第二十五章 守るということ
その男は逃げなかった。
*
「エドガー・ヴァイス中佐」
帝国軍施設。
小さな聴取室、机を挟んでアルベルトが名前を呼ぶ。
「はい」
向かいに座る男は五十前後。
短く刈った灰褐色の髪。
軍服。
目立つ傷も威圧感もない。
街ですれ違えば、忘れてしまいそうな顔だった。
帝国軍軍務部。
情報管理担当。
中佐。
十年前。
まだ若い文官だった頃、リナの第七植民星移送後の行政処理に関わっている。
そして現在。
共和国首都攻撃作戦の機密情報取扱者の一人。
「先に確認する」
アルベルトが言う。
「弁護人を要求するか」
「いいえ」
「黙秘する権利もある」
「必要ありません」
男は静かだった。
「何をお聞きになりたいのかも、想像がつきます」
その一言で室内の空気が変わった。
同席する軍監察官が端末へ手を置く。
「では」
アルベルトが言う。
「十年前からだ」
「はい」
「リナリエッタ・レーヴェンの死亡報告を作ったのは」
男は迷わなかった。
「私です」
アルベルトの手が机の下で握られる。
監察官が顔を上げた。
「認めるのか」
「はい」
「中央の死亡登録も?」
「直接処理したのは別人です」
「誰だ」
「故人です」
「ヴァレンシュタイン公爵家の人間か」
「いいえ」
アルベルトの眉が動いた。
「違う?」
「少なくとも、その件については」
ヴァイスは答える。
「公爵家とは無関係です」
*
「目的は」
監察官が聞く。
「リナリエッタ様を殺したことにすることでした」
「それは分かっている」
「違います」
ヴァイスが初めて、少しだけ強く言った。
「死なせるためではありません」
アルベルトを見る。
「生かすためです」
沈黙。
「説明しろ」
アルベルトの声は低かった。
「当時」
ヴァイスは昔を見るように、少し遠くへ目を向けた。
「セレナ・アルシェ様が死亡した直後から、侯爵家周辺では異常な情報照会が増えていました」
「誰からだ」
「複数です」
「ヴァレンシュタイン家か」
「その関係者もいました」
アルベルトの目が鋭くなる。
「なぜ報告しなかった」
「しました」
「私は聞いていない」
「閣下本人へではありません」
「なぜだ!」
机がわずかに震えた。ヴァイスはそれでも動かなかった。
「当時の閣下は、疑われていました」
「何を」
「娘をどこかへ逃がしたのではないかと」
「……」
「正解でした」
アルベルトは答えない。
「閣下の通信。艦の動き。直属部下。侯爵領への物資輸送」
「……」
「すべて見られていた」
ヴァイスは言う。
「ですから」
一度、息を吸う。
「閣下自身が、娘は死んだと信じる必要があると判断しました」
その瞬間、机が割れた。
乾いた音。
アルベルトの手の下で。
木に亀裂が走る。
監察官が息を呑む。
「お前が」
アルベルトの声は静かだった。
だから。
余計に怖かった。
「私に、娘が死んだと思わせた?」
「はい」
「十年間」
「はい」
「墓もない娘を」
「……はい」
「自分が死なせたと思っていた!」
「存じています」
「知っていた!?」
魔力が室内を圧した。
「侯爵!」
監察官が声を上げる。ヴァイスは顔色を変えながらも、席を立たなかった。
「申し訳ありません」
「謝るな!」
アルベルトが机から手を離す。
「なぜ」
呼吸を整える。
「私へ一度も」
「連絡すれば」
ヴァイスが答えた。
「閣下は会いに行ったでしょう」
「当然だ!」
「だからです」
「……」
「閣下なら」
男は言う。
「何年か経てば、必ず確認した」
「当然だ」
「娘が本当に死んだか」
「当たり前だ!」
「そして」
ヴァイスはまっすぐアルベルトを見る。
「生きていると知れば、連れ戻したでしょう」
アルベルトは答えなかった。
否定できない。
「当時は」
ヴァイスが続ける。
「まだ早かった」
「お前が決めることではない」
「はい」
「私の娘だ」
「はい」
「私の判断だ!」
「その通りです」
「なら!」
「ですが」
初めて、ヴァイスもアルベルトの言葉を遮った。
「それで娘を失う可能性があるなら」
声は。
震えていた。
「私は、閣下に恨まれる方を選びました」
*
しばらく、誰も喋らなかった。監察官が先に口を開く。
「第七植民星の死亡報告は」
「私が偽造しました」
「死んだ行政官の認証を使用した」
「はい」
「流行病を利用した?」
「はい」
「中央登録の事故死は」
「別の者です」
「なぜ内容が違う」
「意図的です」
監察官が眉を寄せる。
「意図的?」
