閑話四 リナ、畑を耕す
侯爵邸の庭を案内してもらっている間、リナが尋ねることは、だいたい決まっていた。
「これ、食べられる?」
「こちらは、花を楽しむためのものです」
「じゃあ、あっちは?」
「あちらも、食用ではございません」
「ふーん」
リナは花壇の前にしゃがみ込み、葉の間から顔を出している小さな花を見た。綺麗だとは思う。思うが、こんなに広い場所に、食べられないものがずっと植わっているのは不思議だった。
庭師が花の下へ手を入れ、枯れた葉を取り除く。その脇に小さな草が生えているのを見つけ、リナも手を伸ばしかけた。
途中で止める。
「これ、抜いていいやつ?」
「ええ。そちらは構いません」
根元をつまんで引き抜き、庭師が持っている籠へ入れる。もう一つ見つけたので、それも抜いた。
「お慣れなのですね」
「畑でやってたから」
リナは土のついた指をこすり合わせ、庭の向こうへ目をやった。
「畑、どこ?」
「畑ですか」
「お芋とか植わってるとこ」
「料理に使う香草なら、厨房の裏で育てておりますが、芋は植えておりません」
リナが庭師を見上げた。
「こんなに広いのに?」
「はい」
「もったいないねー」
庭師は花壇を見た。
手入れを怠っているわけではない。季節ごとの花を選び、庭のどこから眺めても楽しめるように植えている。今朝も、よい具合に咲いていると思っていた。
リナはその花をしばらく眺めてから、空いている手で庭の奥を指した。
「あっちに、ちょっと作れない?」
「畑を、ですか」
「うん。花はここにあるでしょ。あっちにお芋もあったら、いいと思う」
「お嬢様がお育てになるのですか」
「やりたい」
即答だった。
「鍬、ある?」
「ございますが、まずは旦那様か奥様に、ご相談を」
「そっか」
リナは立ち上がり、膝についた土を払った。
「父ちゃんに聞いてくる」
その足取りは、庭へ出てきた時よりも、ずっと弾んでいた。
*
「父ちゃん。畑、作っていい?」
アルベルトの筆が止まった。
書斎の扉の前には、期待に満ちた顔の娘が立っていた。その後ろには庭師が控えているので、聞き間違いではないらしい。
「……庭にか」
「うん」
「どの辺りへ」
庭師が進み出て、道具小屋に近い空き区画のことを説明した。今は何も植えておらず、日当たりも悪くない。小さな畑なら作れるという。
アルベルトは話を聞いてから、娘へ視線を戻した。
「芋が食べたいなら、料理長に言えば出してもらえるぞ」
「食べたいんじゃなくて」
リナは少し考えた。
「食べたいけど」
「どちらだ」
「作りたいの」
そう言って、両手で小さな四角を作ってみせた。
「土、耕して。植えて。生えたら、抜いて食べる」
「育てるところを、かなり省いたな」
長椅子で本を読んでいたユリウスが口を挟んだ。
「ちゃんと育てるよ」
「分かっている」
「兄ちゃん、畑やったことある?」
「ないけど」
リナの顔が明るくなった。
「じゃあ、教えてあげる」
ユリウスは本から顔を上げた。
「……僕がやるところまで、決まっているのか」
「嫌?」
「いや。どのくらいやるのか、先に聞かせろ」
「ちょっと」
「お前の『ちょっと』は、時々大きい」
アルベルトは筆を置き、庭師へ向き直った。
「最初は、無理なく世話ができる広さで頼む。植えるものも、こちらの土に合うものを相談してやってくれ」
「かしこまりました」
「いいの?」
「ああ。ただし、勉強や礼法の時間まで、勝手に畑仕事へ変えるなよ」
「畑の勉強じゃ、だめ?」
「別だ」
リナは少し口を尖らせたが、すぐに庭師の方へ向き直った。
「いつできる?」
「お道具と場所を整えましたら」
「兄ちゃんのお休みの日にしよう」
「だから、僕の予定を先に決めるな」
そう言いながら、ユリウスは本に栞を挟んだ。
*
数日後、学院が休みの朝。
ユリウスが庭の奥へ行くと、リナはもう、道具小屋の前で庭師と話していた。
