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灰の星の神子  作者: Tatsumaru


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18/34

第十八章 尺度の外

 窓が、一斉に震えた。


 教室の中から音が消える。


 リナは窓の外を見たまま、動かなかった。


「《断界》」


 薄赤の瞳が、淡く光っている。


 前にアナスタシアを間違えた時とは違う。


 今度は、本物だった。


「リナ」


 教師が呼ぶ。


 返事はない。


 カイルが隣から顔を覗き込んだ。


「……リナ?」


 ようやく、少女が振り向く。


 そこにいたのは。


 いつも算術で得意げになって。


 帝国語で頭を抱えて。


 昼食の肉を見て目を輝かせる少女と、同じ顔だった。


 なのに。


 何もなかった。


 怒っていない。


 泣いていない。


 怖がってもいない。


 ただ。


 表情だけが、きれいに消えていた。


「先生」


「……はい」


「ちょっと行ってくる」


「待ちなさい!」


 リナが立ち上がる。


 その瞬間。


 制服のポケットに入っていた軍用端末が鳴った。


『リナ!』


 アルベルトの声。


 リナが端末を取る。


「父ちゃん」


『そこから動くな』


「でも来てるよ」


『分かっている』


「断界」


『分かっている!』


 アルベルトは軍司令部にいた。


 背後から怒号と警報音が聞こえる。


『現在、《断界》は帝都外縁防衛圏へ侵入。民間施設への攻撃は確認されていない』


「うん」


『目的も不明だ。勝手に接触するな』


「私が守るんでしょ」


『……』


「先生たちに頼まれた」


 アルベルトの返事が止まった。


 別の声が通信へ割り込む。


『侯爵』


 帝国防衛司令官。


『通常戦力では止められません』


『分かっている!』


『《断界》は帝都へ近づいています』


 沈黙。


 ほんの数秒。


 リナは何も言わず待った。


 それが。


 アルベルトには余計に怖かった。


『……リナ』


「うん」


『迎撃を許可する』


「分かった」


『ただし帝都から離れた場所で接触しろ。絶対に市街地へ戦闘を持ち込むな』


「うん」


『それと』


 父の声が。


 軍人ではなくなった。


『帰ってこい』


 リナの瞳が。


 ほんの少しだけ揺れた。


「うん」


 通信が切れる。


 リナは窓を開けた。


「ちょっと!」


 教師が慌てて近づく。


「玄関から――」


「先生」


「はい?」


「今日の宿題ある?」


「……あります」


「帰ってからやる」


「リナ」


 カイルが呼んだ。


 少女が振り返る。


「何?」


「……帰ってくるよな?」


「うん」


 でも。


 笑わなかった。


「行ってきます」


 次の瞬間。


 リナの姿が。


 教室から消えた。


     *


 帝都外縁。


 カール・ノイマンは自分がすでに発見されていることを知っていた。


 隠すつもりもない。


『帝国防衛軍へ告げる』


 広域通信。


『共和国特級《断界》カール・ノイマン』


 帝国軍の全通信網に彼の声が流れる。


『民間施設への攻撃意思はない』


 返答はない。


『要求は一つ』


 カールは遥か遠くにある帝都を見る。


『共和国領へ侵攻中の《白冠》《天壁》のうち、一名を帰還させろ』


 ようやく返答。


『共和国は、我が国へ要求できる立場にあると思っているのか』


「思っていない」


『ならば――』


「だから俺がここにいる」


 通信が止まる。


「俺を放置して共和国への攻撃を続けるか」


 カールは言う。


「一人を戻して帝都を守るか」


 それが共和国の狙いだった。


 帝都を壊す必要はない。


 攻撃する必要すらない。


 《断界》がここにいる。


 それだけで。


 帝国は無視できない。


「……さて」


 カールは小さく息を吐いた。


 魔力器官が痛む。


 七割。


 それは嘘ではない。


 ただし。


 七割の出力を七割の時間使えるわけではない。


 長く戦えば、確実に崩れる。


「早く気づけよ」


 帝国へではない。


 白冠と天壁へ。


 そう呟いた時だった。


 カールの顔が上がった。


「……来たか」


 小さい。


 異様なほど。


 小さな魔力反応。


 いや。


 違う。


 感知できている部分が小さいだけだ。


 その奥。


 何か。


 測るという行為そのものが。


