第二十一章 神子じゃない
翌朝、侯爵邸の正門前にはまだ人がいた。
「……帰ってない」
二階の窓から外を見たリナが言った。
昨日よりは少ない。
それでも。
祈る者。
花を置く者。
病人を連れてきた者。
遠くから眺めるだけの者。
警備線の向こうに、人影が残っている。
「朝ごはんですよ」
背後からクラウディアの声がした。
「うん」
「窓から離れなさい」
「見てるだけ」
「見続けても、あなたが病気を治せるようにはなりません」
「……うん」
リナは窓から離れた。
分かっている。
自分は治癒魔術師ではない。
自分の傷は勝手に治る。
でも。
他人に同じことができるかは分からない。
試したこともない。
分からないのに。
期待されている。
「クラウディアさん」
「何です?」
「神子って、何すればいいの?」
クラウディアの足が止まった。
「知りません」
「知らないの?」
「私は神子になったことがありませんので」
「そっか」
「リナ」
「うん?」
「あなたも、なっていません」
リナが少しだけ笑った。
「そうだよね」
「ええ」
*
朝食の席でもリナはいつもより静かだった。
パンを食べる。
卵を食べる。
肉も食べる。
食欲がないわけではない。
ただ。
考えている。
ユリウスが横から見る。
「何だ」
「何が?」
「さっきからパンを三回裏返してる」
「焼けてるかなって」
「もう焼けてる」
「知ってる」
「じゃあ何してるんだ」
「考えてる」
「何を」
リナは向かいのアルベルトを見る。
「父ちゃん」
「何だ」
「ゴル爺のとこ行きたい」
アルベルトの手が止まった。
「墓参りか」
「うん」
前からずっと行きたかった。
けれど。
エルネストが死んで。
戦争が動いて。
アナスタシアが来て。
カールが来て。
行けないままだった。
「今か?」
「今」
「理由は」
「会いたいから」
「……墓だぞ」
「知ってるよ」
「会えるわけではない」
「それも知ってる」
リナはパンを置いた。
「でも行きたい」
アルベルトはすぐには答えなかった。
「正門の連中から逃げたいのか?」
リナが考える。
「ちょっと」
「ちょっとか」
「でも、それだけじゃない」
「そうか」
「ゴル爺に言ってないことあるし」
「何を」
「止まれたって」
食卓が静かになる。リナは少しだけ胸を張った。
「前は止まれなかったけど、今回は止まれたって」
アルベルトは目を閉じた。
ほんの少し。
「……そうだな」
「言いに行っていい?」
「ああ」
今度は、すぐ答えた。
「行こう」
「ほんと?」
「ああ」
リナの顔が明るくなる。
「兄ちゃんも来る?」
突然振られたユリウスが目を丸くする。
「僕?」
「うん」
「学校は」
「私も学校あるよ」
「お前が言うのか」
「休む?」
「僕まで巻き込むな」
「来ないの?」
少し、残念そうな顔。
「……行く」
「やった」
「その顔をするな」
「どの顔?」
「僕が断れなくなる顔」
「知らない」
「無意識か……」
ユリウスが額を押さえた。
リナは次にクラウディアを見る。
「クラウディアさんは?」
クラウディアの表情がほんの少し固まった。
「私は」
ゴル。
十年間。
自分たちが何もできなかった間。
リナを育てた老人。
母を奪う入口を作った自分とは。
あまりにも違う。
「……今回は、遠慮します」
「なんで?」
「あなたがゴルさんへ話したいことがあるのでしょう?」
「うん」
「でしたら、家族全員で押しかける必要はありません」
「クラウディアさんも家族じゃないの?」
言われて、クラウディアが止まった。
ユリウスがそっとリナを見る。
アルベルトは何も言わない。
「……そういう意味ではありません」
「じゃあ次は来る?」
リナが聞く。クラウディアは少しだけ視線を落とした。
「あなたが、それでもいいと言うなら」
「いいよ」
「……そうですか」
「うん」
リナはパンを食べる。それだけだった。クラウディアだけがしばらく、次の一口へ進めなかった。
*
第七植民星。
リナの故郷。
戻ってきた地面を踏んだ瞬間。
「うわ」
リナは空を見上げた。
「変わってない」
「そう簡単には変わらん」
アルベルトが言う。
乾いた空。
赤茶けた大地。
遠くの採掘設備。
帝都とは違う。
舗装も。
建物も。
空気の匂いすら。
全部。
「ただいまー!」
リナが誰もいない荒野へ叫んだ。
ユリウスが横で笑う。
「誰に言ってるんだ」
「星」
「星?」
「うん」
「返事するのか?」
「しない」
「じゃあ何で」