飾りのない服に、汚れてもよい靴。髪は低い位置でまとめられ、袖口は左右きちんと揃えて折られている。腰には作業用の前掛けまでつけてもらっていた。
「兄ちゃん、遅い」
「約束の時間だぞ」
「私はもう来てる」
「それは、お前が早いんだ」
普段、朝の支度で待たせる方の妹が、今日は待っている側だった。
リナは手にした鍬を見せた。庭師が用意した、柄の短いものだ。小さな手で握る位置を変えながら、何度か重さを確かめている。
「これ、貸してもらった」
「使えるのか」
「使えるよ」
不思議そうに答えてから、リナはユリウスの服を見た。
「兄ちゃんも、汚していいやつ?」
「ああ。母上に確認された」
「私も。泥はついていいけど、泥のまま家に入るなって」
「同じことを言われた」
「気が合うねー」
「同じ人に言われたんだ」
庭師が二人へ軍手を渡し、予定の場所へ案内した。
生垣から少し離れた空き区画に、目印の杭と紐が張ってある。二人で作業をすれば、そう長くはかからない広さだった。
リナはしゃがみ、表面の土を指先で崩した。小さな塊をつまみ上げ、手の中で転がす。
「村のと、違うね」
「どのように違いますか」
「もっと固くて、石が多かった」
「では、こちらの方が耕しやすいかもしれませんね。ただ、奥に以前の植木の根が残っていることがあります。太い根に当たったら、私を呼んでください」
「うん」
リナは立ち上がり、ユリウスへ籠を渡した。
「石とか、抜いた草はこっち」
「分かった」
「こっちからやって。私は向こう」
「分かった」
「鍬、使ったことある?」
「ないと、言っただろう」
「あ。そうだった」
リナはユリウスの手元を見た。
「じゃあ、先に見てて」
*
鍬の刃が土へ入り、小さな塊が起こされる。
リナはそれを軽く崩し、混じっていた石を拾って籠へ入れた。一歩ずれて、同じことをする。
大きく振り上げるわけでも、勢いよく掘り返すわけでもなかった。小さな身体が少しずつ動くたび、固まっていた地面がほぐれていく。
ユリウスは、その手つきを見ていた。
村で畑仕事をしていたことは聞いている。
けれど、実際に見るのは初めてだった。
いつものリナは、屋敷でも街でも、分からないものを見つけると誰かを呼ぶ。これは何か、どうすればいいのか、何でそうなるのか。
今は、誰も呼ばない。
刃に草の根が絡めば外し、石に当たれば場所を変える。次に何をすればよいか、手が先に知っているようだった。
「兄ちゃん?」
「ん?」
「見てた?」
「見ていた」
「じゃあ、やってみて」
ユリウスは鍬を握り直した。
先ほどのリナと同じように、土へ刃を入れる。
思ったより、深く入った。
柄を引くと、大きな土の塊が持ち上がり、足元へどさりと落ちた。
リナがその塊を見た。
「……何か埋まってるの?」
「いや」
「じゃあ、そんなに掘らなくていいよ」
「力加減が分からなかったんだ」
庭師がそばへ来て、刃を入れる角度を示した。
「少しずつで構いません。最初から深く取ろうとなさらずに」
ユリウスは頷き、もう一度試した。
今度は土が浅くめくれた。
「それ。それを、崩す」
リナに言われたとおりにすると、ようやく少し、畑仕事らしくなった。
「こうか」
「うん。あと、石あったら拾って」
「分かった」
次の場所へ移ろうと足を出したところで、声が飛んだ。
「兄ちゃん、そこ踏まないで」
ユリウスは止まった。
「まだ何も植えていないだろう」
「今、柔らかくしたとこ」
「……ああ」
「そこ踏んだら、また固くなるよ」
足を引っ込める。
リナが紐の外を指した。
「歩くの、こっち」
「分かった」
「分かったって、さっきも言った」
「一つずつ違うことを教わっているんだ!」
庭師が咳払いをした。
ユリウスはそちらを見たが、庭師は真面目な顔で、少し離れた場所の根を取り除いていた。
リナはもう、自分の作業へ戻っている。