「完全に一致した記録は」
ヴァイスが言う。
「後から一つの作為として追われやすい」
「……」
「別々の役所へ、別々の死因を置いた」
「それでは矛盾する」
「矛盾しても」
男は淡々と答える。
「誰も確認しなければ、死者は死者です」
アルベルトが苦々しく言う。
「実際、十年間誰も確認しなかった」
「はい」
「私も含めて」
「……はい」
その言葉だけ、ヴァイスの声が小さくなった。
*
「ゴルは」
アルベルトが聞く。
「知っていたのか」
「死亡記録のことは知りません」
「では」
「少女を預かった老人には」
ヴァイスは少しだけ表情を緩めた。
「何も教えない方がよいと思いました」
「なぜ」
「嘘が下手そうでしたので」
「……」
アルベルトが思わず、黙った。確かに、ゴルが帝国官吏相手に巧妙な芝居をする姿は想像できない。
「リナリエッタという名前も?」
「伝えていません」
「リナだけ」
「はい」
「私の娘だということも」
「最初に引き渡した者までは知っています。その先では切りました」
「誰が引き渡した」
「それは」
ヴァイスが少し迷う。
「今回の件とは別に、確認していただきたい人物がいます」
「名前を」
「記録を出します」
「今言え」
「……故人です」
アルベルトの顔がさらに険しくなる。
「またか」
「十年前の話です」
「便利な死人が多い」
「そうですね」
ヴァイスは苦く笑った。
*
「では」
監察官が端末を操作した。
「現在の話へ移る」
ヴァイスの顔からわずかな柔らかさが消えた。
「共和国へ、帝国の作戦情報を流したか」
「はい」
また、即答。
「どの範囲だ」
「《白冠》《天壁》が共和国首都方面へ投入される可能性」
「可能性?」
「出撃日時も、侵入経路も、作戦目的も流していません」
「なぜ」
「共和国に反応させるためです」
「何のために」
「《虚空》を戦わせるために」
アルベルトが動かなかった。今度は、怒鳴らなかった。
ただ。
「もう一度言え」
声だけが冷たくなった。
「リナリエッタ様を」
ヴァイスはアルベルトを見たまま。
「実戦へ出すためです」
*
「十年前」
アルベルトが言う。
「お前は娘を戦いから隠した」
「はい」
「今度は戦場へ出した」
「はい」
「矛盾していると思わないのか」
「いいえ」
あまりにも迷いがなかった。
「なぜだ」
「十年前は赤子でした」
「今も十歳だ!」
「特級です」
室内が静かになる。
「帝国第四特級」
ヴァイスが続ける。
「一国の主力艦隊を消失させた実績を持つ」
「暴発だ」
「結果は同じです」
「同じではない!」
「敵から見れば同じです」
「お前は」
アルベルトがゆっくり立ち上がる。
「リューベックと何が違う」
初めて、ヴァイスの顔が止まった。
「彼らも」
アルベルトは言う。
「特級さえいれば国を守れると思った」
「……」
「十歳なら扱えると思った」
「私は誘拐していません」
「勝手に戦場を作った」
「帝都が攻撃されるとは」
「共和国に反応させれば何が起こると思った!」
「艦隊か」
ヴァイスが答える。
「中級・上級魔導士による圧力です」
「断界は?」
「想定外でした」
「知らなかった?」
「はい」
「共和国が断界の回復を隠していることを?」
「知りませんでした」
ヴァイスの手がそこで初めて、少し震えた。
「私も」
声がわずかに掠れる。
「《断界》が現れた時には」
「……」
「失敗したと思いました」
「失敗?」
「はい」
「リナが死ぬと思ったからか」
ヴァイスが答えない。
「違うのか」
「……」
「言え」
「逆です」
ヴァイスは小さく言った。
「帝都が」
「何?」
「あの少女によって」
記録映像。
無表情。
赤い瞳。
歌。
広がる。
暗い欠落。
「消えると思いました」
*
「私は」
ヴァイスが自分の手を見る。
「リューベックの記録も見ています」
「……」
「あの時も」
老人が死んだ。
少女から。
感情が消えた。
そして。
一国の主力艦隊が。
消えた。
「ですが」
ヴァイスは言う。
「第十八戦闘の映像を見るまで」
「……」
「それを、本当の意味で理解していなかった」
「理解?」
「報告書の数字でした」
艦艇。
消失。
魔力反応。
生存率。
軍事評価。
「《虚空》は強い」
それだけ。
「帝国には必要だ」
それだけ。
「破軍閣下が戦死した」
「……」
「共和国は禁忌を破った」
「……」
「白冠と天壁だけでは、いつか二人とも死ぬ」
「……」
「その時」
ヴァイスがアルベルトを見る。
