第三章 父ちゃん
アルベルト・レーヴェン侯爵は、その日、三度同じ報告書を読み直した。
一度目は、意味が分からなかった。
二度目は、誤報だと思った。
三度目で、ようやく手が震えた。
「……もう一度言え」
執務机の前に立つ副官が、わずかに息を呑む。
「第七植民星で発見された少女についてです」
「名前を」
「本人はリナと名乗っています」
「違う。照合結果だ」
「……はい」
副官は端末を見る。
「旧記録との顔貌照合、八十七・四パーセント。セレナ・アルシェ様との推定血縁一致率、極めて高いとの暫定結果です」
アルベルトは目を閉じた。
セレナ。
十年経っても、その名前だけは胸の奥へまっすぐ刺さる。
「父系は」
「閣下との遺伝情報照合を申請中です。ただし、少女の瞳の色が閣下と一致しています」
薄い赤。
レーヴェン家でも珍しい色だった。
「年齢」
「十歳」
「出生推定日は」
「リナリエッタ様の記録とほぼ一致します」
喉が鳴る。
「死亡記録は」
「存在します」
「誰が確認した」
「当時の家令代理、主治医、埋葬担当者。それから――」
「遺体は」
副官が黙った。
アルベルトが顔を上げる。
「娘の遺体は確認したのか」
「……閣下ご自身による確認記録はありません」
「私は聞いていない。お前たちが確認したのか」
「いえ」
部屋が静かになった。
十年前。
セレナが死んだ。
毒だった。少なくとも、そう聞かされた。
アルベルトは当時、前線から戻る途中だった。
娘の魔力は、セレナが生きていた頃に、自分の命令で封じていた。乳児とは思えない異常な魔力を、政敵や後継者争いの目から隠すためだった。
娘だけでも生かす。
そう決めた。
封印を解かないまま身元を消し、自分の直轄領である第七植民星へ逃がした。
そこまでは自分が命じた。
だが、移送から半年後。
現地から、娘も死んだという報告が届いた。
流行病。幼児死亡。遺体確認困難。
アルベルトは信じた。
いや、信じるしかなかった。
「十年だぞ」
声が掠れた。
「……はい」
「十年間、死んだと思っていた」
墓さえない娘を。
自分が殺したのだと思っていた。
守るために捨て、その先で死なせたのだと。
「閣下。まだ本人と確定したわけではありません」
「分かっている」
「魔力測定値についても――」
「それは後だ」
副官が目を見開いた。
アルベルト・レーヴェンは軍人だった。上級魔術師。帝国軍中将。惑星一つを左右しかねない魔力反応なら、本来は何より先に確認すべき事項だ。
だが今は。
「娘かどうかが先だ」
アルベルトは立ち上がった。
「船を用意しろ」
「すでに帝都から迎えの巡察艦が――」
「私が行く」
「皇室府から身柄移送の命令が出る可能性が」
「なら陛下に直接許可を取る」
「閣下」
「何だ」
「……顔が怖いです」
「いつもだ」
「いつもの三倍ほどです」
「黙れ」
「はい」
副官は礼をし、扉へ向かいかけて止まった。
「少女の映像があります」
アルベルトの呼吸が止まる。
「……出せ」
壁面に映像が浮かんだ。
船内食堂。
小さな少女が、白いパンを両手で持っている。
『食べていいの?』
『どうぞ』
『二個とも?』
『はい』
『ほんとに?』
青みを帯びた銀髪。
横顔。
目元。
鼻筋。
黙っている顔は、あまりにも。
「……セレナ」
少女がパンを食べた。
目を丸くする。
『ふわふわ!』
そして、ニカッと笑った。
アルベルトは瞬きをした。
「……似ていない」
「はい?」
「笑うと全然似ていない」
セレナはもっと静かに、目を細めるように笑った。
この子は違う。
顔全体で笑う。無防備に。楽しそうに。
「……よかった」
「何がでしょう」
「いや」
セレナの写しではない。
この子は、この子自身だ。
*
リナは人生で初めて、まともな服を着せられていた。
「首苦しい」
「締まっていません」
「腕も動かしにくい」
「動きます」
「走れない」
「走る必要がありません」
「じゃあ何のために着るの?」
セレスは答えに詰まった。
生成りのブラウス。濃紺のスカート。薄手の上着。靴。靴下。
全部新品。
「堅苦しいのやだー!」
「靴を脱がないでください!」
「足が変!」
「それが靴というものです!」
「知ってるよ!」
「では履いてください!」
「知ってるのと好きなのは別!」
リナは頬を膨らませたあと、鏡へ顔を近づけた。
見慣れない子供がいる。
銀の髪。赤い目。ちゃんとした服。
「……私って、こんな顔だったんだ」
「とても整っています」
「ふーん」
「それだけですか?」
「何が?」
「いえ……」
セレスは諦めた。
「それより、ゴル爺に連絡できる?」
「地上へ状況は伝えています」
「顔見て話せる?」
「今は通信回線が混雑しています。帰還後なら」
「帰還って今日?」
「……」
「また言いにくそう」
「鋭いですね」
「父ちゃん候補に会ってから?」