「学校みたいだな……」
呟くと、すぐに返事が来た。
「兄ちゃん、いつも私に言ってるじゃん。ちゃんと見てって」
反論できなかった。
*
しばらくすると、ユリウスの鍬も、最初ほど大きな音を立てなくなった。
起こした土を崩し、石を拾う。草の根を見つけたら、残さないように取り除く。作業の順番が分かってくると、次にどこへ手を伸ばせばよいか、少しずつ見えるようになった。
隣では、リナが土の塊を鍬の背で崩していた。
「それ、細かくするのか」
「うん。大きいの残ってると、ゴル爺にやり直しって言われた」
名前は、ごく普通に出てきた。
ユリウスが顔を向けると、リナは土を見たまま続けた。
「上だけ綺麗にしても、分かるんだよ。ちょっと掘ると、下が固いから」
「上だけ綺麗にしたことがあるのか」
「早く終わらせたくて」
「なるほど」
「その時だけだよ」
「何も言っていない」
リナは石を拾い、籠へ入れた。
それから、ふっと笑った。
「でも、ゴル爺も、たまに大きい石残してた」
「どうしたんだ」
「ここ、まだあるよーって言う」
「言い返すのか」
「だって、私には言うのに」
ユリウスは笑い、妹が残していた塊を一つ崩した。
中から小さな石が出てくる。
「リナ。ここ、まだあるぞ」
リナが顔を上げた。
「今から拾うとこだったの!」
「そうか」
「ほんとだよ」
そう言いながら石を受け取り、籠へ入れる。
少しの間、二人の鍬が土に触れる音だけが続いた。
風が生垣の葉を揺らした。掘り返した土の匂いが、立ち上がってくる。
リナは鍬を止め、足元を見下ろした。
「……こういう匂いだった」
ユリウスも手を止めた。
「村の畑か」
「うん」
リナはしゃがみ、ほぐれた土をひとつかみ取った。指を開くと、手袋の間からぱらぱらと落ちていく。
「土は違うけど。掘ると、ちょっと似てる」
土を落とし終わっても、しばらくその手を見ていた。
ユリウスは何か言いかけ、やめた。
代わりに、自分の足元へ視線を落とす。
「こっちは、もういいか」
リナが顔を上げた。
こちらへ来て、耕した場所を眺める。端の方を鍬で軽く崩し、中を確かめた。
「うん。最初より、上手」
「それはどうも」
「明日もやったら、もっと上手になるよ」
「仕事を増やすな」
リナが笑った。
ユリウスも鍬を持ち直し、まだ残っている場所へ足を向けた。今度は、柔らかくした土を踏まなかった。
*
庭師に仕上がりを見てもらい、土を整える頃には、二人ともすっかり汚れていた。
リナは膝と前掛けに土がつき、鼻の横にも小さな茶色の跡があった。ユリウスはそれに加えて、袖と靴まで汚れている。途中で膝をついて根を抜いた時、思った以上に土を抱え込んだらしかった。
それでも、紐の内側は見違えるようになっていた。
草の混じった固い地面が、ほぐれた土の小さな区画に変わっている。
リナは鍬を置き、端から端までゆっくり眺めた。
「いいねー」
声が、しみじみしていた。
庭師が土を手に取り、崩れ具合を確かめる。
「よくできています。植える前の支度は、私も一緒にいたします。芋も、こちらで育てやすいものを幾つかご用意しましょう」
「村のお芋とは違う?」
「同じようなものも、違うものもございますよ」
「おいしい?」
「それぞれに」
リナがユリウスを見た。
何を言うか、何となく分かった。
「全部は植えられないぞ」
先に言うと、妹の眉が下がった。
「まだ言ってない」
「言う顔をしていた」
今度は、こちらの番だった。
リナは畑を見て、その隣の空いた地面を見た。
ユリウスもそちらを見た。
「増やすなよ」
「……ちょっとだけなら」
「今日は、ここまでだ」
庭師が小さく笑い、道具小屋から水と布を持ってきてくれた。
二人で手を休めていると、庭の小道からアルベルトとクラウディアが歩いてきた。
アルベルトは出来上がった区画を見て、少し目を見開いた。