「学校で球を浮かせている特級を、私は許せなかった」
アルベルトの目が細くなる。
「許せない?」
「はい」
「誰に許可されたつもりだ」
「誰にも」
「では何様だ」
「帝国軍人です」
「軍人なら」
アルベルトが低く言う。
「命令系統を守れ」
ヴァイスが黙った。
「国を守るという言葉を」
「……」
「自分の好き勝手を正当化する札にするな」
*
「仲間は」
監察官が聞いた。
「いるな」
「……」
「単独ではない」
沈黙。
「情報の取得」
「……」
「外部経路」
「……」
「ログの改変」
ヴァイスは初めて、答えなかった。
「黙秘に切り替えるか」
「いいえ」
「では名前を出せ」
「それはできません」
「なぜ」
「私と同じ考えではない者もいる」
「何?」
「漏洩に関わった者全員が」
ヴァイスは言う。
「《虚空》を戦場へ出したかったわけではありません」
「どういうことだ」
「作戦そのものに反対した者」
「……」
「共和国首都への奇襲が、第二の禁忌になると考えた者」
「……」
「共和国へ警告すれば、双方が止まると思った者」
監察官が顔をしかめた。
「目的の違う人間が協力した?」
「一時的に」
「お前は」
「その経路を利用しました」
アルベルトが静かに聞く。
「最初からか」
「はい」
「共和国への警告に見せかけて」
「《虚空》へ敵を向けた」
「……はい」
そこで、ヴァイスの顔に、初めて後悔らしいものが浮かんだ。
「断界ではない何かを」
小さく。
「向けるつもりでした」
「それで何人死ねば成功だった?」
「……」
「艦隊なら?」
「……」
「上級なら?」
「……」
「リナが」
アルベルトの声が震えた。
「また止まれなかったら?」
ヴァイスは何も答えられなかった。
*
その日の夕方。
侯爵邸。
「来た」
リナが机の上の端末を見る。
アルベルトから。
今日は遅くなる。
先に食事をするように。
短い連絡。
「父ちゃん遅いって」
「そうですか」
クラウディアが答える。
「仕事?」
「ええ」
「私の?」
クラウディアは少し迷った。
「一部は」
「また?」
「またです」
「最近ずっと私じゃん」
リナが頬を膨らませる。
「人気者はつらい」
ユリウスが言う。
「嬉しくない人気だよ」
「だろうな」
「兄ちゃん今日何?」
「何が」
「学校」
「普通」
「ずるい」
「何がだ」
「私も普通がいい」
ユリウスが返事を止めた。リナはすぐに気づく。
「今かわいそうって思った?」
「思ってない」
「顔」
「お前は人の顔を読みすぎだ」
「分かりやすいんだもん」
クラウディアが静かに言う。
「リナ」
「何?」
「明日は学校ですよ」
「うん」
「宿題は」
「……」
「リナ」
「神子には宿題免除とか」
「ありません」
「特級」
「ありません」
「侯爵令嬢」
「むしろ増やしましょうか」
「やります!」
ユリウスが吹き出した。
「弱点見つかったな」
「クラウディアさん強い」
「知ってる」
*
食事の後、リナは帝国語の宿題をしていた。
「兄ちゃん」
「何だ」
「これ」
「どれ」
「この字」
「さっき教えただろ」
「忘れた」
「早い」
「頭から逃げた」
「捕まえろ」
「どうやって」
「覚えろ」
「難しい」
そんな時、玄関側が少し騒がしくなった。
リナが顔を上げる。
「父ちゃん?」
「早いな」
ユリウスも扉を見る。
しばらくして、家令が来た。
「リナ様」
「はい」
「侯爵様がお戻りです」
「やっぱ父ちゃん」
「ただ」
家令が続ける。
「お話がありますので、書斎へとのことです」
「私?」
「はい」
リナの顔が少し嫌そうになる。
「また難しいやつ?」
「おそらく」
「やだなあ」
でも、立ち上がった。
*
書斎。
アルベルトは疲れていた。
「父ちゃん」
「ああ」
「顔三倍」
「そうか」
「今日は三倍」
「座れ」
「はい」
リナがソファへ座る。
ユリウスとクラウディアもいる。
「誰か分かったの?」
リナが聞いた。
「一人は」
「私を死んだことにした人?」
「ああ」
「捕まえた?」
「拘束している」
「悪い人?」
その質問アルベルトはすぐには答えなかった。
「分からん」
「え?」
「やったことは悪い」
「うん」
「だが」
十年前。
娘を隠した。
死んだことにした。
父親まで騙した。
「お前を守るためだったと言っている」
リナが瞬きをする。
「守る?」
「ああ」
「死んだことにして?」
「ああ」
リナは考えた。
「父ちゃんと似てる」
今度は、アルベルトが止まった。
「私を隠した」
「……」
