閑話二 リナ、髪を切る
閑話は書いてて楽しいですね(本編もですが)
この話が個人的に一番好きです。
リナが侯爵邸で暮らし始めて、まだ数日しか経っていなかった頃のことだった。
朝食のあと、クラウディアは小さな居間でリナの髪を梳いていた。窓から差す光を受けて、櫛の間を滑る銀色に淡い青が浮かぶ。毛そのものは細く柔らかいが、長さはところどころ不揃いで、毛先には少し傷みもあった。
椅子に座った本人は、鏡を見るより庭の方が気になるらしい。さっきから鳥が飛んでくるたびに首を動かすので、櫛を入れる側には少々やりにくい。
「リナ。前を向いていなさい」
「向いてるよ」
「今、向いたのです」
「鳥がいた」
「鳥は逃げても、あなたの髪は私の手にあります」
「じゃあ逃げられないねー」
「そういう話ではありません」
クラウディアは絡まった毛先を指でほぐしてから、もう一度、ゆっくり櫛を通した。
「少し、髪を切りましょうか」
鏡の中で、リナが目を丸くした。
「髪?」
「ええ。毛先を整えれば、手入れもしやすくなります。どうかしら」
リナは自分の肩にかかった髪をつまみ、それから鏡越しにクラウディアを見上げた。正確には、クラウディアがきちんと結い上げている金髪を見た。
何かを考えるように口を閉じる。
やがて、その顔に妙な納得が浮かんだ。
「ああ。そっかー」
「……何がです?」
「うん。いいよ。切って」
嫌がられるかもしれないと思っていたので、あっさりした返事は少し意外だった。
「本当に、いいのですね」
「いいよー。いっぱい切っていい」
「いっぱい切る必要はありませんが……では、午後に美容師を呼びましょう」
「ここに来るの?」
「ええ」
「ふーん」
リナはもう一度、自分の髪をつまんで眺めた。その顔は、何か役に立つことを思いついた子供の顔だった。
クラウディアには、その理由が分からなかった。
ただ、本人が嫌がっていないのなら、よいだろうと思った。
*
午後、アルベルトが居間を覗くと、窓際に大きな鏡が運び込まれていた。
その前に座ったリナは、首から下を白い布ですっぽり覆われている。椅子には足が届かないので、下に小さな足台が置かれていた。横ではクラウディアが美容師と話し、ユリウスは少し離れた長椅子から、その様子を眺めていた。
「父ちゃん。見て」
リナが布の下で両腕を広げた。
「手、なくなった」
「中にあるだろう」
「分かる?」
「分かる」
アルベルトはユリウスの隣に腰を下ろした。
「髪を切るのか」
「母上が、少し整えた方がいいと」
「そうか」
「本人も乗り気ですよ。さっきから、どのくらい切れるか気にしていました」
確かに、鏡の前の娘は妙に張り切っていた。背筋を伸ばせと言われる前から、きちんと座っている。朝の礼法の時間にもその姿勢を見せてほしいものだが、今日は何か理由があるらしい。
侯爵家に出入りしている美容師は、落ち着いた物腰の女性だった。手を清め、道具を並べてからリナの後ろに立つと、髪の一房をそっと持ち上げた。
「まあ……本当に、綺麗なお髪ですこと」
リナの目が鏡へ戻った。
「綺麗?」
「ええ。銀色の中に、こんなに柔らかな青が差して。光の当たり方で表情が変わるのですね。細くて、手触りもよろしいですし」
「おおー」
「お顔立ちも整っていらっしゃるから、どのように仕上げてもお似合いになるでしょう」
褒められている娘は、照れるでもなく、ふんふんと真面目に頷いていた。品物の説明でも聞いているような顔だった。
「それでは、お嬢様。どのような髪型がお好みですか?」
「……髪型?」
「ええ。長さを残して整えることもできますし、少し短くして軽くすることもできます。ご希望があれば、何なりと」
リナは不思議そうに眉を寄せた。
それから少し考えて、はっきり言った。
「丸坊主」
美容師の櫛が止まった。
クラウディアは開きかけた口をそのままにし、ユリウスは長椅子の背から身体を起こしかけた姿勢で動かなくなった。
アルベルトも止まった。
リナだけが、鏡の中の美容師を見ていた。
「……お嬢様?」
「丸坊主でいいよ」
「その……かなり短く、ということでしょうか」
「うん。全部」
白い布の中から片手が出てきて、自分の頭を指す。
「ここ、つるつるにするやつ」
「リナ」
アルベルトは立ち上がった。
