閑話一 リナ、身支度をする
閑話です
リナが侯爵邸で暮らし始めて、まだ間もない頃のことだった。
朝、部屋へ入った侍女は、寝台の中央にある小さな膨らみへ声をかけた。
「お嬢様。朝でございます」
返事はなかった。
掛け布団の端から、青銀の髪が少しだけ覗いている。侍女がそばへ寄ってもう一度呼ぶと、布団の中で何かが動いた。
「……あと五分」
「では、五分だけですよ」
窓の覆いを少し開け、着替えを用意する。洗面の支度を確かめてから時計を見ると、約束の時間は過ぎていた。
「お嬢様。五分経ちました」
「……早くない?」
「五分、お待ちいたしました」
リナは布団から顔だけ出した。
薄赤の目は半分しか開いていない。頬には枕の跡がつき、髪が一房、妙な方向へ跳ねていた。
「もう朝?」
「朝です」
「ちゃんと?」
「ちゃんと朝でございます」
窓の方を見て、しばらく考える。
どうやら、朝であることは認めるしかないらしかった。
「……起きる」
そう言ってから実際に身体を起こすまで、もう少しかかった。
*
洗面を終える頃には、リナの目もだいぶ開いていた。
用意された服に袖を通し、背中の留め具を留めてもらう。淡い色の普段着は肌触りがよく、鏡の前に立たされても、最初のうちは特に文句はなかった。
襟元の飾りを整えられ、袖口を揃えられるまでは。
「これ、いる?」
リナが首元のリボンに触れた。
「お召し物に合わせてございますので」
「ふーん」
指でつまみ、少し引っ張る。
「お嬢様、そちらはほどけてしまいます」
「首に当たる」
「では、少し位置を直しましょう」
侍女は結び目を緩め、肌に触れにくいように整え直した。リナが首を動かしている間に椅子を勧め、今度は髪へ櫛を入れる。
細く柔らかい青銀の髪は、梳くと光を受けて艶を帯びた。両脇の髪を取り分け、少しずつ編み込んで後ろへまとめると、顔の周りがすっきりする。
最後に小さな髪飾りを留めた。
「はい。お支度が整いました」
鏡の中には、きちんと身なりを整えた少女がいた。
白い肌に、細い輪郭。薄赤の瞳を囲む髪も綺麗に揃い、服の襟元には控えめな飾りが収まっている。
黙って座っていれば、どこから見ても侯爵家のお嬢様だった。
リナは鏡を見つめたあと、首を右へ向けた。
左へ向ける。
眉が下がった。
「ここ、引っ張られる」
「少し緩めますので、お待ちください」
侍女が櫛を置いた時には、もうリナの手が後頭部へ回っていた。
「あ、お嬢様。お手を――」
髪飾りが外れた。
まとめた髪の一部が肩へ落ち、リナはほっとした顔をした。
「こっちの方がいい」
「そのままですと、片側だけほどけてしまいます」
「じゃあ、こっちも」
「お待ちください」
慌てて残った飾りを外す。髪を引っ掛けないように編み目をほどいている間に、今度は襟元のリボンが解かれていた。
リナはそれを膝に置き、右の袖をまくり始めた。
「お嬢様、そちらは」
「手、洗う時に濡れるから」
「今は、もうお済みです」
「また洗うよ?」
確かに、また洗うだろう。
侍女が袖へ手を伸ばすと、リナは肘までまくった腕を胸元へ引き寄せた。
「戻さないで」
「ですが、左右が違っております」
「こっちもやる」
今度は左の袖を引っ張る。
その拍子に髪が頬へ落ちたので、リナは顔を振って払った。せっかく整えた髪が、さらに乱れる。
侍女は、手の中の髪飾りを見た。
少しずつ直しているはずなのに、直した分より崩れる方が早かった。
「お嬢様。何がお嫌なのか、お教えいただけますか」
「きゅってしてるの」
「髪でしょうか。それとも、お召し物が」
「両方」
リナは椅子から降りた。
片方の袖は肘まで、もう片方は途中までまくれている。髪は半分ほど編み目が残り、襟元は緩んでいた。
本人は満足そうだった。
「もう行けるよ」
「そのままでは……」
「朝ご飯、遅れちゃう」
それも、そのとおりだった。