 意味を失うほど大きい。


 青銀の光が帝都から一直線に飛んでくる。


「速いな」


 カールが呟いた。


     *


 共和国首都。


「断界を帝都で確認!」


 報告が飛び込んだ。


 同時に、ミレイアとサイラスの端末にも帝国軍から緊急通信が入る。


『帝都外縁に《断界》出現!』


 サイラスの顔色が変わった。


「何だと!?」


『《虚空》が迎撃へ向かいました!』


「馬鹿な!」


「戻る!」


 サイラスが身を翻しかけた。


「待て。私が前へ出る」


 ミレイアが彼の前を横切る。サイラスは彼女を覆う障壁を残し、ほかの結界を順に引き始めた。


 アナスタシアは追わなかった。ミレイアの放つ白い光を呑み込みながら、サイラスから距離を取る。


「帰る方は止めないわよ」


 サイラスの目が細くなる。


「その言葉を信じろと?」


「信じなくていい。こっちへ撃たなきゃ、私もそっちへは撃たない」


 次の白い光が迫る。


 アナスタシアはそれを受け止め、帝国の方角を一瞬だけ見た。


 早く行って。


 カールは、まだ治っていない。


 長くは戦わせられない。


     *


 リナはカールの百メートルほど前で止まった。


 宇宙空間。


 帝都から十分に離れた無人宙域。


 青銀の髪が魔力の流れで静かに揺れている。


 制服姿。


 十歳。


 どう見ても戦場にいる姿ではなかった。


 カールが初めて本人を見る。


「リナリエッタ・レーヴェン」


「リナでいいよ」


 いつもの言葉。


 でも。


 ニカッとは笑わない。


 声にも。


 何も乗っていない。


「そうか」


 カールは答えた。


「リナ」


「あなたがカールさん?」


「ああ」


「《断界》?」


「ああ」


 リナはしばらく彼の顔を見た。


「お爺ちゃん殺した人?」


 カールは目を逸らさなかった。


「俺が殺した」


「そっか」


 それだけ。


 カールは。


 背筋に。


 冷たいものを感じた。


 アナスタシアの言葉を思い出す。


『何もなくなったの』


 分かった。


 これか。


「俺は帝都を破壊しに来たわけではない」


「うん」


「お前を殺しに来たわけでもない」


「うん」


「白冠か天壁を共和国から引き戻す。それが目的だ」


「うん」


「話は通じているか?」


「通じてるよ」


「……」


「でも」


 リナの瞳が。


 少し強く光った。


「帝都に来た」


「そうだ」


「私が守るって約束したところに」


「ああ」


「じゃあ」


 少女が首を少し傾ける。


「帰って」


「それはできない」


「そっか」


 カールは。


 構えた。


 リナは。


 何もしない。


 ただ。


 言った。


「じゃあ、どかすね」


     *


 先に動いたのはカールだった。


 十歳相手だから。


 様子を見る。


 そんなことはしない。


 相手は特級。


 エルネスト戦で、半端な覚悟がどれだけ危険か嫌というほど知った。


 空間切断。


 ただし。


 狙うのはリナではない。


 彼女と自分の間。


 距離を切り離し、戦場をずらす。


 時間を稼ぐ。


「――断」


 空間が。


 裂ける。


 はずだった。


「……?」


 裂けない。


 カールの目が細くなる。


 もう一度。


 今度は三方向。


 空間そのものへ刃を通す。


 何も起きない。


「何をした」


「切ったら危ないから」


 リナが答える。


「止めた」


「空間を?」


「うん」


「……」


「先生に、壊さないようにって習った」


 カールは。


 初めて。


 本気で嫌な予感がした。


 切断。


 成立しない。


 なら。


 転移。


 自分の座標と数千キロ先の座標を接続する。


 空間が開く。


 一歩。


 踏み込む。


 出口。


 ない。


「――!」


 強引に中断。


 元の位置へ戻る。


 僅かな失敗だけで。


 胸の奥に激痛。


 まだ治り切っていない魔力器官が悲鳴を上げる。


「出口を消したのか」


「分かんない」


「……分からない?」


「そこに来る感じしたから」


 リナが何もない場所を指す。


「来ないでって思った」


 それだけ。


 カールは自分とエルネストの戦いを思い出した。


 エルネストは空間切断を圧倒的な出力で押し返した。


 理解できなくても、まだ理屈の延長にいた。


 この少女は。


 違う。


「……なるほど」


 カールが呟く。


「何?」


「アナスタシアが測れないと言った意味が分かった」