昔、環境が変わったことで落ち着かなくなり、自分の毛を抜いてしまう動物がいる、と聞いたことがあった。
毛を抜くことと、髪を切ることは違う。違うはずだ。
だが、娘は育ての親を失ったばかりだった。家も変わった。周囲にいる人間も、毎日の暮らしも変わった。平気そうに笑っているからといって、平気だと決めつけていいわけがない。
アルベルトは椅子の横に膝をつき、娘の顔を覗き込んだ。
「この家で、何か嫌なことがあったか」
「ないよー」
「誰かに何か言われたか。困っていることはないか」
「うーん」
リナが考え込む。
アルベルトは返事を待った。クラウディアもユリウスも、黙ってこちらを見ていた。
「髪、切るんじゃないの?」
「その前に聞いている」
「父ちゃん、変なの」
娘は首を傾げ、それから、気遣うような顔で言った。
「大丈夫だよ。髪はまた生えるから」
安心するための言葉なのだろう。
少しも安心できなかった。
「リナ。なぜ、全部切りたいんだ」
「全部の方がいいでしょ?」
「何に対してだ」
「え?」
リナは、なぜそこが伝わらないのか分からない、という顔をした。
そして、しみじみと頷いた。
「こうしゃくけも、意外とお金ないんだねー」
アルベルトは娘を見つめた。
「……何?」
「兄ちゃん、お金持ちだって言ってたけど。やっぱり毎日だと大変なんだね」
今度はユリウスを見る。
息子は首を横に振った。僕にも分かりません、と顔に書いてあった。
「何が、毎日だと大変なんだ」
「ご飯」
「ご飯?」
「だって、ふわふわのパンでしょ。お肉も出るし、スープもあるし、果物もあるでしょ。それで、甘いものまで出るんだよ」
リナは布からもう片方の手も出すと、指を折りながら数え始めた。
「昨日もあった。一昨日もあった。今日もあった」
「ああ」
「すごいよねー。一回だけでもすごいのに」
心から感心している声だった。
「私も食べるし。そりゃ大変だよね」
「待て」
アルベルトは片手を上げた。
「今、何の話をしている」
「だから、ご飯のお金」
「髪の話ではなかったのか」
「そうだよ?」
何一つ、おかしなことは言っていない。
娘の顔はそう言っていた。
リナは大人たちを順番に見回すと、美容師へ向き直った。
「ほら。早く切ってよ。私、動かないから」
ぴんと背筋を伸ばし、両手を布の下へしまう。
美容師は櫛を持ったまま、クラウディアを見た。クラウディアは静かに首を横へ振った。
「リナ。切るのは、少し待ちなさい」
「えー。さっき切るって言ったのに」
「事情を聞いてからです」
「事情?」
「あなたは今、何のために髪を切ると思っているのですか。初めから、順番に話してごらんなさい」
リナはますます不思議そうな顔をした。
「売るんでしょ?」
誰も返事をしなかった。
少しして、アルベルトが聞き返した。
「……何を」
「髪」
リナは、自分の肩にかかった青銀の髪を指さした。
「これ」
*
「村に来た人がね、こういう色は珍しいからって、買ってくれたんだよ」
リナは当たり前のことを説明する口調で話した。
「伸びてたやつを切って。それで、けっこうお金もらえたの」
「……髪を売ったことが、あるのか」
「うん。パンとか、お肉とか買えた」
リナは少し笑った。
「ゴル爺と、お肉の入ったスープ食べたよ。いつもよりいっぱい入ってるやつ」
「……そうか」
「おいしかった」
アルベルトは娘の肩にかかった青銀の髪へ目を向けた。
綺麗だとは思っていた。セレナによく似ているとも。
その髪が、食べ物を買うためのものでもあったことは、考えたことがなかった。
守るために、辺境へ送った。
けれど、その先にあった娘の暮らしを、自分は知らなかった。こうして何でもないことのように話されるまで。
思わず顔をしかめると、リナがこちらを覗き込んだ。
「父ちゃん」
「……何だ」
「大丈夫。ちゃんと高く買ってくれそうだよ」
アルベルトは娘を見た。
「さっき、綺麗っていっぱい言ってたし」
リナは美容師へ目を向け、安心させるように頷いた。
「帝都でも、けっこう高いんじゃない?」
「……値段の心配ではない」
「違うの?」
今度は、リナが不思議そうな顔になった。
美容師も、ようやく事情を飲み込んだらしかった。
「あれは、その……お髪を拝見した感想でして。お値段のお話では」
