閑話三 リナ、予防接種をする
その日の朝、リナは機嫌がよかった。
パンが温かかったし、ジャムには果物の大きなかけらが入っていた。クラウディアに何か言われる前に適量を取れたので、今朝はまだ一度も注意されていない。
なかなか、よい一日の始まりだった。
アルベルトが書類を開くまでは。
「リナ。今日は医者に来てもらう」
「誰か病気?」
「いや。お前の健康確認だ」
「私、元気だよ」
「それは見れば分かる」
アルベルトは、ジャムのついた娘の口元を指した。リナが布で拭くのを見届けてから、手元の書類へ視線を戻す。
「村では、定期の予防接種を受けていなかったようだからな。こちらで受けておこう」
予防接種。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に何かが浮かんだ。
白い袖と、むき出しの腕。その腕へ近づいてくる、きらりと光る細い針。
いつ、どこで見たものなのかは分からない。けれど、先端が肌に刺さるところだけが、妙にはっきりしていた。
リナはパンを置いた。
「……予防接種って」
「何だ」
「腕にするやつ?」
「ああ」
やっぱりだ。
リナは椅子を引いた。
「やだ」
アルベルトが顔を上げた。
「何?」
「やだ!」
向かいでユリウスの手が止まり、クラウディアも茶器を置いた。
リナは両腕を胸の前で抱え込んだ。今ここで何かされるわけではない。それでも、腕を出しておきたくなかった。
「受けない」
「なぜだ」
「私、病気じゃないもん」
「病気になる前に受けるものだ」
「じゃあ、ならなければいいでしょ」
「そのために受ける」
「ならない!」
アルベルトは書類から手を離した。
「どうして、そう言い切れる」
リナは胸を張った。
「特級だから!」
食卓が静かになった。
ユリウスが、ゆっくり妹を見た。
「……お前、そういう時は自分から言うんだな」
「兄ちゃんは黙ってて」
「まだ一言しか言ってない」
「その一言を黙ってて!」
クラウディアが小さく息をつき、リナの前へ水の入った杯を寄せた。
「まず、落ち着きなさい」
「落ち着いてる」
「椅子から半分立っています」
リナは座り直した。
腕は、抱えたままだった。
*
アルベルトは、娘を医者に診せることが、これほど難しいとは思っていなかった。
村まで定期の接種が行き届いていなかったことは、確認してある。今の体調を診てもらい、必要なものを受ける。今日はそのための時間を取っただけだった。
娘の返事は、ずっと同じだった。
「やだ」
「まだ何も言っていない」
「言う顔してた」
リナは朝食を終え、小さな居間の長椅子に座っていた。膝に抱えたクッションの上へ顎を乗せ、こちらを見ないようにしている。
アルベルトは正面の椅子へ腰を下ろした。
「特級だから病気をしないと、誰かに聞いたのか」
「聞いてないけど」
「では、分からんだろう」
「すごく強いんだよ、私」
「知っている」
「すごく丈夫だし」
「それも分かっている」
「じゃあ、いらないじゃん」
「丈夫であることと、何もしなくてよいことは別だ」
クッションの向こうで、薄赤の目が不満そうに細くなった。
アルベルトは身を乗り出し、娘と目を合わせた。
「お前が病気をしないなら、それが一番いい。だが、そうかもしれないというだけで、必要な備えを省く気はない」
「……念のため?」
「ああ。念のためだ。必要かどうかも含めて、医者に診てもらう」
「私がいらないって言っても?」
「お前は医者ではないだろう」
「特級なのに」
「診察の代わりにはならん」
リナがクッションへ顔を埋めた。
隣に座ったユリウスが、その頭を覗き込む。
「僕も受けているぞ」
「兄ちゃんは上級だから」
「そこを分けるのか」
「父ちゃんも上級」
「そうだな」
「クラウディアさんも上級」
「ええ」
リナは顔を上げた。
「ほら。私だけ違う」
「都合のいい分け方をしない」
クラウディアに言われ、また顎がクッションへ沈んだ。
しばらく黙っていた娘は、やがて横目でアルベルトを見た。
「父ちゃん」
「何だ」
「明日じゃだめ?」
「明日になれば受けるのか」
「明日の私に聞いて」
ユリウスが吹き出した。
アルベルトは額へ手を当てた。
「今のお前に聞いている」
「明日のことは、まだ分かんないよ」
「そこだけ慎重になるな」