「ただいまって言いたかったから」
「……そうか」
ユリウスも空を見る。
十五年間帝国の豊かな世界で育った自分には、ここを美しいとは思えなかった。
痩せた大地。
古い建物。
貧しい暮らし。
けれど。
妹にとってはここが最初の家だった。
*
村へ入る前から人が集まっているのが見えた。
「あれ」
リナが言う。
嫌な予感がした。その予感は当たった。
「神子様!」
一人が声を上げた。次の瞬間、何人もが頭を下げた。
「神子様がお戻りになった!」
「おお……」
「本当に……」
リナの足が止まる。
「また?」
小さく呟く。以前もそうだった。
空へ連れていかれた自分が、きれいな服を着て、食べ物を持って帰った時、みんな頭を下げた。
でも。
あの時とは違う。
今は。
みんな知っている。
映像を。
共和国の特級と戦った。
歌った。
空を欠けさせた。
それがこんな遠い星にも届いている。
「神子様!」
年老いた男が地面へ膝をついた。
「帝都をお救いになったと!」
「いや」
「共和国の魔神を退けられたと!」
「魔神じゃないよ」
「天より火を呼び――」
「呼んでない!」
リナが反射的に言った。アルベルトが口を挟もうとして、やめた。
リナ自身がどうするのかを見る。
「えっと」
リナは集まった人を見る。
「みんな立って」
誰も動かない。
「立ってってば」
「しかし神子様」
「それやめて」
ざわめきが起きた。
「神子様?」
「だから、それ」
リナは眉を寄せる。
「私、神子じゃないよ」
静かになった。
「でも」
誰かが言う。
「神々の船へ迎えられ」
「管理艦」
「天より戻られ」
「船で」
「神の御業で敵艦隊を――」
「私がやった」
リナはそこだけは否定しなかった。
「やったけど」
少し声が小さくなる。
「あれは、神様がやったんじゃない」
ゴルが死んだ。
何も感じなくなった。
自分がやった。
たくさん。
消した。
「私がやった」
もう一度。
「だから、神様のせいにもできない」
アルベルトが娘を見る。
以前なら、ここまで言えなかったかもしれない。
自分が怖くて。
自分から目を逸らしたくて。
でも。
今は。
「この前のも私」
リナは続けた。
「でも、今度は止めた」
村人たちがただ聞いている。
「私は病気治せないし」
昨日侯爵邸の門前にいた人たちを思い出す。
「お願いされたこと全部できないし」
歌えば、何でも起こせるわけでもない。
「神様に会ったこともない」
そこで少し考える。
「たぶん」
ユリウスが横から小声で言った。
「そこは言い切れ」
「だって前の世界のこと覚えてないし」
「余計にややこしくなるから黙ってろ」
「はい」
村人の何人かが困ったような顔をした。
リナは改めてみんなを見る。
「だから」
胸へ手を当てる。
「私はリナ」
少し笑う。
「ゴル爺んとこのクソガキ」
アルベルトが一瞬目を伏せた。
村の老人がぽかんとした。
それから。
一人が吹き出した。
「……そりゃあ」
老婆だった。
リナが小さい頃から何度も顔を見たことがある。
「あの爺さんなら、そう言うわな」
別の男も笑う。
「言うな」
「絶対言う」
「神子様なんぞ言ったら杖で殴られるぞ」
「杖じゃなくて拳だよ」
リナが言う。
「私、頭叩かれてたもん」
「そうだった!」
「ゴルの爺さん、容赦なかったからな」
誰かが立ち上がる。
一人。
また一人。
膝をついていた人々が立ち始める。
最後まで年老いた男だけが少し困った顔で残っていた。
「では……」
立ち上がりながら。
「何とお呼びすれば」
「リナ」
即答。
「でも侯爵令嬢で」
「リナ」
「第四特級で」
「リナ」
「《虚空》で」
「リナ」
「……」
「リナ」
「分かりました」
老人が折れた。
「リナ様」
「様いらない!」
村に笑い声が広がった。
*
墓地は以前と変わらなかった。
立派な霊廟もない。
大きな記念碑もない。
村の外れ。
土の下。
小さな墓標。
そこに。
ゴルがいる。
「先に行ってくる」
リナが言った。
アルベルトが頷く。
「分かった」
ユリウスも止まる。
「僕たちはここにいる」
「うん」
リナだけが墓の前へ歩いた。
手には。
小さな袋。
中には。
パン。
そして。
酒瓶。
酒はアルベルトが持たせた。
「よい酒にしろ」
と言ったら。
リナが、
「ゴル爺、安いのでも飲むよ」
と返したので、結局少しだけ上等なものになった。
墓の前へ座る。
「ゴル爺」
返事はない。
「来たよ」
風が吹く。
「遅くなった」
袋からパンを出す。