「二人でやったのか」
「庭師さんも、手伝ってくれたよ」
リナが答える。
「兄ちゃん、最初、すごい塊掘った」
「最初の話は、もういい」
「でも、最後はちゃんとできてた」
「それも報告するのか」
アルベルトが口元を緩めた。
「なるほど。よい先生がいたようだな」
リナが胸を張る。
「うん」
「自分で頷くな」
クラウディアは畑を見たあと、二人の服へ視線を移した。
「ずいぶん、働いたようですね」
「兄ちゃんの方が汚いよ」
「お前に言われた根を抜いていたからだ」
「ちゃんと抜けた?」
「抜けた」
「じゃあ、よかった」
それで話が終わった。
クラウディアはリナの鼻の横へ布を当て、土を拭った。
「作業は終わったのですね」
「うん。今日は」
「では、お道具を片づけたら、裏の洗い場で土を落としなさい。着替えるまで、居間には入らないこと」
「分かってるよー」
リナは布を受け取り、自分でも頬を拭いた。
その間にアルベルトが畑へ近づいたので、ユリウスが声をかけた。
「父上。そこは踏まないでください」
アルベルトが足を止めた。
「まだ、何も植えていないだろう」
「今、柔らかくしたところですから」
リナが兄を見た。
ユリウスは気づかないふりをしたが、間に合わなかった。
「兄ちゃん、今の――」
「覚えたんだ」
リナは口を開いたまま、少し考えた。
それから、満足そうに頷いた。
「うん。そうだね」
褒められたようだった。
*
道具を洗って戻したあと、ユリウスは庭師から小さな板を一枚もらった。
植える場所の目印に使うものだという。
何の畑か分かるようにしておこうと筆を借り、短い文字を書いた。
リナの畑。
隣から覗き込んでいたリナが、声に出して読んだ。
「リナの、畑」
「ああ」
「いいね」
板を受け取り、両手で持って眺める。
ただの板なのに、急に大事なものになったような持ち方だった。
ユリウスが道具を片づけていると、袖を引かれた。
「兄ちゃん」
「何だ」
「兄ちゃんの名前も、書いて」
ユリウスは板を見た。
「お前の畑だろう」
「一緒に耕したじゃん」
「僕は手伝いだ」
「じゃあ、手伝った人の名前」
リナは板の下の方を指した。
「ここ、まだ空いてるよ」
ユリウスは少し迷ってから、筆を取り直した。
下へ小さく、自分の名前を書き加える。
リナがじっと見ていた。
「……兄ちゃんの名前、長いね」
「お前も正式には長いだろう」
「私はリナだから、いいの」
それを言われると、どうしようもない。
二人で畑へ戻り、杭に板を取りつけてもらった。リナは少し離れたところまで下がり、首を傾けながら出来栄えを確かめた。
まだ、何も植わっていない。
花も咲いていないし、葉も出ていない。ただ、耕した土があるだけだった。
それでも、リナは何度も振り返った。
洗い場へ向かって少し歩き、また振り返る。
「忘れ物か」
ユリウスが聞くと、リナは首を横に振った。
「見ただけ」
「なくならないぞ」
「知ってる」
けれど、もう一度だけ見た。
それから兄を見上げる。
「お芋できたら、一緒に掘ろうね」
「植える前から、収穫の話か」
「大事だよ。掘るのも教えてあげるから」
「そちらは、もう少し上手くやりたいな」
「大丈夫。今日、上手になったじゃん」
リナはニカッと笑い、今度こそ前を向いて歩き出した。
ユリウスも、その隣へ並ぶ。
明日の朝は、まず畑を見に行くのだと、妹は話していた。何を植えるか庭師に聞いて、土の続きを教わって、それから――。
「リナ」
「なに?」
「明日の勉強も、忘れるなよ」
リナの顔が、少しだけ曇った。
「……兄ちゃん」
「何だ」
「畑の時の方が、素直でよかったよ」
「お前も、勉強の時にそれくらい働いてくれ」
少しの沈黙のあと、リナは言った。
「じゃあ、明日は、先に畑ね」
「順番の交渉をするな」
笑いながら歩く二人の後ろに、小さな畑と、二人分の名前が残った。