     *


 攻撃へ切り替える。


 時間を稼ぐなら、リナにも動いてもらうしかない。


 十六の空間断裂。


 直撃ではない。


 周囲を囲む。


 逃げ道を限定する。


 その先へ。


 さらに三十二。


 エルネストにも使った。


 多重断界。


 リナは。


 避けなかった。


「邪魔」


 一言。


 空間断裂が。


 止まった。


 カールの顔が。


 初めて明確に歪む。


「……冗談だろ」


 裂け目が。


 塞がっていく。


 いや。


 塞がったのではない。


 最初から。


 切れていなかったことにされたように。


 消える。


 リナが。


 一歩。


 宇宙を歩いた。


 本来、足場などない。


 でも。


 足元の空間だけが床のように少女を支えている。


 一歩。


 また一歩。


 カールが後退する。


 リナが進む。


「ねえ」


「何だ」


「お爺ちゃんと戦った時も」


 一歩。


「こうやって切った?」


「ああ」


「お爺ちゃん、痛かった?」


「……ああ」


「そっか」


 声は。


 変わらない。


 なのに。


 周囲の星が。


 揺れた。


     *


「まずい」


 共和国首都でアナスタシアが突然呟いた。


 ミレイアの攻撃を受け流しながら、アナスタシアは戦域を離れようとするサイラスを横目で追っていた。


「何がだ!」


 サイラスが叫ぶ。


「分かんない!」


「なら言うな!」


「カールが!」


 アナスタシアの笑顔が消えた。


「すっごくまずい気がする!」


 ミレイアが一瞬だけ攻撃を止める。


 帝国から。


 通信。


『天壁閣下!』


「言え!」


『虚空と断界、交戦開始!』


 サイラスの顔色が変わる。


『戦域の空間観測に異常! 詳細解析不能!』


「殿下!」


「ああ」


 ミレイアが頷く。


「お前が戻れ」


「しかし」


「私が星喰を抑える」


 ミレイアがサイラスの前へ出た。


「行け」


 アナスタシアは、帰還しようとする男ではなく、目の前の白冠を見た。


「そっちは追わない。でも、ここから先へは通さないわよ」


「なら、私を見ていろ」


 白い光と赤い魔力がぶつかった。


 その横で、サイラスは最後の障壁を引き、戦域を離れる。


 帝都へ。


 リナのいる場所へ。


     *


 カールはすでに三度死を覚悟しかけていた。


 一度目。


 リナが右手を動かしただけで。


 自分の左側数キロの空間が。


 丸ごと消えた時。


 二度目。


 転移した先へ。


 先にリナがいた時。


 三度目。


 自分の切断した空間を。


 少女が素手で掴むように。


 固定した時。


「……化け物」


 思わず漏れた。


 リナの眉がほんの少し動く。


「それ嫌い」


「すまん」


 謝った。


 自分でも。


 何をしているのか分からない。


「私、人だよ」


「ああ」


「十歳」


「知っている」


「学校も行ってる」


「それも聞いた」


「帝国語苦手」


「アナスタシアが言っていた」


「なんで言うの!」


 初めて。


 感情が戻った。


 ほんの一瞬。


 カールがそこを見逃さない。


 空間切断。


 リナの背後。


 狙うのは身体ではない。


 制服のポケット。


 軍用端末だけ。


 切断。


 端末が。


 二つに割れた。


「あ」


 リナが見る。


 カールがその隙に大きく距離を取る。


「……」


 リナが壊れた端末を見る。


 サイラスからもらった。


 緊急連絡用。


「サイラス先生にもらったのに」


 カールの背中に。


 ぞわり。


 寒気。


「……まずかったか」


 リナが。


 顔を上げる。


 また。


 表情が消えていた。


「うん」


     *


 その時。


 リナの口から。


 歌が。


 零れた。


 帝国語ではない。


 カールの翻訳魔法が意味だけを拾う。


「――天より火は降り」


 その一節を帝国防衛司令部の観測回線も拾っていた。


 アルベルトの顔から血の気が引く。


「……同じだ」


「侯爵?」


「第七植民星で、リューベック艦隊が消えた時と」


 あの日。


 ゴルの亡骸の前で。


 娘は同じ言葉を、歌うように口にした。


「リナ……」


 遠すぎる娘の名を、父は呼んだ。


 静かな声。


 子供が。


 遠い昔に覚えた歌を。


 思い出すように。


「――硫黄の雨は、人の地を覆い」


 カールが動きを止める。


 聞いたことはない。