墓標の前へ置いた。
「これ帝都のパン」
白い。
柔らかい。
最初、管理艦で食べた時、ゴルにも食べさせたいと思った。
「前に食べたやつより美味しいと思う」
次。
酒瓶。
「酒」
墓の横へ置く。
「父ちゃんが買った」
少し考える。
「私が選んだことにしといて」
遠くでアルベルトが何か言った気がした。
聞こえないふりをする。
「あとね」
リナは膝を抱えた。
「カールさんと戦った」
口にすると、胸の奥がまだ少し硬くなる。
「お爺ちゃん殺した人」
エルネスト。
もう一人の。
お爺ちゃん。
「殺そうとした」
風が止まる。
「途中、また何にも感じなくなった」
あの時と。
同じ。
ゴルが死んだ時と。
「歌った」
顔が少し赤くなる。
「それ、映像に撮られてた」
墓へ向かって真顔で言う。
「最悪だった」
返事はない。
「しかも字幕ついてた」
やっぱり。
返事はない。
「笑うとこだよ」
何もない。
「……」
リナは少し笑った。
「でもね」
墓標を見る。
「止まれた」
声が少しだけ変わった。
「前は止まれなかった」
あの日。
空から。
船が消えた。
どれだけの人がいたのか、リナは正確には知らない。
知りたくないと思ったこともある。
それでも。
自分がやったことだけは。
もう。
なかったことにはしない。
「今回は、止まれたよ」
言う。
「カールさん、生きてる」
少し口を尖らせる。
「まだ嫌いだけど」
土を見つめる。
「でも生きてる」
ゴルの最後の言葉。
飯。
ちゃんと食え。
あの時。
その言葉が戻るきっかけの一つになった。
「ゴル爺のおかげかも」
少し考える。
「……半分くらい」
また考える。
「三割?」
遠くから。
「何の割合だ?」
ユリウスの声。
「聞くな!」
「聞こえた!」
「盗み聞き!」
「お前の声が大きい!」
「兄ちゃん嫌い!」
「急だな!」
リナは墓の前で笑った。ひとしきり笑って、静かになる。
「それでさ」
小さく言う。
「みんな、私のこと神子って言うんだよ」
墓標を見る。
「あれ嫌」
即答だった。
「だって私、神子じゃないし」
少し鼻をすすった。
「ゴル爺だったら怒るよね」
返事はない。
けれど。
分かる。
『何が神子様じゃ』
きっと。
そう言う。
「だから、さっき言った」
リナはニカッと笑った。
「私はリナだって」
胸を張る。
「ゴル爺んとこのクソガキだって」
風が吹いた。
髪が揺れる。
青銀の髪。
帝国第四特級。
侯爵令嬢。
英雄。
災厄。
神子。
いろいろな名前を勝手につけられる。
でも。
「私が決めていいんだよね」
墓標へ聞く。
返事はない。
それでも。
リナはしばらくそこにいた。
*
帰る前。
村の老婆がリナへ包みを渡した。
「何これ?」
「芋」
「芋?」
「昔食べてただろ」
「食べてた!」
「帝都にはもっと上等なもんがあるんだろうけどね」
「これ好き」
リナは嬉しそうに抱えた。
「ありがと!」
「神――」
老婆が止まる。
リナが見る。
「……リナ」
「うん!」
「また来な」
「来る!」
「次はもっとゆっくりな」
「うん」
老婆は少しだけ、墓地の方を見る。
「あの爺さんも喜ぶよ」
「そうかな」
「喜んでも、口では言わん」
「それは分かる」
「『来るのが遅い』くらい言うだろ」
「言う」
「酒が安いって文句も」
「ちょっといいの買ったよ!」
遠くでアルベルトが。
「かなりいい酒だ!」
と言った。
「父ちゃん聞いてた!」
「聞こえる!」
村人がまた笑った。
*
同じ頃。
帝都。
ある報道機関の資料室では一人の記者が古い記録を見ていた。
《灰の星の神子》。
その呼び名がどこから来たのか調べるためだった。
第七植民星。
十年前。
リナ。
それだけなら。
大したことではない。
貧しい植民星で育った少女が。
実は侯爵家の娘だった。
よくある話ではないが、理解はできる。
問題は。
その前だった。
「……何だ、これ」
記者が呟く。
出生記録。
貴族籍。
古い死亡通知。
移送に関する断片的な記録。
一部は閲覧制限。
一部は欠落。
そして。
どう見ても綺麗には繋がらない。
「リナリエッタ・レーヴェン……」
画面に表示された名前。
今。
帝国中が知っている少女。
十歳。
帝国第四特級。
《虚空》。
記者は別の記録を開く。目を細めた。
「……死んでる?」
記録の上では。
今。
第七植民星で。
自分の墓ではなく。
育ての親の墓へ手を合わせていた少女は。
ずっと昔に。
死んだことになっていた。




