第四章 帰る場所 前編
長くなってしまったので、前後編に分けました
レーヴェン侯爵邸を初めて見たリナの感想は。
「……これ、家?」
だった。
アルベルトは嫌な予感がした。
「家だ」
「村?」
「家だ」
「何人住んでるの?」
「家族と使用人を合わせて百人弱だ」
「やっぱ村じゃん」
「違う」
高速艇の窓いっぱいに、白い石造りの本館と庭園が広がっている。左右には翼棟。林まである。
リナは窓へ張りついた。
「父ちゃん」
「何だ」
「迷子になるよ、これ」
「ならない」
「私なると思う」
「案内をつける」
「家なのに?」
「……」
副官が小さく咳払いした。
アルベルトが睨む。
「何だ」
「いえ」
「父ちゃん、ここで迷ったことある?」
「ない」
「今ちょっと間あった」
「ない」
リナはニカッと笑った。
*
その日の夕食。
リナは、さっきから皿を見つめていた。
白いパン。
焼いた肉。
豆の煮込み。
甘い果物。
どれも、故郷では祝いの日でも並ばないものばかりだった。
「食べないのか」
アルベルトが聞く。
「食べる」
そう言いながら、まだ手を伸ばさない。
「具合が悪い?」
「違う」
「では何だ」
リナは肉を指さした。
「これ、ゴル爺にもあげたい」
アルベルトが黙る。
「パンも。これも」
果物。
「ゴル爺は、甘いのが好きなのか?」
「好きって言わないけど、食べたらたぶん全部食べる」
「そうか」
「あと酒」
「酒?」
「大好き」
少し考えてから、リナは付け足した。
「家より好きかもしれない」
「それは問題では」
「冗談だよ。たぶん」
「たぶんを付けるな」
アルベルトは使用人を呼び、翌朝に持たせる食料と酒を用意するよう命じた。
「明日?」
リナが顔を上げる。
「ああ」
「ゴル爺のとこ行ける?」
「一度帰ろう」
「ほんと!?」
椅子から立ちかける。
「座れ」
「はい!」
すぐ座った。
そしてようやくパンへ手を伸ばす。
一口食べて、少し笑った。
「ゴル爺、びっくりするだろうな」
*
夜。
侯爵邸には、音がなさすぎた。
大きな部屋。
柔らかい寝台。
清潔な毛布。
寒くない。
雨漏りもしない。
なのにリナは眠れなかった。
寝返りを打つ。
また打つ。
いつもなら、隣の小さな部屋からゴルの鼾が聞こえた。
うるさいと思っていた。
今は。
聞こえないのが変だった。
「……」
枕へ顔を埋める。
最初は泣くつもりなどなかった。
でも一度涙が出ると、止まらなくなった。
「ゴル爺……」
小さく呼ぶ。
返事はない。
当たり前だ。
星が違う。
そこへ、扉が静かに開いた。
「リナ?」
アルベルトだった。
娘の部屋の前を何度も通り過ぎた末、ようやく声をかけた父親である。
「……何」
リナは顔を隠した。
「眠れないのか」
「眠れる」
「泣いているだろう」
「泣いてない」
「そうか」
アルベルトは追及しなかった。
ただ、寝台の端から少し離れた椅子へ座る。
「明日、朝一番で出る」
「……うん」
「食料も用意した」
「お酒も?」
「私の酒蔵から一本選ばせた」
毛布の中から、少しだけ顔が出た。
「高いやつ?」
「かなり」
「ゴル爺、父ちゃん好きになるかも」
「酒で?」
「うん」
「複雑だな」
鼻をすすって。
リナが小さく笑った。
「父ちゃん」
「何だ」
「私、ここにも住むの?」
「ああ。お前が嫌でなければ」
「村も家だよ」
「分かっている」
「二個あっていい?」
アルベルトは少しだけ間を置いた。
「いくつあってもいい」
「そっか」
それを聞いて、リナはようやく目を閉じた。
*
翌日。
第七植民星へ降りる船には、リナとアルベルト、それに護衛が乗っていた。
侯爵家の護衛艦隊は軌道上に待機する。
アルベルトは必要以上に警戒していた。
未知の魔力を持つ娘が一度辺境へ戻る。
それだけで、もう、「ただの帰省」ではない。
だがリナには、そんな大人の事情より膝の上の袋の方が大事だった。
「パン入ってる?」
「入っています」
護衛騎士が答える。
「肉は?」
「入っています」
「果物」
「入っています」
「お酒」
「別に大切に積んであります」
「なんで酒だけ大切なの?」
「閣下の酒蔵でもかなり高価な品ですので」
リナが父を見る。
「父ちゃん」
「何だ」
「けっこう本気?」
「何がだ」
「ゴル爺に好かれたい?」
「……違う」
「顔に書いてある」
「書いていない」