「勝手に」
「……ああ」
「守るため」
「ああ」
「じゃあ」
リナは首を傾げる。
「いい人?」
「それだけなら」
アルベルトが苦い顔をする。
「私もそう言えたかもしれん」
「他にも何かした?」
「ああ」
「何?」
アルベルトは娘を見る。
十歳。
どこまで。
言うべきか。
「父ちゃん」
「何だ」
「また全部隠そうとしてる」
「……」
「言って」
アルベルトは目を閉じる。
「帝国の共和国攻撃が」
「うん」
「事前に察知されていたことは知っているな」
「うん」
「情報を流した人間の一人でもある」
「……」
「目的は」
アルベルトが言いにくそうにする。
「お前を戦わせることだった」
リナが動かなくなった。
「私?」
「ああ」
「なんで?」
「特級だからだ」
「……」
「学校に通わせ続けるより、実戦へ出して」
言葉が重い。
「帝国の戦力として使うべきだと考えていた」
「だからカールさん来たの?」
「カールが来るとは知らなかった」
「でも誰か来るようにした?」
「ああ」
「私と戦う人を?」
「そうだ」
リナは。
しばらく。
何も言わなかった。
*
「その人」
やがて、リナが言う。
「私を守ったの?」
「十年前は」
「今は?」
アルベルトが答えられない。
「父ちゃん」
「……」
「守ったの?」
「本人は」
アルベルトが答える。
「帝国を守るためだったと言っている」
「私じゃなくて」
「ああ」
リナが膝を見る。
「変なの」
「何がだ」
「十年前は私を死んだことにして」
「……」
「今は私が戦うようにした」
「……」
「同じ人なのに」
クラウディアが静かにリナを見る。
「人は」
言う。
「ずっと同じではありません」
「変わる?」
「ええ」
「悪く?」
「良くも」
「じゃあこの人は?」
クラウディアは少し考えた。
「自分では、正しい方向へ変わったと思っているのかもしれません」
リナが嫌そうな顔をした。
「それ一番困る」
「……そうですね」
「だって」
リナは言う。
「悪いことしてるって思ってる人なら、やめてって言えるじゃん」
「……」
「正しいと思ってる人って」
父を見る。
「やめてって言っても、聞かないでしょ」
アルベルトは今日会った男を思い出した。
「そうだな」
「困る」
「ああ」
*
「会える?」
リナが聞いた。アルベルトがすぐに眉を寄せる。
「誰に」
「その人」
「駄目だ」
「なんで」
「拘束中の軍人だ」
「でも私のこと勝手に決めたんでしょ」
「だからだ」
「会いたい」
「駄目だ」
「父ちゃん」
「駄目だ」
「父ちゃん!」
「駄目だ!」
声が少し大きくなる。リナの顔が曇った。
「……また?」
小さな声。
「何がだ」
「私のことなのに」
アルベルトが言葉を失う。
「大人だけで決めるの?」
「リナ」
「危ないの?」
「今は魔力拘束下だ」
「じゃあ安全?」
「そういう問題では」
「何?」
「……」
「父ちゃん」
リナは怒鳴らなかった。
「私、その人に聞きたい」
「何を」
「なんで」
一つ。
「なんで私を守ったのに」
二つ。
「なんで今度は、私が戦うようにしたのか」
アルベルトは娘を見る。
「それ聞かないと」
リナは言う。
「私、たぶんずっと分かんない」
*
その夜。
帝国軍拘置区画。
ヴァイスは。
一人だった。
特別な牢ではない。
小さな部屋。
寝台。
机。
椅子。
窓はない。
軍人として長く帝国へ仕えた。
それが。
今。
反逆に近い容疑で拘束されている。
彼は目を閉じた。
映像が浮かぶ。
十年前。
書類。
一人の乳児。
顔は。
見たことがなかった。
リナリエッタ・レーヴェン。
名前だけ。
生存。
その文字を死亡へ変えた。
これで。
生きられる。
そう思った。
そして十年後。
初めて。
映像で見た。
青銀の髪。
薄赤の瞳。
白いパンを食べて笑っている。
『ふわふわ!』
「……」
あの時。
自分が守った子が。
生きていた。
本当に。
生きていた。
嬉しかった。
だからこそ。
思った。
これほどの力があるなら。
帝国を守れる。
破軍の死を繰り返さずに済む。
共和国に二度と先手を取られない。
少女一人が戦えば。
何億が助かる。
正しい。
そう思った。
今も。
完全に。
間違いだったとは。
まだ。
思えない。
ただ。
耳から。
離れない。
映像の中。
少女の。
歌。
そして。
最後に。
我に返った声。
『……あっぶなー』
ヴァイスは両手で顔を覆った。
「私は」
小さく。
「何を守ったんだ」
答えは。
なかった。