 だが、その最初の言葉だけは、報告書で読んでいた。


 第七植民星。


 リューベック連星国主力艦隊消失事件。


 育ての親を失った少女が口にした、意味不明の言葉。


「……あれか」


 何だ。


 これは。


「――朝、旅人が振り返れば」


 リナ自身にも。


 分からない。


 昔。


 別の世界で。


 読んだ。


 聞いた。


 誰かが語っていた。


 神が。


 人の町を。


 罰した話。


 名前も。


 細かな文句も。


 もう覚えていない。


 ただ。


 焼けた地と。


 空へ上る煙だけが。


 記憶に残っている。


「――そこに町はなく」


 周囲の星の光が。


 一つ。


 また一つ。


 消える。


 カールの顔から。


 血の気が引いた。


 星が消えたのではない。


 光がこちらまで届かない。


 空間そのものが。


 黒く沈んでいる。


「――大地の煙だけが」


 カールが。


 全力で空間を切る。


 逃げるため。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 全部。


 閉じる。


「――大きな炉のように」


 少女の薄赤の目が。


 カールだけを見ている。


「――天へ昇った」


 カールは。


 理解した。


「……これは」


 《断界》は空間を切る。


 距離を切る。


 境界を作る。


 だが。


 目の前の少女は。


 切るべき空間そのものを。


 なくそうとしている。


「相性以前の問題か……」


     *


 カールは。


 逃げるのをやめた。


 全魔力を一点へ集める。


 七割。


 いや。


 もう。


 何割残っているかも分からない。


 魔力器官から。


 血が出るような感覚。


 肉体の内側。


 エルネストにつけられた傷が再び裂け始める。


 それでも。


 やる。


 リナの正面。


 空間を。


 切る。


 切る。


 切る。


「――断界」


 今までで。


 最も細く。


 最も鋭い。


 一条。


 リナの喉へ。


 伸びる。


 少女は。


 避けなかった。


 切断線が。


 首へ触れる。


 その直前。


「止まって」


 止まった。


「……」


 カールは。


 笑いそうになった。


「そうか」


 もう。


 打つ手がない。


 リナの周囲。


 黒い。


 何もないものが。


 広がる。


 自分を包む。


 空間転移。


 できない。


 切断。


 できない。


 防御。


 意味がない。


 再生。


 そもそも残らない。


 死ぬ。


 今度こそ。


 本当に。


「アナスタシア」


 小さく呟いた。


 妻。


 子供たち。


 共和国。


 エルネスト。


 いろいろな顔が。


 一瞬。


 頭を通る。


 不思議と。


 恐怖はなかった。


 エルネストも。


 最後は。


 こんな感じだったのだろうか。


 カールはリナを見る。


「俺は」


 少女の歌が止まる。


「エルネストを殺した」


「……」


「お前が俺を殺しても」


 一度。


 息を吐く。


「恨みはしない」


 リナの。


 瞳が。


 揺れた。


     *


『まだ嫌いって』


 誰かの声。


『あと』


 赤い髪。


 笑う人。


『死ななくてよかったって』


 自分が。


 言った。


 なんでか分からない。


 でも。


 言った。


 もう一つ。


 ずっと古い声が。


 記憶の底から浮かんだ。


『……飯、ちゃんと食えよ……』


 ゴル爺。


 倒れた身体。


 止まった息。


 あの時も。


 私は何も感じなくなった。


 いなくなれと思って。


 本当に、空から全部いなくなった。


 あの時は。


 止まれなかった。


 リナの目に。


 少しずつ。


 光とは違うものが戻る。


「……あ」


 カールの周囲を。


 呑み込もうとしていた《虚空》が。


 止まった。


「……」


 リナが目を瞬く。


 自分が今。


 何をしようとしていたのか。


 ようやく。


 分かった。


「やば」


 カールの眉が動く。


「何?」


「そっち行ったら駄目!」


 リナが両手を思いきり横へ振った。


 完成寸前だった。


 最大規模の魔力が。


 カールの脇を通り。


 誰もいない。


 遥か遠い星間空域へ。


 解き放たれた。


 音は。


 ない。


 光も。


 最初はなかった。


 ただ。