リナは、むう、と口を尖らせた。
普段なら庭へ出たがる時間なのに、今日は長椅子から動こうとしない。何かを考えては父を見るので、まだ受けずに済む方法を探しているのだろう。
アルベルトは声を少し落とした。
「先生が来たら、まず話を聞こう。何をするのか、ちゃんと説明してもらう。いきなり何かさせるつもりはない」
「……ほんと?」
「ああ」
「勝手に腕つかまない?」
「つかまない」
そこで初めて、娘の腕から少し力が抜けた。
クラウディアが、膝の上で歪んだクッションを直す。
「終わったら、お茶にしましょう。今日はあなたの好きな菓子を用意してもらいます」
リナの目が動いた。
「いちごの?」
「ええ」
「大きいやつ?」
「いつもの大きさです」
「二つ」
「一つです」
「予防接種するのに?」
「二つ食べるためのものではありません」
少しの間、リナはクッションを見つめていた。
やがて、たいへん不本意そうに頷いた。
「……話は聞く」
アルベルトはようやく背もたれへ身体を預けた。
予防接種を受けると決まったわけではない。
医者の話を聞くところまでで、これだった。
*
午後になっても、リナの機嫌は直らなかった。
庭の鳥も見たし、ユリウスが持ってきた本も少し読んだ。けれど、廊下で足音がするたびに顔が上がり、使用人が通り過ぎると、また口が尖った。
医者が来ると分かっている。
来てほしくない。
でも、来るまでずっと待っているのも嫌だった。
「そんなに扉を見ていても、変わらないぞ」
ユリウスに言われ、リナは本へ目を落とした。
「見てない」
「今、見てた」
「扉があるか確かめたの」
「なくなったら困るな」
「困るよ」
兄ちゃんは、分かっていない。
リナは本の端を指でなぞった。
予防接種が、病気を防ぐためのものだということは分かる。受けた方がよいのだろうということも、分からなくはない。
でも、刺すのだ。
あんなに細いものを、腕に。
頭に浮かんだ針の先を思い出し、リナは袖を引っ張った。何でそんなことだけ知っているのか、自分でも分からない。思い出そうとするとぼんやりするのに、嫌な感じだけはちっとも薄くならなかった。
「……兄ちゃん」
「何だ」
「受ける時、平気だった?」
「ああ」
「一回も嫌じゃなかった?」
「特には」
ユリウスは本から顔を上げた。
「すぐ終わるしな」
すぐ終わる。
父ちゃんも、そう言った。
すぐ終わるなら何をしてもいいわけではない、とリナは思った。
「兄ちゃん、変だね」
「予防接種を受けただけで?」
返事をする前に、扉が叩かれた。
今度は、医者が来たという知らせだった。
*
侯爵家の医師は、落ち着いた声で挨拶をする男だった。
アルベルトやクラウディアと言葉を交わしたあと、リナの前に腰を下ろす。持ってきた鞄は、まだ開けなかった。
「初めまして、リナリエッタ様」
リナの眉が少し下がった。
「リナでいいよー。長いから」
「では、リナ様と」
「様もいらないよ」
医師が一瞬、アルベルトを見る。
アルベルトは小さく息を吐いた。
「本人がそう言うなら、今日はリナで構わん」
「承知しました。では、リナ」
「うん」
リナはニカッと笑った。
――そこで。
医師の足元に置かれた鞄が目に入った。
笑顔が止まる。
そうだった。
この人は、予防接種をしに来たのだ。
頭の中に、朝から何度も浮かんでいた細い針が蘇った。
リナはそっと長椅子の奥へ身体を引いた。
医師が首を傾げる。
「どうしました?」
「……なんでもない」
さっきまでとは明らかに違う目で、医師を見る。
そして、その視線がまた鞄へ落ちる。
「それ」
「これですか?」
「中に何入ってるの」
「診察に使う道具ですよ」
「……予防接種のも?」
「ええ」
リナはさらに少しだけアルベルトの方へ寄った。
「父ちゃん」
「何だ」
「この人、本当にお医者さん?」
「侯爵家の主治医だ」
「ふーん……」
疑っている。
どう見ても疑っている。
医師はそれを見ても笑わず、穏やかに尋ねた。
「今日は、あまり気が進まないそうですね」
「……うん」
「では、いきなり予防接種はしません。まず身体の調子を確かめて、何をするのかも説明します」
リナはしばらく医師を見た。
「勝手にやらない?」
「やりません」
「急に腕つかまない?」
「つかみません」
