第二十章 約束の食卓
世界を救ったかもしれない少女にも。
小テストはやって来る。
「……終わった」
答案用紙を伏せたリナが、机へ額をつけた。
帝国中央魔法学院、初等部五年の教室。
つい数日前、共和国第二特級《断界》を退けた帝国第四特級《虚空》は、現在、帝国語の小テストによって撃沈していた。
「まだ返ってきてないだろ」
隣からカイルが言う。
「分かるもん」
「何が」
「三問くらい、完全に分かんなかった」
「昨日やったところだぞ」
「昨日やったから今日できるなら、みんな勉強で苦労しないよ」
「開き直るな」
リナは顔だけ横へ向けた。
「算術なら勝てる」
「帝国語の話してるんだけど」
「魔法でもいいよ」
「それは勝負にならないから駄目」
「えー」
教師が答案を集めていく。
その間も、教室の空気は以前とは少し違っていた。リナを見る目が増えている。
元々、《虚空》が同じ教室にいること自体が普通ではなかった。
けれど。
今はさらに。
映像を見てしまった。
宇宙に立つ銀髪の少女。
赤く光る瞳。
歌うような、誰にも分からない言葉。
そして。
星空の一部が、黒く欠ける瞬間。
それを見た後で、本人が机へ突っ伏して、
「絶対一問目から間違えた……」
と呻いている。
どう接すればいいのか分からなくなるのも、無理はなかった。
「ねえ」
少し離れた席から、女子生徒が声をかけた。
「ん?」
リナが顔を上げる。
少女は一瞬ひるんだ。
「……あの映像って、本当にリナなの?」
「うん」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も映像で見たから」
「自分でやったんでしょ?」
「途中ちょっと覚えてない」
教室が静かになった。リナも言ってから、少しだけ視線を落とした。
「でも最後は覚えてるよ」
「最後?」
「止めたところ」
指先を見る。
「危なかったから」
「……怖くなかったの?」
誰かが聞いた。
リナは少し考えた。
「その時は、怖くなかった」
あの時。
何も感じなかった。
だから。
「後から怖かった」
教室の何人かが息を飲む。リナはそこでニカッと笑った。
「今は小テストの方が怖いけど」
「一緒にするな!」
カイルが突っ込んだ。
何人かが吹き出した。張っていた空気が少しだけ緩む。
リナも笑った。
それでいい。
少なくとも。
今は。
*
放課後、学院の正門には、以前より多くの警備員が立っていた。
リナが門を出ると、待っていた侯爵家の車の横に、アルベルトがいた。
「父ちゃん」
「ああ」
「迎え?」
「迎えだ」
「仕事は?」
「終わらせた」
「ほんと?」
「……持ち帰った」
「終わってないじゃん」
「うるさい」
リナが笑う。
アルベルトは娘の鞄を受け取ろうとして。
「自分で持てるよ」
断られた。
「そうか」
少しだけ残念そうだった。
リナは気づかなかった。
「今日ね、小テストだった」
「そうか」
「たぶん駄目」
「そうか」
「慰めてよ」
「勉強しろ」
「父ちゃん厳しい!」
「共和国の特級と戦うより帝国語を勉強する方が安全だ」
「それはそうだけど!」
車へ乗り込む。アルベルトも隣へ座った。
扉が閉まり、少ししてから。
「今日は客が来る」
父が言った。
「誰?」
「忘れたのか」
「何を?」
「食事の約束だ」
リナがしばらく考える。
「あ」
顔が明るくなった。
「先生と教官!」
「そうだ」
「帰ってきたから?」
「ああ」
白冠。
天壁。
二人とも帰ってきたその事実をリナは知っていた。
それでも。
改めて聞くと、少し嬉しかった。
「じゃあいっぱい食べる?」
「客に聞け」
「父ちゃん、お酒出す?」
「出す」
「ゴル爺だったら絶対来たのに」
口にして、ほんの少し胸の奥が痛んだ。
けれど。
もう。
名前を言っただけで食べられなくなるほどではなかった。
「たぶん、人の分まで飲む」
リナが言う。
「あの爺さんならやるな」
「『これはわしのじゃ』って」
「言いそうだ」