護衛たちが必死に前を向いた。
*
銀色の船が村へ降りる。
最初に見えたのは人だった。
村中の人間が集まっている。
船が地面へ触れるより早く、皆が一斉に膝をついた。
「……何してるの?」
リナが窓越しに聞く。
答える者はいない。
扉が開く。
リナが降りる。
昨日まで裸足だった少女は、今日はちゃんとした服を着ている。
その後ろには侯爵。
さらに武装した護衛。
空には巨大な船。
「神子様……」
誰かが震える声で言った。
リナが止まった。
「……誰?」
「あなた様でございます」
「私?」
村人たちは額を地面へつける。
「神々に迎えられ、天へ昇られた御方……」
「いや、連れてかれただけだよ?」
「神子様……!」
「だから私、リナだって」
困り果てていると、後ろから遠慮のない笑い声がした。
「はっはっはっは!」
リナの顔がぱっと明るくなる。
「ゴル爺!」
「神子だぁ?」
ゴルは腹を抱えて笑っていた。
「こいつが神子なら、神様はよっぽど人を見る目がないのう!」
「ゴル爺!」
「昨日まで人んちの飯ねだっとったクソガキじゃぞ」
「昨日じゃないよ!」
「大して変わらん」
リナが駆け寄る。
「ただいま!」
ゴルは。
一瞬だけ、笑うのをやめた。
「……おう」
それだけだった。
リナはニカッと笑う。
ゴルがいつものように手を上げる。
「心配かけやがって」
ごん。
頭を小突いた。
「いってぇ!」
「……」
ゴルが自分の拳を見る。
「どうしたの?」
「わしの手の方が痛い」
「なんで殴ったの!」
「知らん! お前が硬くなったんじゃ!」
護衛が目を逸らす。
アルベルトは、そのやり取りを見ながら少しだけ安心した。
この老人は。リナを特級候補とも侯爵令嬢とも見ていない。
ただ、リナとして見ている。
「それで」
ゴルがアルベルトへ目を向けた。
「怖い顔の兄ちゃんは誰じゃ」
「父ちゃん」
リナが即答する。
「ほう」
ゴルが上から下まで見る。
「お前さんが?」
「アルベルト・レーヴェンです」
「知っとる。昨日説明された」
「ではなぜ聞いたのです」
「本人の口から聞きたかっただけじゃ」
アルベルトは少しだけ姿勢を正した。
「リナを育ててくださったこと、礼を――」
「やめい」
「ですが」
「わし一人で育てたわけじゃない。村全体で飯食わせただけじゃ」
「それでも」
「礼したいなら」
ゴルの目が袋へ向いた。
「酒はあるんじゃろうな」
リナが飛びついた。
「ある!」
「よし」
「父ちゃんのすっごく高いやつ!」
「リナ!」
「なんで隠すの?」
「隠していない!」
*
ゴルの小さな家に今まで嗅いだことのない匂いが満ちた。
白いパン。
柔らかな肉。
チーズ。
果物。
村の子供たちが窓の外から覗いている。
アルベルトまで、低い天井の下で小さな椅子へ座っていた。
「父ちゃん、頭ぶつけるよ」
「すでに一度ぶつけた」
「やっぱり」
「なぜ嬉しそうなんだ」
ゴルは酒瓶を開ける。
一口。
止まった。
「……」
「ゴル爺?」
「何じゃ、これ」
「お酒」
「見りゃ分かる」
「うまい?」
もう一口。
瓶を胸へ抱えた。
「これはわしのじゃ」
「最初からゴル爺のだよ」
「誰にもやらん」
「父ちゃんが持ってきたんだよ?」
ゴルがアルベルトを見る。
「侯爵」
「何でしょう」
「お前さん、思ったより悪くないかもしれん」
「酒で決めるのですか」
「大事じゃ」
リナが笑った。
その日の夕方までは、ただの帰省だった。
*
変化に最初に気づいたのは、軌道上の侯爵家護衛艦隊だった。
『未識別艦群、星系外縁に出現!』
ゴルの家の外でアルベルトの端末が鳴る。
「数は」
『……多数』
「多数では分からん」
報告を聞いた瞬間。
アルベルトの顔から、父親の色が消えた。
「所属は」
『識別照合――リューベック連星国』
ゴルが眉を寄せる。
「どこの国じゃ」
アルベルトはすぐには答えなかった。
リューベック連星国。
帝国と共和国。
二つの大国の狭間に位置する小国。
特級を持たない。
外交と交易と、身の丈を超えた軍備で独立を守ってきた国。
そして今。
その国の艦隊が。
ほとんど全力に近い規模で第七植民星へ向かっている。
「目的は」
『通信要求なし。複数艦が高速降下軌道へ』
アルベルトはリナを見る。
十歳。
正式な特級認定前。
まだ自分の力すら分かっていない。
「……リナが目的か」




