日を境に国家間の均衡が確かに、動き始めた。
けれど、十歳のリナにはそんな未来は見えない。
皇帝が続ける。
「また、その二つ名を――」
少しだけ。
間を置いた。
「《虚空》とする」
ざわめき。
黒い徽章が。
皇帝の前に運ばれる。
「前へ」
リナが歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
そして。
慣れない靴の先が、床に引っかかった。
「わっ」
転びかける直前で身体が止まった。
空中で。
ぴたりと。
「……」
広間中が沈黙した。
リナは宙に浮いた自分の身体を見下ろす。
「……セーフ?」
エルネストが一番最初に、腹を抱えて笑った。
「はっはっはっは!」
「エルネスト!」
ミレイアが叱る。
「いや、無理じゃ! この場で自分を空間固定する奴がおるか!」
「リナ!」
アルベルトが青ざめる。
「大丈夫!」
「大丈夫ではない!」
リナはゆっくり足を床へ戻した。皇帝を見る。
「ごめんなさい」
皇帝はしばらく黙ったあと。
「……怪我がなくて何よりだ」
「うん」
「返事は『はい』」
後ろからクラウディアの声。
「はい!」
今度はミレイアまで顔を背けた。
*
認定式の後、リナは黒い徽章を手のひらに載せていた。
「これが特級?」
「正確には特級徽章だ」
サイラスが答える。
「黒いね」
「ああ」
「もっとキラキラしてると思った」
「玩具ではない」
「重い」
「象徴だからな」
「売ったら高い?」
「売るな」
「聞いただけ」
「お前は本当に……」
サイラスが額を押さえる。
少し離れた場所でエルネストとミレイアが話していた。
アルベルトは皇帝に呼ばれている。
リナは黒い徽章を見る。
《虚空》。
第四特級。
よく分からない。
ただ。
みんなが自分を見る目が、朝と少し違う。
「サイラスさん」
「何だ」
「私、今日から何か変わる?」
サイラスは、すぐには答えなかった。
「変わる」
「やっぱり?」
「周囲はな」
リナが顔を上げる。
「お前自身まで、今日一日で別人になる必要はない」
「……」
「特級は身分でも人格でもない。能力に対する認定だ」
「じゃあ私、リナのまま?」
「当然だ」
リナの顔が少し明るくなる。
「先生、いいこと言うね」
「私は先生では――」
「サイラス」
エルネストが横から割り込む。
「諦めろ。お前はもう先生じゃ」
「なぜですか!」
「似合っとる」
「根拠になっていません!」
リナがニカッと笑う。
「先生!」
「やめろ!」
*
同じ頃、共和国中枢では誰一人、笑っていなかった。
緊急召集された国家安全保障会議の中央卓に、一枚の報告書が置かれている。
アルセリア帝国。
新規特級認定。
リナリエッタ・レーヴェン。
十歳。
二つ名、《虚空》。
特級。
その一語だけなら、共和国の人間にとって新しいものではない。
彼らにも二人いる。
《星喰》アナスタシア・ローデン。
《断界》カール・ノイマン。
二人が存在するからこそ、帝国は共和国本土を容易には攻められない。
同じように、帝国の三人が存在するからこそ、共和国も帝国本土への全面攻撃を選べなかった。
それが抑止だった。勝てるから戦わないのではない。戦えば双方ともに、勝者と呼べるものが残らない。だから戦わない。
これまでの三対二という差でさえ、共和国にとって決して軽いものではなかった。
それでも均衡は保てていた。帝国の三人すべてを攻撃へ回すことはできない。共和国の特級二人が生きている限り、帝国は必ず本土への報復を考えなければならないからだ。
一人をアナスタシアへ。
一人をカールへ。
残る一人を帝国本土の防衛へ。
極端に単純化すれば、その三角形が、長い年月のあいだ両国を踏みとどまらせていた。
今日。
そこへ。
四人目が加わった。
「防衛計画を」
共和国大統領の声は低かった。正面に座る軍人が立ち上がる。
「既存想定では対応不能です」
部屋の誰もその言葉を咎めなかった。
「説明しろ」
「帝国が《白冠》を《星喰》へ、《破軍》を《断界》へ対応させた場合、《天壁》を本土防衛へ残せます」
壁面へ図が出る。
三つの名。
その横に。
まだ誰とも線の結ばれていない名前。
《虚空》。
「そして第四特級が、完全に自由になります」
沈黙が落ちた。誰かが言った。
「十歳だ」
「年齢は惑星を守ってくれません」
「実戦経験もない」
分析官が顔を上げた。
「その表現は正確ではありません」
別資料が表示される。
リューベック連星国艦隊消失事件。
正式認定前。
対象、十歳。
地上からの魔力作用と推定。
リューベック主力艦隊、ほぼ全損。
帝国護衛艦隊、生存。
惑星被害、限定的。
「本人に戦闘の意思や訓練があった証拠はありません。むしろ感情暴発に近い」
「それは、もっと悪いのでは」
「はい」
誰も反論しなかった。
「だから安全だと?」
今度の問いには最初から答えがなかった。
「能力評価は」
「不明部分が多すぎます。ただし特級認定は正式です。帝国自身が、単独惑星破壊能力ありと認めた」
「既存三名との比較は」
「できません」
「なぜだ」
「系統が違います」
別の分析官が資料を開いた。
「《破軍》は出力。《白冠》は高精度の攻撃と制御。《天壁》は防御・結界。《虚空》については、物質・空間への特殊干渉が確認されています」
「つまり?」
「分からない、という意味です」
その答えの方が具体的な数字より悪かった。
「帝国が明日攻めてくると?」