二人で少し笑った。
*
「先生!」
夕刻。
侯爵邸の玄関へ現れたミレイアを見て、リナは駆け寄った。
白い軍装ではなかった。
淡い色の落ち着いた服。
銀髪も、いつもより柔らかくまとめられている。
「こんばんは、リナ」
「ほんとに来た!」
「約束しただろう」
「教官も!」
「私はついでか?」
その後ろからサイラスが入ってくる。
黒髪。
眼鏡。
いつも通りの硬い顔。
「先生!」
「教官だ」
「久しぶり!」
「数日だ」
「教官!」
「……何だ」
「ちゃんと帰ってきたね」
サイラスが黙った。リナはただ笑っている。
「そうだな」
眼鏡を直す。
「帰ってきた」
「先生も」
「ああ」
ミレイアも少しだけ笑った。
「帰ってきた」
リナは満足そうに頷いた。
「じゃあご飯!」
「挨拶より先にそれか」
アルベルトが後ろから言う。
「ちゃんと挨拶したよ!」
「先生と教官しか言っていない」
「こんばんは!」
「遅い」
クラウディアが玄関ホールへ現れる。
「リナ」
「はい」
「お客様を玄関で立たせたままにしない」
「はい」
「それから走らない」
「はい」
「返事だけは大変よろしいですね」
「えへへ」
「褒めていません」
そのやり取りを見て、ミレイアが小さく笑った。
サイラスも口元だけほんの少し緩めた。
*
食卓にはいつもより少し豪華な料理が並んでいた。
焼いた肉。
魚。
温かいスープ。
色とりどりの野菜。
柔らかいパン。
最後には菓子もあるらしい。
「すご」
席についたリナが言った。
「普段より多い」
「お客様ですから」
クラウディアが答える。
「毎日お客さん来ればいいのに」
「あなたの礼法教育も毎日増やしますよ」
「やっぱ来なくていい」
「おい」
サイラスが言う。
「私たちは何のために来たんだ」
「ご飯食べるため」
「……間違ってはいない」
食事が始まる。
最初は本当に普通の話だった。
学院のこと。
訓練のこと。
ユリウスの高等部での授業。
クラウディアが最近、リナへ礼服の着方を教えようとして逃げられたこと。
「だって苦しいんだもん」
「締めていません」
「気持ちが苦しい」
「精神論で逃げないでください」
ミレイアが吹き出した。
「白冠」
サイラスが見る。
「失礼」
「先生も礼服嫌い?」
「嫌いではない」
「じゃあ代わって」
「何をだ」
「クラウディアさんの授業」
「逃げ道を作らないでください、リナ」
「はい」
また笑いが起きる。
だが、しばらくして、リナが肉を一切れ食べ終え、ふとミレイアを見た。
「先生」
「何だ」
「アナスタシアさん、生きてる?」
空気が少しだけ変わった。ミレイアはすぐ答えた。
「生きている」
「よかった」
リナはそう言って、スープを一口飲んだ。
「怪我した?」
「している」
「先生が?」
「私だけではない」
「教官も?」
「私も戦った」
「二人で?」
「そうだ」
ミレイアは誤魔化さなかった。
リナがスプーンを置く。
「何しに行ったの?」
今度は、誰もすぐに答えなかった。
リナが首を傾げる。
「共和国に」
アルベルトが静かにミレイアを見る。
止めなかった。
ミレイアは少しだけ息を吐いた。
「共和国の特級戦力を、これ以上帝国へ向けられない状態にするためだ」
「それって」
リナが考える。
「やっつけに行ったってこと?」
「そうだ」
「殺すつもりだった?」
食卓が静まった。ユリウスもクラウディアも口を挟まない。ミレイアはリナから目を逸らさなかった。
「その可能性は承知していた」
「……そっか」
「リナ」
「うん?」
「私は、破軍閣下が亡くなった直後、報復のためにお前を戦場へ出すことへ反対した」
「知ってる」
「ああ」
「それでも、私は共和国へ行った」
「うん」
「そしてサイラスも」
「……そうだ」
サイラスが答えた。
リナは二人を見る。
「なんで?」
十歳の問いだった。単純で、だからこそ逃げにくい。
サイラスが眼鏡を外した。
布で拭く。
時間を稼ぐように。