 星空が。


 そこだけ。


 丸く。


 消えた。


 数秒後。


 観測機器が。


 一斉に狂う。


 無人の小天体群。


 塵。


 光。


 魔力。


 そこにあったものが。


 まとめて。


 観測不能になった。


 何が起きたのか、カールにも分からない。


 ただ。


 自分へ向いていたら。


 間違いなく。


 何も残らなかった。


 リナが消えた星空を見た。


「……」


 カールも見る。


「……」


 しばらく。


 二人とも。


 何も言わなかった。


 やがて。


 リナの顔が。


 完全に。


 いつもの顔へ戻った。


「うわー」


 額に。


 冷や汗。


「……あっぶなー」


 カールがゆっくり少女を見る。


「おまえがやったんだろ……」


「うん」


「何が危なかった、だ」


「ほんとに危なかったもん!」


「俺がな」


「あ」


「今気づいたのか」


「ごめん」


「……」


「でもカールさんが来たからでしょ」


「それは否定できん」


「じゃあ半分カールさんのせい」


「九割お前だ」


「えー」


 カールは思わず額を押さえた。


 笑う気力もない。


 全身。


 ぼろぼろ。


 魔力器官。


 限界。


 なのに。


 目の前の少女は。


 もう。


 さっきまでの何かではなかった。


     *


「なんで外した」


 カールが聞いた。


「ん?」


「俺を殺すつもりだっただろう」


 リナの顔が少し曇る。


「……うん」


「なら、なぜ」


「分かんない」


 リナは少し黙った。


「……でも、前は止まれなかったから」


「前?」


「ゴル爺が死んだ時」


 カールの表情がわずかに変わる。


「リューベックか」


「うん。私、いなくなれって思った。そしたら、本当にみんないなくなった」


 薄赤の目が、自分の手を見る。


「何人いたかも、何したかも、後から聞いた。ずっと怖かった」


「……」


「だから今回は、止まりたかった」


「でも」


 リナは少し考える。


「アナスタシアさんに言ったから」


「何を」


「カールさん、死ななくてよかったって」


「……」


「ここで殺したら」


 自分の胸へ指を当てる。


「私、嘘つきになるじゃん」


 カールは。


 何も言えなかった。


「あと」


 リナが言う。


「お爺ちゃんも」


「エルネスト?」


「怖がっとけって言ってた」


「……」


「さっきの私」


 ほんの少し怖そうな顔になる。


「怖かった」


「俺もだ」


「カールさんも?」


「ものすごく」


「そっか」


 リナは少し安心したようだった。


「じゃあまだ大丈夫かな」


「どういう理屈だ」


「お爺ちゃんが、自分怖くない特級は信用しないって」


 カールは目を閉じた。


「……あの爺さんらしい」


「知ってる?」


「最後に戦ったからな」


 リナの顔が少しだけ硬くなる。


「まだ嫌いだよ」


「ああ」


「許してない」


「ああ」


「お爺ちゃん殺したの」


「分かっている」


「でも」


 リナはカールをまっすぐ見る。


「私、カールさんは殺さない」


 その言葉に。


 カールは。


 長い間。


 何も返せなかった。


 ようやく。


「ああ」


 それだけ。


     *


 その時、リナの壊れた端末とは別に帝国軍広域通信が直接魔力へ届いた。


『《虚空》! 応答せよ!』


「はい」


『《天壁》は共和国戦域を離脱済み! 現在、帝都へ帰還中!』


 カールが目を閉じる。


 目的達成。


 少なくとも、共和国首都で白冠と天壁が二人がかりでアナスタシアを殺す作戦は崩れた。


「……そうか」


 カールが呟く。


「サイラス先生帰ってくるって」


「俺の任務も終わりだ」


「じゃあ帰る?」


「ああ」


 カールは空間を開こうとした。


 開かない。


「……」


 もう一度。


 開かない。


 リナが首を傾げる。


「何してるの?」


「帰る」


「帰れてないよ」


「分かっている」


 魔力器官。


 限界。


 転移を使う力が残っていない。


「……困ったな」


「帰りたい?」


「当然だ」


「共和国?」


「ああ」


「アナスタシアさんいる?」


「いる」


「じゃあ」


 リナがニカッと笑った。


 カールの背筋にさっきとは別の嫌な予感が走った。


「何をする気だ」


「送ってあげる」


「待て」


 カールの周囲を透明な何かが包んだ。


「これは」


「先生と練習したやつ」


「何の練習だ」


