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灰の星の神子  作者: Tatsumaru


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第六章 兄ちゃんのお母さん

クラウディア・レーヴェンは、少女が廊下の向こうから歩いてくるのを見て、一瞬、息を止めた。


 青みを帯びた銀髪。


 白い肌。


 細い輪郭。


 大きな目。


 黙っていると、十年前のセレナが小さくなって歩いてくるようだった。


 分かっていた。


 写真も見た。


 映像も見た。


 それでも実物は違った。


 あまりにも似ている。


 胸の奥で、昔と同じ痛みが動く。


 腹立たしい。


 悔しい。


 どうしてあの女は、死んで十年経ってまで自分の前へ戻ってくるのか。


 そんな感情が、一瞬。


 本当に一瞬だけ浮かんだ。


 そして。


 その自分自身へ吐き気がした。


 目の前にいるのはセレナではない。


 十歳の娘だ。


 母を失った娘。


 その母が死ぬきっかけを作ったのは。


 自分だ。


 しかも、この子は数日前、自分を育てた老人まで失った。


「……母上」


 隣にいたユリウスが声をかけた。


 クラウディアは我に返る。


 少女もこちらを見た。


「兄ちゃんのお母さん?」


「そうだ」


 ユリウスが答える。


「こんにちは」


 少女が。


 ニカッと笑った。


 その瞬間、セレナと似ていなくなった。


 クラウディアは、それに救われたような気がして、また自分が嫌になった。


「……あなたが、リナリエッタね」


 少女の眉が少し下がる。


「リナでいいよー」


「……」


「長いから」


 ユリウスが口元を押さえた。


「母上?」


「何でもありません」


 クラウディアは姿勢を正した。


「クラウディア・レーヴェンです。侯爵様の正妻で、ユリウスの母です」


「知ってる」


「……そう」


「クラウディアさん?」


 ユリウスが目を閉じる。


「リナ……」


「え、違う?」


 クラウディアは。


 反射的に訂正しようとした。


 侯爵家の正妻に対して、それは礼を欠く。


 普通なら。


 だが。


「……今は、それで結構です」


「よかった」


 また笑う。


 何も知らずに自分へ。


 まっすぐ。


 クラウディアは、その笑顔を受け取る資格が自分にあるのか分からなかった。


     *


 朝食は、少なくとも大人たちには気まずかった。


 リナ以外の。


「これ何?」


「燻製肉だ」


「こっちは?」


「豆の煮込み」


「これ甘い?」


「ジャムだ」


「パンにつける?」


「ああ」


「いっぱい?」


「適量にしろ」


「適量ってどのくらい?」


「その半分だ!」


「えー」


 アルベルト。


 ユリウス。


 クラウディア。


 三人の視線がリナへ集まる。


 本人はパンへジャムを塗ることに全力だった。


 ただ、以前のように、食べ物を見ただけで無条件に目を輝かせるわけではない。


 一瞬。


 パンを見つめる時間がある。


 それから食べる。


 クラウディアには、その一瞬が分かった。


「リナ」


「なに?」


「食欲はありますか」


「あるよ」


「本当に?」


「うん」


 少し間。


「ゴル爺に、ちゃんと食べろって言われたから」


 クラウディアの胸が締まった。


「……そう」


「でも、たまに食べたくない」


「そういう日もあります」


「食べなくてもいい?」


 クラウディアは、反射的に「いけません」と言いかけて口を閉じる。


「少しでも」


 声を整える。


「身体が受け付けるものを食べなさい」


「怒らない?」


「食べられないことで?」


「うん」


「怒りません」


 即答だった。


「じゃあクラウディアさん、思ったより優しいね」


 クラウディアの手が止まった。


 その言葉を喜べなかった。


 受け取ってはいけないような気がした。


「……そうでしょうか」


「うん」


 リナは何も知らない。


 知らないからこんなふうに笑える。


 クラウディアは、それに甘えている。


     *


 食後。


 アルベルトは軍務省との通信。


 ユリウスは学院の予定確認。


 リナは逃げようとした。


「どこへ行くのです」


「庭」


「礼法の時間です」


「まだ朝だよ?」


「朝だからです」


「関係ある?」


「あります」


「ゴル爺なら取っていいって言う」


 首元の飾りへ手を伸ばす。


「ゴル爺を万能の盾にしない」


「兄ちゃんと同じこと言った!」


「ユリウスもたまには正しいことを言います」


「母上、たまにはは余計です」


 遠くから声が飛んだ。


 リナが笑う。


 クラウディアはその笑い声を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


 礼法を教える。


 髪を整える。


 食事の作法を注意する。


 そういう役目ならまだできる。


 母親の代わりではない。


 セレナの代わりにもなれない。


 なる資格があるとも思わない。


 ただ、目の前にいる十歳の子供へ。


 大人として教えることなら。


「まず姿勢」


「堅苦しいのやだー!」


「始める前から叫ばない!」


「もう苦しい!」


「何もしていません!」


 ユリウスが廊下の向こうで笑った。


「兄ちゃん!」


「僕は何も言ってない!」


 少しだけ、普通の家のような音がした。


     *


 一時間後。


 リナは椅子へ沈んでいた。


「疲れた」


「まだ一時間です」


「一時間もだよ」


「背筋を伸ばすだけでなぜそんなに疲れるのです」