侍女は時計とリナを見比べた。嫌がる子を押さえつけて飾りを戻すわけにもいかず、かといって、この姿で支度が整ったとすることもできない。
「……では、奥様にご相談いたしましょう」
「うん」
リナは外したリボンを拾い、髪飾りも受け取ろうと手を出した。
「それ、持ってく」
「私がお持ちいたします」
「なくすともったいないよ」
「なくしません」
そこを心配されるとは思わなかった。
*
「おはよー」
食堂に入ってきた娘を見て、アルベルトは手元の書類を下ろした。
「……おはよう。支度の途中だったか」
「終わったよ」
ユリウスが妹の右腕を見て、次に左腕を見た。
「左右で違うが」
「あ。こっち、まだだった」
リナが左の袖へ手をかける。
「今ここでまくらなくて結構です」
クラウディアが止めた。
リナは手を離し、いつもの席へ向かおうとした。その背後から、侍女が申し訳なさそうに進み出る。
「奥様。お支度を整えたのですが、お嬢様が髪と襟元を気にされまして。何度か直したものの、こちらでは加減を決めかね……」
手にした小さな盆には、外された飾りが載っていた。
クラウディアが事情を聞いている間、リナは二人の顔を交互に見ていた。
やがて、持っていたリボンを差し出した。
「私が取ったの」
クラウディアが視線を下げる。
「この人は、ちゃんとやってくれたよ」
「では、なぜ外したのです」
「ちゃんとしてると、動きにくいから」
ユリウスが口元へ手をやった。
クラウディアは息子を一度見てから、リナへ向き直った。
「どのくらい、動きにくかったのですか」
「こう」
リナは肩をすくめ、首を固めてみせた。
「ずっと、こんな感じ」
「……実際に、その姿勢になっていたのですか」
「気持ちが」
アルベルトが書類を伏せた。
笑いそうなのか、考え込んだのかは分からなかった。
クラウディアは席を立ち、リナのそばへ来た。片方だけ残った編み目と、捻れた襟元を確かめる。
「隣で少し直しましょう」
「戻すの?」
「そのままでは、食事の時に髪が邪魔になります」
「でも、さっきのはやだよ」
「まず、見せてごらんなさい」
リナは渋々ついてきた。
食堂を出る直前、振り返って言う。
「父ちゃん、私のパン食べないでね」
「食べん」
「兄ちゃんも」
「僕の分がある」
それで一応、安心したらしかった。
*
食堂の隣にある小さな居間で、クラウディアはリナを鏡の前に座らせた。
侍女から櫛と飾りの盆を受け取り、ほどけかけの髪へ手を添える。編み目を外すと、青銀の髪が細い肩へ流れた。
鏡の中のリナは、まだ少し不満そうに黙っていた。
その静かな顔が、ふと、別の顔に重なる。
セレナ。
目の色はアルベルトのものなのに、頬から顎へ続く線や、伏せた時の睫毛の影が、よく似ていた。
クラウディアは、櫛を持つ指に少し力を入れた。
この子が母を失ったことに、自分は無関係ではない。それなのに今、その母の代わりのような場所に立ち、髪を整えようとしている。
鏡に映った自分の手が、少しだけ遠く見えた。
「クラウディアさん」
リナが襟元を押さえた。
「そこ、閉めるの?」
いつの間にか、もう片方の手を襟へ伸ばしていた。
「……ええ。まず、形を戻してから」
「やだ」
小さな手が、留め具を隠した。
クラウディアの手が止まる。
拒まれたことに胸が痛み、それをどこかで当然だと思いかけた。
けれど、リナが見ているのはクラウディアの顔ではなかった。襟元を直そうとする指先を、ひたすら警戒していた。
「ここ、くすぐったいんだもん」
クラウディアは、ゆっくり手を下ろした。
自分の後ろめたさと、この子が今困っていることを、一緒にしてはいけなかった。
「……では、どこが嫌なのか、一つずつ教えてください」
「いっぱいあるよ」
「一つずつ、聞きます」
リナが鏡越しにこちらを見上げた。
しばらく確かめるように見てから、頭の横を指さす。