「共和国が再び先に動く前に、こちらから危険を減らすべきだと判断した」
「怖かったから?」
サイラスの手が止まる。
「……そうだ」
リナはしばらく黙った。
「リューベックも?」
今度は、アルベルトの表情が固くなった。
「あそこも、私が怖かったんだよね」
「リナ」
「でも私をさらいに来た」
「そうだ」
「共和国も、私たちが多くなったから怖くて、お爺ちゃん殺した」
エルネスト。
もう一人の。
お爺ちゃん。
「それで今度は帝国が怖くなって、先に行ったの?」
誰もすぐには否定できなかった。
ミレイアが静かに言った。
「同じではない」
「うん」
リナは頷く。
「全部一緒じゃないのは分かる」
「……」
「でも、ちょっと似てる」
「そうだな」
ミレイアは認めた。
「似ている」
サイラスが眼鏡を戻す。
「私は、お前を兵器にすることへ反対した」
「うん」
「今も反対している」
「うん」
「だが私は結局、お前を帝都に残して出撃した」
サイラスの声は硬い。
「共和国が何もしてこなければ、お前は戦わずに済んだ。そう考えた」
「でも来た」
「ああ」
「カールさんが」
「ああ」
「私、戦った」
「……ああ」
サイラスは目を伏せなかった。
「だから私には、お前を戦場へ出すべきではないと言ってきたから責任がない、などとは言えん」
「私が行くって言ったよ?」
「それでもだ」
アルベルトが言った。
リナが父を見る。
「お前が行くと言ったことと、大人がお前をそこへ置いたことは別だ」
「父ちゃんも?」
「ああ」
「許可したもんね」
「私が許可した」
「でも止めても行ったかも」
「そうかもしれん」
「じゃあ父ちゃん悪くないじゃん」
「そういう話ではない」
「難しい」
「大人にも難しい」
アルベルトが少し苦い顔で言った。
「だから、お前一人に答えを出させるつもりはない」
リナは黙って、パンをちぎった。一口食べる。噛む。飲み込む。
「私ね」
「何だ」
ミレイアが待つ。
「カールさん、まだ嫌い」
「ああ」
「お爺ちゃん殺したから」
「ああ」
「でも殺さなくてよかったって、今も思ってる」
「ああ」
「変?」
「いや」
「軍の人、怒ってたよ」
アルベルトが眉を寄せる。
「どこで聞いた」
「ニュース」
「余計なところだけよく覚えているな」
「帝国語は覚えられないのにね」
「自分で言うな」
ユリウスが突っ込む。
リナは少し笑う。
それから。
「私、次も止まれるか分かんない」
笑顔が消えた。
「今回は止まれたけど」
サイラスを見る。
「だから訓練する」
ミレイアを見る。
「もっと上手くなりたい」
「戦うために?」
ミレイアが聞く。
リナは首を振った。
「止まるため」
静かだった。
「壊したい時に壊せるのは、たぶんもう分かったから」
リナは自分の手を見る。
「壊したくない時に、ちゃんと壊さない方を練習したい」
サイラスがゆっくり息を吐く。
「分かった」
「教えてくれる?」
「私は教官だ」
「うん」
「それが仕事だ」
「先生は?」
「もちろん」
ミレイアが微笑んだ。
「今度は、もう少し難しくしよう」
「え」
「赤い球だけでは足りないだろう?」
「待って」
「青も増やそうか」
「待って先生」
「動く家なども」
「先生!?」
「良い案だ」
「教官まで!」
重くなっていた空気が少しだけ戻る。
クラウディアが静かに立ち上がった。
「お話が済んだなら、菓子を出させます」
「やった!」
「その元気があるなら礼法の続きもできますね」
「話まだ終わってない!」
「今終わったでしょう」
「兄ちゃん助けて!」
「僕を巻き込むな」
「父ちゃん!」
「諦めろ」
「先生!」
「頑張れ」
「教官!」
「訓練より安全だ」
「全員敵!」
リナの声が食堂に響いた。
*
食事が終わった頃には夜になっていた。
ミレイアとサイラスが帰る前。
「そうだ」
サイラスが細長い箱をリナへ渡した。
「何これ」
「開けろ」
蓋を開く。
「あ」
端末だった。
軍用端末。
前のものより少しだけ小さい。