「そうなります」
リナは少しだけ不満そうだったが、さっきよりは落ち着いていた。
その時、船内放送が鳴る。
『まもなくレーヴェン侯爵家所属艦と接舷します』
リナの身体が止まった。
「……来た?」
「はい」
「父ちゃん?」
「おそらく」
「おそらくなんだ」
「まだ正式な血縁検査前ですから」
「じゃあ違うかもしれない?」
「可能性としては」
「そっか」
昨日まで、父親などいなかった。
必要とも思っていなかった。
ゴルがいた。村のみんながいた。それで十分だった。
なのに、いるかもしれないと聞いてしまった。
「どんな人?」
「アルベルト・レーヴェン侯爵です。帝国貴族で、上級魔術師。軍人としても――」
「そうじゃなくて」
「?」
「怖い?」
セレスは少し考えた。
「顔は」
「顔は怖いんだ」
「かなり」
「やだなあ」
「悪い方ではないと思います」
「怒鳴る?」
「部下には」
「私にも?」
「それは分かりません」
リナの眉が下がる。
「帰ろっかな」
「今は宇宙ですよ」
「あ」
窓を見る。
星がたくさん。
「歩いて帰れない」
「そうですね」
「困った」
「今気づいたんですか」
少し笑ったところで、扉が開いた。
*
接舷口。
アルベルトは、戦場より緊張していた。
隣の副官が何度もこちらを見る。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「閣下でも緊張なさるのだなと」
「処刑されたいか」
「いつもの閣下で安心しました」
「……」
扉が開く。
最初に現れたのはセレス。
その後ろ。
小さな銀髪。
アルベルトの世界から、一瞬、音が消えた。
十歳。
思っていたよりずっと小さい。
細い。
写真よりも記録映像よりも、ずっと子供だった。
少女がこちらを見る。
薄い赤の瞳。
自分と同じ色。
黙っていると、セレナそのものだった。
胸が痛む。
少女が口を開く。
「……怖い顔」
副官が咳き込んだ。
アルベルトは固まった。
「リナ!」
セレスが慌てる。
「だって怖いよ?」
「ご本人の前で言わない!」
「本人に言わないと分かんないじゃん」
アルベルトは、考えていた言葉を全部失った。
すまなかった。
生きていてくれてありがとう。
私はお前の父だ。
守るためだった。
そんな言葉を、最初にこの子へ押しつけていいのか。
「……アルベルト・レーヴェンだ」
結局、軍人の自己紹介みたいになった。
「うん」
「お前の……父親の可能性が高い」
「可能性なんだ」
「血縁検査が終わっていない」
「真面目だね」
副官が横を向いた。
リナが一歩近づく。
「目、一緒だね」
「……そうだな」
「赤い」
「ああ」
「私よりちょっと濃い?」
「そうかもしれない」
「髪は違う」
「ああ」
「私、母ちゃんと同じなんだって」
アルベルトの喉が詰まる。
「……そうだ」
「母ちゃん、どんな人だった?」
答えは簡単ではなかった。
「綺麗な人だった」
「それ、セレスさんも言ってた」
「賢かった」
「へえ」
「優しかった」
「父ちゃん、好きだった?」
副官が完全に横を向いた。
アルベルトは逃げなかった。
「ああ」
「そっか」
リナはそれ以上聞かなかった。
代わりに。
「ゴル爺のこと、知ってる?」
「報告を受けた」
「私を育ててくれた人」
「ああ」
「帰りたいんだけど」
アルベルトは一瞬、答えに詰まった。
「今すぐは難しい」
リナの顔が曇る。
「なんで」
「お前の身体と魔力の状態が分からない。まず安全を確かめたい」
「私が危ない?」
「お前も。周囲もだ」
「……」
「だが、会わせないとは言わない」
リナが顔を上げる。
「ほんと?」
「約束する」
「いつ?」
「できるだけ早く」
「大人の『できるだけ早く』って遅い?」
「……努力する」
「怪しい」
アルベルトは初対面の娘に早くも信用を試されていた。
*
血縁検査の結果が出たのは、その日の夕方だった。
九九・九九九九八パーセント。
端末に表示された数字を見ても、リナにはよく分からない。
「ほとんど確定、という意味です」
セレスが説明する。
「じゃあ父ちゃん?」
アルベルトが息を止める。
「……ああ」
「ほんとに?」
「ああ」
「そっか」
リナはアルベルトの前まで来た。
しばらく顔を見上げる。
「父ちゃん」
「……何だ」
「顔怖いね」
「そこから離れろ!」
副官がとうとう吹き出した。
リナもニカッと笑った。
アルベルトは怒るべきなのか、泣くべきなのか分からなかった。
結局。
「リナ」
「うん?」
「私の家を見に来るか」
「父ちゃんの家?」
「ああ」
「大きい?」
「……少し」
「ちょっとだけ?」
副官がまた顔を逸らした。
「何だ」
「いえ」
「絶対なんかある」
リナが言う。
アルベルトは頭を押さえた。
それでも、娘と同じ船へ乗って帰れることを。
十年前の自分には想像もできなかった。