「ここ。こっち向くと、引っ張られる」
「髪を後ろへ寄せる感じが嫌なのですね」
「うん。ずっと、つかまれてるみたい」
侍女が控えめに口を開いた。
「一度、結び目は緩めたのですが」
「ええ。きつさだけではなく、慣れない結い方も気になるのでしょう」
クラウディアは残った編み目をほどいた。
櫛を通すと、リナの肩が少し下がる。
「髪をまとめること自体は、嫌なのですか」
「結ぶよ。ご飯に入るから」
「では、結び方を変えましょう」
「飾り、いっぱいつけない?」
「今日は、つけません」
「今日だけ?」
「その日の用事に合わせます」
「……ふーん」
不満は少し残ったようだが、頭を逃がすことはしなかった。
クラウディアは顔にかかる髪を整え、耳の後ろへ流した。高い位置へ引き上げず、首の後ろでゆるくまとめる。飾りの多い留め具は盆に戻し、柔らかな細いリボンを選んだ。
「このくらいは、どうです」
結び終える前に尋ねると、リナはそろそろと首を動かした。
「今は平気」
「今は?」
「ここから、きゅってするかもしれない」
「これ以上は、締めません」
鏡の中で、薄赤の目が結び目の辺りを見ようと動いた。
最後まで、確認は怠らないらしい。
リボンを結び、左右へ首を向けさせる。今度は眉が下がらなかった。
「じゃあ、次はここ」
リナが自分から襟を指した。
クラウディアは飾りを当てず、布だけを整えてみた。首に触れる位置を確かめ、緩めてもだらしなく開かないように左右を揃える。
「家の中で過ごすなら、今日は飾りを省いてもよいでしょう」
「なくてもいいの?」
「ええ。ただし、襟を捻ったままにしてよいという意味ではありません」
「ふーん」
リナが顎を引いたり、上げたりした。
問題はないらしい。
次に、片方だけ大きくまくられた袖を下ろすと、また手が出てきた。
「そこも戻すの?」
「左右を揃えます」
「短くして」
「手を洗う時のため?」
「うん。あと、ご飯の時」
クラウディアは袖口を整え、手首の少し上まで同じ幅で折り返した。肘までくしゃくしゃにまくる必要はない。布の端を揃えるだけで、見え方は変わった。
両方を直してから、リナの手を前へ出させる。
「これなら、どうです」
リナは両手を広げ、腕を曲げ伸ばしした。
「おお」
「大げさですね」
「動く」
「先ほども動いていたでしょう」
「今の方が動く」
何を確かめているのか、両腕を頭の上まで持ち上げる。
「そこで伸びをする必要はありません」
「確かめてるの」
「十分、確かめたでしょう」
リナは腕を下ろした。
髪も襟も、崩れてはいなかった。
*
出来上がった姿は、最初の支度よりずっと簡素だった。
飾りは少なく、髪も凝った結い方ではない。それでも、顔の周りはすっきりとし、襟と袖が揃っているので、だらしなくは見えなかった。
何より、本人の肩から力が抜けていた。
クラウディアは鏡の横へ立った。
「いかがですか」
リナは自分の姿を見た。
首を動かし、袖口を触り、後ろへ手を回して髪の結び目を確かめる。
「……これならいい」
「では、もう勝手にほどかないこと」
「きつくなったら?」
「その時は言いなさい。直します」
リナは横に控えていた侍女を見た。
「この人にも?」
「もちろんです。何が嫌なのか分からないままでは、同じ形に戻すしかないでしょう」
「嫌だって言ったよ」
「どこが、どう嫌なのかです。今、私に話したように」
リナは少し考えた。
「引っ張られるとこと、首に当たるとこ?」
「そうです。それなら、どう変えればよいか分かります」
リナは椅子の上で侍女の方へ向き直った。
「何回もやってくれたのに、ごめんね」
侍女が少し目を見開いた。
「次は、取る前に言う」
「……はい。お教えいただければ、直します」
「うん」
頷いてから、リナはクラウディアへ顔を戻した。
「これ、好き」
ニカッと笑った。