「違うの?」
「はい」
「じゃあ、髪型を聞いたのも?」
「お嬢様が、どのような髪型になさりたいかを」
「全部切らないの?」
「全部切る必要は、ございません」
リナが困ったようにアルベルトを見た。
「でも、ちょっとだと、ちょっとしかないよ?」
「たくさん用意する必要がないんだ」
「そっか。こっちだと少なくても高い?」
「値段から離れろ」
ユリウスが口元を押さえた。
笑う場面ではない。
そう思っている顔だったが、かなり苦労していた。
クラウディアはリナの正面へ回り、膝の上に揃えられた小さな手を見た。
「朝、私が髪を切ろうと言った時から、そう思っていたのですね」
「うん。ご飯代かなーって」
「……それで、私の髪を見ていたのですか」
「クラウディアさんの髪も、綺麗だから高く売れそうだなって」
クラウディアの指が、自分の髪へ触れかけて止まった。
「私の髪は、売りません」
「売らないの?」
「売りません。あなたの髪も、食事代のために切るのではありません」
リナはしばらく考えてから、小さく首を傾けた。
「じゃあ、何で切るの?」
「長さを揃えて、手入れをしやすくするためです。毛先が傷んでいるところもありますから」
「それだけ?」
「それだけです」
リナの視線が、鏡と、道具と、美容師の間を行き来した。
それだけのために人を呼んだのか。
口には出さなかったが、そう思っていることはよく分かった。
アルベルトは、まだ膝をついたままの姿勢で娘に向き直った。
「リナ。お前の髪を売らなければ食事が出せないほど、この家は困っていない」
「ほんと?」
「ああ」
「毎日、あんなに食べても?」
「大丈夫だ」
リナは父の顔をじっと見た。
見栄を張っていないか、確かめているらしかった。
「お金、ちゃんとある?」
「ある」
「無理してない?」
「していない」
「父上が娘に家計を心配されている……」
「ユリウス」
「すみません」
息子は顔を背けた。
アルベルトは娘に視線を戻し、できるだけ分かりやすい言葉を選んだ。
「お前が飯を食うために、自分の髪を差し出す必要はない。パンも肉も、ちゃんと用意できる」
「甘いのも?」
「そちらは食べすぎないように」
クラウディアが口を挟んだ。
「今、お金あるって言ったよ?」
「お金とは別の話です」
「そっかー」
そこは素直に頷いた。
アルベルトはようやく息をつき、立ち上がった。膝が少し痛かった。
「分かったか」
「うん。売るために切るんじゃないんだね」
「そうだ」
「髪を揃える」
「そうだ」
娘は鏡に向き直り、自分の髪を左右に持ち上げて見比べた。
今度こそ、話が通じたらしい。
美容師もほっとしたように肩の力を抜いた。
「それでは、改めまして。どのくらいの長さになさいますか?」
リナは鏡の中の自分をしばらく眺めた。
売る量ではなく、自分の頭に残す形を考えるのには、少し時間がかかるようだった。
「走る時、顔に入らないのがいい」
「それでしたら、結べる長さを残しましょうか。お顔の周りも、少し整えて」
「あと、梳く時に引っかからないやつ」
「傷んだ毛先を切れば、今より通りやすくなりますよ」
「じゃあ、それ」
美容師が微笑んで櫛を取り直した。
クラウディアがリナの肩にかかった髪をそっと後ろへ流し、切る長さを確かめる。リナはその指先を鏡越しに見ていた。
「ここまでなら、よいですか」
「うん」
「丸坊主ではありませんよ」
「もう分かったってばー」
ユリウスが、とうとう小さく吹き出した。
*
髪を切る音は、思ったより静かだった。
しゃき、と耳の後ろで音がして、肩が少し軽くなる。櫛が通り、また鋏が鳴る。細い髪が白い布の上を滑り落ちるたび、リナは目だけでその行方を追った。
「頭は動かさないでくださいね」
「目だけだよ」
「ええ。お上手です」
大きな鏡に、少しずつ変わっていく自分の顔が映っていた。
顔自体は何も変わっていないのに、周りの髪が揃うだけで、何となく違って見える。
リナが眉を上げると、鏡の中のリナも眉を上げた。
「変な顔をしない」
横からクラウディアが言った。
「どんな髪型でも似合うって言ったのに」
「顔の動かし方の話です」
「難しいねー」
長椅子でユリウスが笑った。
その隣では、父ちゃんがようやく持ってきた書類を読んでいる。けれど、リナが少し動くとすぐに顔を上げるので、あまり進んでいないようだった。