「いいえ」
「では、何を恐れている」
軍人は一度黙った。
「攻めてこなくてもよくなったことをです」
大統領の目が細くなる。
「続けろ」
「今までは、帝国も共和国の報復を恐れる必要がありました。これからは違う。国境交渉、通商、同盟国への圧力、星間門の領有――あらゆる場面で、彼らは最後にこう考えられる」
軍人の指が《虚空》の文字を示した。
「我々には一人、余っている、と」
誰もその言葉を否定できなかった。
「……一人ではない」
参謀の一人が呟いた。視線が集まる。
「何?」
「最悪想定です」
彼は図を切り替えた。
「《天壁》が帝国本土を守る。《破軍》がこちらの主力を牽制する。その状態で《白冠》と《虚空》が同一戦域へ入った場合――」
「やめろ」
別の男が言った。
「結果だけ言え」
「我々は、《星喰》か《断界》のどちらか一人に、帝国特級二人を同時に相手させることになります」
長い沈黙。
「勝率は」
「その問いに意味がありません」
「答えろ」
「勝敗が決まる前に、周辺惑星が持ちません」
誰かの呼吸が、やけに大きく聞こえた。
特級同士の戦闘はタブー。
それは道徳ではない。
礼儀でもない。
過去に。
本当に。
星々が消えたからだ。
共和国の二人が敗れれば。
その後に残るものは単純だった。
帝国の特級を止められる存在が。
共和国には。
いなくなる。
「《星喰》が死ねば」
誰かが口にする。
「《断界》一人で四人を見ることになる」
「不可能だ」
「逆も同じだ」
「なら二人とも絶対に失えない」
「だから動かせない」
「動かせなければ外交で押される」
「動かせば本土が空く」
声が重なる。普段なら議論を止める大統領も止めなかった。それほど状況が悪かった。
「帝国は」
外務担当者が慎重に言った。
「十歳の少女をすぐ軍事利用するとは限りません」
今度こそ、部屋の空気が冷えた。
「『限らない』?」
「……」
「国家防衛を、敵国の善意へ預けろと言うのか」
「そういう意味では」
「今日、あの少女は笑っているかもしれない。学校へ行きたいと言っているかもしれない。父親が戦場へ出したくないと思っているかもしれない」
大統領は静かに言った。
「では五年後は?」
誰も答えない。
「十年後は?」
答えはない。
「皇帝が代わったら?」
「……」
「共和国と帝国の間で大戦が起きたら?」
沈黙。
「我々は国家だ。『あの子はいい子らしい』を防衛計画には書けん」
その通りだった。
しかも。
問題は未来だけではない。
リューベックは、特級を持たない小国がこの世界で何を恐れているかを、最悪の形で示した。
大国に滅ぼされる前に特級を得ようとして。
結果として、自国の主力艦隊そのものを失った。
共和国はその選択を愚かだと断じることができる。
だが。
彼らが恐れた理由まで笑うことはできなかった。
帝国が四人目を得た。
その事実を知るのは共和国だけではない。
共和国と国境を接する小国。
共和国へ資源を売る国。
軍事協定を結ぶ国。
帝国との間で中立を保ってきた国。
すべてが。
明日から。
計算をやり直す。
「同盟国から照会が七件」
外務担当者が言った。
「すでに?」
「はい。三か国が防衛条約の実効性について再確認を求めています。一国は、帝国との経済協議を再開すると非公式に通告してきました」
「認定から何時間だ」
「四時間です」
誰かが。
低く悪態をついた。
撃たなくても。
国は揺らぐ。
特級とは。
そういう兵器だった。
大統領が目を閉じる。
「アナスタシアは」
「首都圏」
「カールは」
「西方防衛宙域です」
「二人とも動かすな」
「しかし」
「今は動かすな」
即答だった。
「帝国側の四人の位置を常時更新しろ。一人でも所在を失ったら、国家最高警戒態勢へ移行する」
「承知しました」
「そして」
大統領の視線が机の上の別の資料へ落ちた。
帝国第一特級。
元帥。
エルネスト・バルト。
二つ名、《破軍》。
帝国で最も長く戦略抑止の中核を担ってきた男。
「……このまま四対二を受け入れるのか」
誰かが呟いた。その問いにすぐ答える者はいなかった。受け入れれば今日すぐ国が滅びるわけではない。
明日も。
来月も。
何事も起きないかもしれない。
だが一年後。
五年後。
十年後共和国が独立国として帝国へ「否」と言える保証は誰にもできなくなった。
「特級同士をぶつけるのは禁忌です」
一人が言った。
「分かっている」
「一度始めれば、どこまで広がるか」
「分かっている!」
初めて、大統領の声が荒れた。すぐに静けさが戻る。
「……分かっている」
今度は小さかった。皆分かっている。
だからこそ。
怖かった。
戦えば滅ぶ。
戦わなくても。
この差が固定されれば。
いつか共和国は。
戦う権利すら失うかもしれない。
「選択肢を出せ」
大統領が言った。
「外交、増強、同盟再編、情報工作。何でもいい。ただし、特級戦だけは最後だ」
「はい」
「最後だ」
念を押した。それでも、誰もその選択肢を資料から削除しろとは言わなかった。
会議が終わったあと、一冊だけ、机の上に残された資料があった。
カール・ノイマン。
共和国特級。
《断界》。
その隣には。
別の名前。
エルネスト・バルト。
《破軍》。
二人の間には。
まだ。
何の線も引かれていない。
だが、共和国が四対二という数字を国家存亡の危機と判断した瞬間、その二つの名前はすでに、同じ盤面へ置かれていた。