「……ほんと?」
「本当です」
ようやく、ほんの少しだけ警戒が緩んだ。
「じゃあ、話は聞く」
「ありがとうございます」
医師は真面目に頷いた。
それが少し気に入ったのか、リナも小さく頷き返した。
「では、今朝はご飯を食べられましたか」
「食べた」
「よく眠れました?」
「昨日は」
医師が少し首を傾げた。
「今日は?」
「予防接種って言われたから」
ユリウスが横を向いた。
リナはそちらを睨んだが、医師は笑わずに頷いた。
「それは、落ち着きませんでしたね」
「うん」
この人は、少し分かるらしい。
リナは警戒をほんの少しだけ緩めた。
問診のあと、いくつか身体の調子を確かめられた。どれも嫌なことではなかったし、医師は触れる前に何をするのか教えてくれた。
だからこそ、鞄から細長いケースが出てきた時には、裏切られたような気持ちになった。
とうとう来た。
「診察では、今日の接種を見合わせるような問題はありませんね」
医師はアルベルトへそう伝え、ケースの留め具を外した。
中に入っていたのは、短い銀色の器具だった。片側に小さな表示があり、先端は平たく、丸くなっている。
針は見えない。
まだ、出ていないだけかもしれない。
リナは父ちゃんを見た。
アルベルトは隣の椅子を引き寄せた。
「ここにいる」
「……別に、呼んでない」
「そうか」
立ち上がろうとしたので、リナはすぐに袖をつかんだ。
父ちゃんが止まった。
「呼んでないけど」
「ああ」
「座ってていいよ」
「そうさせてもらう」
アルベルトは腰を下ろし直した。
医師は器具を机の上に置き、リナから見えるように向きを変えた。
「これを腕に当てます。少しひんやりしますが、痛くありません。音が鳴れば終わりです」
リナは器具を見た。
痛くない。
そう言っておけば、逃げないと思っているのかもしれない。
「……ほんとに?」
「ええ」
「すぐ?」
「すぐです」
また、それだ。
リナは父ちゃんの袖をつかみ直した。
クラウディアが反対側から、そっと声をかける。
「袖を上げましょうか」
「自分でやる」
父ちゃんの袖を放したくなかったので、片手で頑張った。途中で引っかかり、しばらく苦労してから、クラウディアを見上げる。
「……ここだけ」
「はい」
クラウディアは何も言わず、布の折れたところだけを直した。
腕が出た。
リナは、その腕を見たくなかった。
「手を握るか」
アルベルトが聞いた。
「いらない」
「そうか」
「でも、動かないで」
「動かん」
医師が器具を持ち上げた。
「では、始めてもよろしいですか」
リナは一度だけ父ちゃんの顔を見て、それから小さく頷いた。
「……うん」
「腕に当てますね」
リナは目をつぶった。
父ちゃんの袖を、ぎゅっと握る。
ひんやりしたものが腕に触れた。
来る。
もうすぐ来る。
小さな音が鳴った。
「はい。終わりました」
リナは目を閉じたまま待った。
何も起きなかった。
「……リナ?」
父ちゃんの声がした。
「今、しゃべんないで」
「終わったそうだ」
「聞こえてる」
「では、なぜ目を開けない」
「だって、まだ」
そこまで言って、リナは片目を開けた。
医師は器具を腕から離していた。小さな表示を確かめ、そのまま机へ置く。
クラウディアも、ユリウスも、普通の顔をしていた。
リナは自分の腕を見た。
「……終わったの?」
「はい」
「今のが?」
「予防接種です」
もう片方の目も開けた。
「消毒とかじゃなくて?」
「接種が終わりました。このあと少し、こちらで様子を見ましょう」
リナは腕をひっくり返した。
何もない。
指でそっと触れてみても、いつもの自分の腕だった。
「いつ刺したの?」
医師の手が止まった。
「……刺す?」
「針」
今度は、アルベルトがリナを見た。
「針?」
「だって、注射って、針を刺すでしょ?」
誰も答えなかった。
リナは机の上の器具を指さした。
「そこの先から、細いやつが出てきて。腕に刺して、お薬を入れるやつ」
医師は器具とリナを交互に見た。
「これは、針を使いませんよ」
「……え?」
「平らな部分を肌に当てて、薬剤を届けるものです」
「出てこないの?」
「出てきません」
「隠れてるんじゃなくて?」
「針は入っていません」
リナは、器具を見つめた。
医師がそれを持ち上げ、丸い先端をもう一度見せてくれる。確かに、肌に触れたところは平らだった。