髪を売らなくても、ご飯はある。
それは分かった。
少し切るだけのために、わざわざ人を家へ呼ぶことは、まだよく分からなかった。自分で切るか、誰かに切ってもらえばいいような気もする。
けれど、美容師の櫛はちっとも痛くなかった。引っかかりそうなところでは先に手が添えられ、顔に髪が落ちれば、すぐに柔らかな刷毛で払ってくれる。
これは少し、いいかもしれない。
「痛いところはございませんか」
「ないよー」
「もう少しですからね」
「寝てもいい?」
「寝ないでください」
クラウディアと美容師の声が重なった。
リナが笑うと、美容師もつられて笑った。
やがて鋏の音が止まり、鏡の後ろから小さな手鏡が差し出された。後ろ側の髪まで見えるのが面白くて、リナは首を動かしかけ、途中で止めた。
「もう、動いても大丈夫ですよ」
「終わった?」
「はい。いかがでしょう」
毛先はきれいに揃い、顔の横が少しすっきりしていた。頭を振ってみても、さっきまで気になっていた髪が頬にかからない。
「おおー」
リナは左右を見比べ、それから鏡の中でニカッと笑った。
「いいね、これ」
美容師の顔が、初めてすっかり緩んだ。
「よくお似合いですよ」
「兄ちゃん。どう?」
「ちゃんと髪が残っていて、安心した」
「そっち?」
「まず、そっちだ」
首元の布が外されると、リナは自分の毛先へ触れた。指で梳いても、するりと通る。
クラウディアも髪の左右を確かめ、軽く頷いた。
「ええ。よくなりました」
「父ちゃんは?」
「ああ。似合っている」
「ふーん」
もう一度、鏡を見る。
そんなに褒めるほど変わったのかは分からない。でも、触ると気持ちがよかったので、リナはしばらく自分の髪を梳いていた。
その間に、美容師は道具を片づけ始めていた。鋏を拭いてケースへ戻し、布の上と床に落ちた髪を集めて、小さな袋へまとめていく。
リナは何となく、その手元を見ていた。
青銀の髪が袋の中へ消える。
美容師が袋の口を閉じる。
道具の箱を持ち上げる。
「それでは、失礼いたします。本日はありがとうございました」
クラウディアに頭を下げ、そのまま帰ろうとした。
リナは足台から降りかけて、止まった。
美容師を見る。
父ちゃんを見る。
もう一度、美容師の持っている袋を見る。
まだだ。
まだ、渡していない。
「父ちゃん!」
アルベルトが顔を上げた。
「何だ」
「お金もらってないよ!」
美容師が扉の手前で止まった。
ユリウスが、ゆっくり顔を伏せた。
アルベルトは目を閉じた。
「……リナ」
「あの人、髪持って帰るよ。いいの?」
「いいんだ」
「何で?」
「片づけてくれているからだ」
リナは袋を指さした。
「でも、それ私の髪」
「そうだな」
「売るために切ったんじゃないのは分かったよ。でも、持って帰るなら、お金いるでしょ?」
アルベルトは口を開き、そのまま少し黙った。
クラウディアが横から言った。
「侯爵様。説明したのではなかったのですか」
「……した」
「切る理由しか、分かっていないようですが」
「今、私も気づいた」
父ちゃんは書類を置き、リナの前へ椅子を引き寄せた。
「いいか、リナ。あの人は、お前の髪を買いに来たんじゃない。髪を綺麗に切って、片づける仕事をしに来たんだ」
「うん」
「だから、あの人からお金をもらうのではなく、こちらがお金を払う」
リナは父ちゃんの顔を見た。
それから、扉の前で困ったように微笑んでいる美容師を見た。
「髪もあげるのに?」
「あれは、片づけてもらうんだ」
「お金も?」
「仕事をしてもらった分だ」
リナは腕を組んだ。
頭を綺麗にしてもらった。
それは分かる。
気持ちよかったし、髪も引っかからなくなった。自分でやるより上手なのも分かる。
でも、綺麗な髪を持って帰って、その上お金ももらう。
帝都には、すごい仕事があるものだ。
「父ちゃん」
「何だ」
「あの人、買い物上手だねー」
ユリウスが長椅子の上で折れた。
クラウディアは口元に手を添え、美容師は袋を持ったまま、何と答えたものか困っていた。
アルベルトだけが、娘の正面で背筋を伸ばし直した。
「……最初から、もう一度説明するぞ」
「うん。今度は分かると思う」
リナは、自信たっぷりに頷いた。