つい先ほどまで鏡の中にいた静かな美少女が、その笑い方で急に幼くなる。少し得意そうで、少し間が抜けていて、気に入ったものを見つけたことが隠しようもなく顔に出ていた。
クラウディアは、一瞬、返事を忘れた。
何度見ても、その笑顔はセレナと重ならなかった。
似ている。
けれど、この子はセレナではない。
髪が引っ張られるのを嫌がり、片方だけ袖をまくり、食堂に置いてきたパンを心配している。今は、首と腕が楽になったことを喜んでいる。
目の前にいるのは、そういう十歳のリナだった。
「クラウディアさん?」
リナが首を傾げた。
「これなら、ちゃんとしてる?」
櫛を握る手のためらいまで、消えたわけではなかった。
それでも、その問いには答えられた。
「……ええ。きちんとしています」
「よかった」
リナがもう一度、鏡を見た。
今度は、どこにも手をかけなかった。
クラウディアはそれを確かめ、侍女へ向き直った。
「慣れるまでは、朝の仕上げは私が見ます。洗面や着替えの準備は、これまでどおりにお願いします」
「ですが、奥様のお手を煩わせることに……」
「どこまで簡略にしてよいか、私からも伝えていませんでした。あなたの不手際ではありません」
盆の上に残った飾りへ目を向ける。
「家で過ごす日は、まず動きやすいものを。外へ出る時の支度は、その都度相談しましょう」
「かしこまりました」
リナが椅子から降りた。
もう一度、軽く肩を回す。
「これで、ご飯?」
「ええ」
「走っていい?」
「いけません」
リナの眉が下がった。
「走れる服なのに」
「服の問題ではありません」
廊下へ出ると、食堂からユリウスの声がした。
「まだか、リナ」
「今行くー」
走り出しかけた足が、一度止まる。
リナはこちらを見てから、今度は歩いて食堂へ向かった。
その後ろで、小さく結んだリボンが揺れた。
*
翌朝、クラウディアが小さな居間の前まで来ると、中からリナの声が聞こえた。
「今日は、いっぱいつけない?」
「昨日と同じ支度を、用意しております」
「そっか」
少し間があった。
「クラウディアさんは?」
「間もなく、お越しになるかと」
「昨日のがいいから」
扉へ伸ばした手が、わずかに止まった。
昨日のがいい。
それだけの言葉だった。
母親になってほしいと言われたわけでも、何かを許されたわけでもない。ただ、あの結び方なら嫌ではなかった。今日も同じにしてほしい。
それだけを、頼まれていた。
クラウディアは扉を開けた。
「聞こえています」
リナが振り向いた。
着替えは済んでいたが、髪はまだ肩へ下ろされている。昨日と違って、外した飾りを握りしめてはいなかった。
「おはよー」
「おはようございます。今日は、きちんと起きましたか」
「起きたよ」
侍女が何か言いかけた。
リナがそちらを見た。
「……ちょっと、五分だけ」
「二度ほど、お待ちいたしました」
「それは言わなくていいやつ」
クラウディアは櫛を受け取りながら、息を一つ吐いた。
笑わずに済ませるには、それが必要だった。
「では、明日は一度にしましょう」
「五分?」
「まずは、それで結構です」
リナは少し考え、交渉がまとまったような顔で頷いた。
クラウディアが後ろへ回ると、鏡の中で目が合う。
「今日も、昨日と同じ?」
「ええ」
「首のところも?」
「同じです」
それで安心したらしく、リナは膝の上へ手を置いた。
髪をかばわず、肩をすくめず、櫛が触れるのを待っている。
クラウディアは細い毛先を片手で支え、ゆっくりと櫛を入れた。
窓の外で鳥が鳴き、リナの顔がそちらへ向きかける。
「前を向いていなさい」
「まだ、ちょっとしか見てないよ」
「その、ちょっとを待ちなさい」
「はーい」
鏡の中の少女が、少し口を尖らせて正面へ戻った。
クラウディアはその髪を梳きながら、今日も使う細いリボンへ手を伸ばした。