「畑の方が楽」


「比較がおかしい」


「クラウディアさん」


「何です」


「母ちゃんと仲悪かった?」


 クラウディアの指が止まった。


「誰から」


「父ちゃん。ちゃんとはまだ聞いてないけど」


「……そう」


「母ちゃん、嫌いだったの?」


 直球だった。


 嘘をつくのは簡単だった。


 十歳の子供へ、適当に言葉を選べばいい。


 でも、それをすれば、この子が知らないことへ。


 また一つ自分の都合のいい嘘を重ねる。


「……ええ」


 クラウディアは答えた。


「嫌いでした」


「すごく?」


「……とても」


「なんで?」


 クラウディアは自嘲するように笑った。


「たくさんありすぎて、一言では言えません」


「母ちゃん悪い人だった?」


「いいえ」


 即答だった。


 自分でも驚くほど。


「セレナは……いい人でした」


「じゃあなんで嫌いなの?」


「いい人だから好きになるとは限らないのです」


「そうなの?」


「そういうものです」


「大人って難しいね」


「……そうね」


 リナは少し考えた。


「じゃあ、私のことも嫌い?」


 クラウディアの胸が強く締めつけられた。


 少女は責めていない。


 泣いてもいない。


 ただ聞いている。


「……分かりません」


 それがーー今言える最も正直な答えだった。


「そっか」


 リナはなぜか安心したように頷く。


「怒らないの?」


「なんで?」


「嫌いかもしれないと言われて」


「まだ分かんないんでしょ?」


「……」


「じゃあこれからじゃん」


 クラウディアは言葉を失った。


「私もクラウディアさんのこと、まだよく知らないし」


「そうね」


「だから私もまだ分かんない」


 ニカッと。


 少しだけ笑う。


 その顔を見て。


 クラウディアの中で。


 ひどく醜いものが動いた。


 なぜ。


 そんなふうに笑える。


 なぜ。


 セレナの娘が自分を責めない。


 なぜ。


 自分はまだ。


 セレナに似たこの子を見て嫉妬などできる。


「……あなたは」


 声が少し鋭くなった。


「何も知らないのね」


「うん?」


 言ってから後悔した。


 この子には何の責任もない。


 生まれたことに。


 魔力を持ったことに。


 セレナに似ていることに。


 何一つ。


「……いいえ。今のは忘れなさい」


「でも」


「忘れて」


 リナが困った顔をする。


「怒ってる?」


「あなたには」


 クラウディアは、そこで止まった。


 あなたには怒っていない。


 そう言おうとした。


 でも。


 自分が誰に怒っているのか分からなかった。


 セレナか。


 実家か。


 十年前の自分か。


 今も嫉妬してしまう自分か。


「……怒っていません」


 やっとそれだけ言った。


     *


 その日の午後、アルベルトとクラウディアは二人きりで話した。


「リナに、どこまで話しましたか」


 クラウディアが聞く。


「セレナとお前の関係が良くなかったことまでだ」


「そう」


「暗殺の件はまだだ」


 クラウディアの手が膝の上で握られる。


「いつ話すのですか」


「証拠と事実関係を整理してから」


「……私が話すべきでしょうね」


 アルベルトはすぐには答えなかった。


「逃げないならな」


 言葉が刺さる。


「逃げてきたもの」


「ああ」


「十年も」


「ああ」


 クラウディアが目を閉じる。


「私は、あの子に優しくするたびに」


 声が掠れた。


「盗んでいるような気がする」


「何を」


「知らないことを」


 アルベルトは黙る。


「リナは知らないから、私に笑う」


「……」


「私がセレナを追い出したがっていたこと。実家へ何度も訴えたこと。その先で何が起きたか」


 指が震える。


「殺せとは言っていない」


「分かっている」


「でも、それで何が変わるの」


 クラウディアは笑わなかった。


「私が何もしなければ、セレナは死ななかったかもしれない」


「……そうかもしれない」


「そして今、あの子は育ての親まで失った」


「それはお前の責任ではない」


「分かっているわ」


 クラウディアは強く言った。


「分かっている。でも」


 少し声を落とす。


「母親を奪う側に一度立った人間が、あの子へ何をしていいのか分からないのよ」


 アルベルトは、しばらく考えた。


「母親になろうとするな」


 クラウディアが顔を上げる。


「……」


「セレナの代わりにも。ゴル殿の代わりにもなれない」


「なら」


「クラウディアでいろ」


 それは慰めではなかった。


 許しでもない。


 ただ。


 今の彼女へできることを言っただけだった。


「……そう」


 クラウディアは小さく息を吐く。


「では明日も礼法ね」


「そこへ行くのか」


「私にできることですから」


「リナが逃げるぞ」


「捕まえます」


「……ほどほどにな」


「侯爵様」


「何だ」


「侯爵様も父親として、もう少し礼法を」


「なぜ私まで」


「娘の見本でしょう」


 アルベルトの顔が本気で嫌そうになった。


 クラウディアは少しだけ笑った。


     *


 翌朝。


「リナ」


「なにー」


「髪も整えます」


 リナがゆっくり顔を上げた。


「昨日は姿勢だけって」


「昨日は昨日です」


「話が違う!」


「違いません」


「兄ちゃん助けて!」


「母上相手は無理」


「父ちゃん!」


「私も無理だ」


「みんな弱い!」


「いいから座りなさい」


「堅苦しいのやだー!」


 侯爵邸に。


 今日も少しずつ、家族の音が増えていった。

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