「新しいやつ!」
「前のものは二つにされたそうだな」
「カールさんに切られた」
「知っている」
「これ丈夫?」
「通常の使用には十分だ」
「断界に切られても?」
「それに耐える携帯端末を要求するな」
「えー」
「そもそも切られる状況になるな」
「それ難しくない?」
「難しくするな」
リナが端末を持ち上げる。
「ありがと、教官」
「なくすなよ」
「切られるのは?」
「もっと駄目だ」
「はい」
サイラスは一度だけ娘を見るアルベルトへ視線を向けた。
何も言わない。
だが。
アルベルトには何を考えているのか少し分かった。
次は。
こんな物を渡して、子供に守れと言うだけで済ませてはならない。
そんな顔だった。
*
「侯爵様」
ミレイアたちを見送って、玄関の扉が閉じた直後だった。
家令がアルベルトへ歩み寄る。
「何だ」
「正門前に、人が集まり始めています」
アルベルトの眉が寄った。
「報道か?」
「いえ」
「では何だ」
家令が一瞬言い淀む。
「リナ様に、会わせてほしいと」
「断れ」
「すでにお伝えしています。ただ……」
「ただ?」
「帰らない者がいます」
リナも聞いていた。
「私?」
家令が困った顔で頷く。
「はい」
「誰?」
「様々です」
「様々?」
「祈りを捧げたいという者。お礼を申し上げたいという者。お姿を見るだけでいいという者」
そこで止まる。アルベルトの顔がさらに険しくなる。
「まだあるな」
「……病人を連れてきている者も」
リナの笑顔が消えた。
「なんで?」
家令は答えにくそうだった。
「リナ様に、救っていただけるのではないかと」
「私に?」
「《灰の星の神子》ならば、と」
その呼び名。
リナはもう知っている。
映像の中の自分。
歌う少女。
赤い瞳。
欠けた星空。
それを見た人間たちが勝手につけた名前。
「治せないよ」
リナが言った。
「私、お医者さんじゃない」
「分かっている」
アルベルトが答える。
「会う必要もない」
「でも病気なんでしょ?」
「だからこそだ」
「……」
「お前に治せる保証はない。期待させるべきでもない。そして何より」
アルベルトは娘を見る。
「お前が背負うことではない」
リナは黙った。
「部屋へ戻りなさい」
クラウディアが言う。
「ここは大人に任せて」
「クラウディアさん」
「何ですか」
「怒ってる?」
「ええ」
「私に?」
「まさか」
クラウディアは正門の方を見る。
「十歳の子供へ、祈れば何でも叶えてくれる存在になれと求めることにです」
少し、強い声だった。
その顔をリナはじっと見た。
「でも」
クラウディアが続ける。
「外の人々も、苦しいのでしょう」
「……うん」
「ですから、追い払えば終わりという話でもありません」
「難しいね」
「ええ」
「今日それ多い」
「世の中は、だいたい難しいものです」
「やだなあ」
「私もです」
珍しい答えだった。
リナが少し笑う。
それから、二階へ上がった。
*
自分の部屋。
窓の外。
遠く。
侯爵邸の正門が見える。
その向こうに。
灯りがあった。
一つ。
二つ。
もっと。
人がいる。
警備線の外。
祈るように。
座っている者もいた。
頭を下げている者も。
子供を抱いている者も。
リナは。
窓辺に立ったまま。
動かなかった。
神子様。
昔。
第七植民星で。
村の人たちもそう呼んだ。
空へ連れていかれて。
きれいな服を着て。
たくさんの食べ物を持って帰った自分を。
神子様。
神子様。
みんなが頭を下げた。
あの時。
一人だけ。
いつも通りだった。
『何が神子様じゃ』
酒瓶を抱えた老人。
『こいつは、わしんとこのクソガキじゃ』
リナは窓へ額をつけた。
「……私」
小さく言う。
外には届かない。
「神子じゃないんだけどな」
返事はない。
当たり前だ。
ゴル爺は。
もういない。
それでも。
少し考えてから、もう一度言った。
「私、リナなんだけどな」
窓の向こうで、また一つ、祈りの灯りが増えた。