でも、リナが見たかったのは、その中だった。
「ほんとに一本も?」
「一本も」
横で、アルベルトがゆっくり息を吐いた。
「……お前、朝から、それをされると思っていたのか」
「うん」
「針を、腕に」
「うん」
クラウディアが眉を寄せた。
「それは……痛いでしょうね」
「だから嫌だったんだよ!」
ようやく、話が通じた。
*
ユリウスは机に置かれた器具を見ていた。
それから、まだ父の袖をつかんでいる妹を見る。
「予防接種で、針を刺すと思っていたのか」
「そう言ってるじゃん」
「それで、あんなに嫌がっていたのか」
「兄ちゃん、ずっとすぐ終わるって言ってた」
「すぐ終わっただろう」
「刺すと思ってたんだよ!」
「それは今知った!」
クラウディアが間へ手を入れた。
「二人とも、声を落としなさい」
医師はリナの腕をもう一度確かめてから、穏やかに尋ねた。
「針を使う予防接種を、どこかで見たのですか」
リナは少し考えた。
白い袖と、細い針。
さっきまではあんなにはっきりしていたのに、どこで見たのかを考えると、途端に分からなくなる。
「……分かんない」
「分からない?」
「なんか、注射って刺すものだと思ってた」
それ以上は、うまく説明できなかった。
医師は無理に聞こうとはせず、頷いた。
「そうでしたか。では、これからは器具のことも、もう少し詳しく説明しましょう」
「今日のは、ほんとに痛くなかった」
「ええ。先ほど、そう申し上げました」
リナは口を閉じた。
確かに、言っていた。
言っていたが。
「あれ、本当だったんだ」
アルベルトが額を押さえた。
「嘘だと思っていたのか」
「だって、痛くないって言ったら、逃げないでしょ」
「……誰に教わったんだ、そういう考え方は」
「知らない」
リナは腕を眺めた。
朝から、ずっと嫌だった。
パンを食べ終わってからも、庭を見ている時も、本を読んでいる時も。廊下の足音がするたびに、もう来たのかと思った。
それが、ひんやりして、小さな音がしただけだった。
「……あんなに嫌だったのに」
思わず漏らすと、父ちゃんがこちらを見た。
「怖かったんだな」
「嫌だったの」
「そうか」
言い直したところは、直されなかった。
アルベルトはつかまれている方の腕を動かさず、もう片方の手で娘の髪を軽く撫でた。
「終わってよかった」
「……うん」
リナは小さく頷いた。
ユリウスが、少し笑って言った。
「特級だから受けなくていい、ではなかったな」
「兄ちゃん」
「何だ」
「今それ言わなくていい」
「はい」
返事が素直すぎたので、余計に腹が立った。
でも、朝から胸の中にあった嫌な感じは、もうなくなっていた。
窓の外で鳥が鳴く。
リナはそちらを見て、それからクラウディアへ顔を戻した。
「いちごのやつは?」
「先生がよいとおっしゃってからです」
「ちゃんとある?」
「あります」
そこで、少しだけ気になった。
「……痛くなかったけど、もらえる?」
クラウディアは一瞬、目を丸くした。
それから口元を緩めた。
「痛い思いをする代わりに、用意するのではありません」
「じゃあ、ある?」
「ええ。約束ですから」
リナは、ようやくニカッと笑った。
*
医師が記録をつけている間も、リナは何度か自分の腕へ目をやった。
やはり、何ともない。
時間が経ってから急に痛くなるのではと少し疑ったが、そんな様子もなかった。
「次も、これ?」
机の上の器具を指して尋ねると、医師が頷いた。
「ええ。同じ方法です」
「針なし?」
「針なしです」
「じゃあ、いいよ」
さっきまでの不機嫌が嘘のように、あっさりした返事だった。
ユリウスが片眉を上げる。
「次は朝からあんなに騒がないな」
「騒がないよ。もう知ってるもん」
「それは助かる」
リナは胸を張り、それから隣の父ちゃんを見た。
「次も来る?」
「私か」
「うん」
「もう平気なのだろう」
「平気だよ」
アルベルトが何か言おうとすると、リナはその袖を小さく引いた。
「でも、いてもいいよ」
父ちゃんは袖を見た。
リナも見た。
ずっと、握ったままだった。
「……念のため」
朝、父ちゃんが使った言葉だった。
アルベルトは少し笑って、頷いた。
「ああ。念のためだ」
リナは満足そうに頷き、ようやくその袖を放した。