「触っちゃ駄目なものに触らず、動かしたいものだけ動かす」


「嫌な予感しかしない」


「大丈夫」


「その言葉が今一番信用できん」


「ちゃんとカールさんだけ」


「待て、リナ」


「共和国まで」


「待てと言っている」


「えいっ!」


 空間が。


 動いた。


 カールの身体ではない。


 カールを包んだ空間そのものが共和国方向へ猛烈な勢いで押し出された。


「お――」


 加速度はほとんど感じない。


 肉体にも傷は増えない。


 だが。


 景色が恐ろしい速さで後方へ流れていく。


「ま――」


 リナが遠くなっていく。


「また来たら怒るからねー!」


 声だけが魔力で追いかけてくる。


 カールは何とか振り向く。


 遥か後方。


 少女が両手を口の横へ当てていた。


「もう来んなー!」


 そして。


 べー。


 舌を出した。


「……」


 カールは流されながら目を閉じた。


「子供か……」


 答える声は当然返ってこない。


     *


 共和国首都。


「天壁、帝都方面への移動を確認!」


 報告。


 アナスタシアが大きく息を吐く。


「よし……!」


 目の前には。


 ミレイア。


 一人。


 白冠も。


 無傷ではない。


 アナスタシアも。


 同じ。


 二人とも相手を殺すより、これ以上戦争を広げない方へすでに意識が傾いている。


「これで」


 アナスタシアが言う。


「二対一じゃなくなったわね」


「そうだな」


 ミレイアが白い光を収める。


「続ける?」


「……」


「私は嫌」


「奇遇だな」


「じゃあ今日は帰ってくれる?」


「帝国の作戦目的は達成していない」


「天壁帰ったじゃない」


「だからだ」


「融通利かないわねえ」


 その時。


 共和国全域警戒網が。


 絶叫した。


『高速接近反応!』


「何!?」


『帝国方面より超高速!』


 アナスタシアが振り向く。


「攻撃!?」


『識別不能! 速度異常!』


 ミレイアも構える。


『――待ってください!』


「何!」


『特級反応です!』


 アナスタシアの顔が変わる。


『《断界》!』


「……は?」


 次の瞬間。


 共和国首都防衛圏へ。


 何かが。


 凄まじい速度で飛び込んできた。


「カール!?」


 アナスタシアが反射的に両腕を広げる。


 吸収。


 減速。


 空間ごと飛んできた男をどうにか止める。


「重っ!」


 以前、医療軍港で同じことを言った気がする。


 腕の中。


 カール。


 ぼろぼろ。


 でも。


 生きている。


「カール!」


「……うるさい」


「またそれ!?」


「耳元で叫ぶな」


「何があったの!」


「負けた」


「見れば分かる!」


「それから」


「何!」


 カールは疲れ切った顔で帝国の方角を指した。


「帰された」


 アナスタシアが瞬きをする。


「……は?」


「共和国まで」


「どうやって」


「投げられた」


「誰に」


 カールが目を閉じた。


「十歳児に」


 沈黙。


 アナスタシアの肩が。


 震えた。


「……ふ」


「笑うな」


「ふふっ」


「笑うな」


「だ、だって……!」


「笑うなと言っている」


「投げられ……共和国まで……!」


「アナスタシア」


「あははははは!」


 とうとう声を上げて笑った。


 でも。


 目から。


 涙が出ていた。


 カールはそれを見て小さく息を吐く。


「約束は守った」


「何の?」


「帰ってきた」


 アナスタシアの笑いが。


 止まった。


 それから。


 カールの頭を強く抱きしめる。


「……馬鹿」


「七回目か」


「もう数えてない!」


     *


 帝都外縁。


 サイラスがようやく到着した時、戦場に《断界》はいなかった。


 いたのは。


 制服姿の少女一人。


「あ」


 リナが手を振る。


「サイラス先生!」


 サイラスは周囲を見る。


 空間異常。


 帝国観測史上でも。


 見たことのない。


 巨大な欠落領域。


 遠くの星が。


 そこだけ。


 見えない。


「……リナ」


「何?」


「断界は」


「帰した」


「帰した?」


「うん」


「どうやって」


「投げた」


「……」


「ちゃんと壊れないようにしたよ」


 サイラスは眼鏡を外した。


 目元を押さえる。


「それで」


「うん?」


「これは何だ」


 何もない空域を指す。


 リナがそちらを見る。


「……」


「リナ」


「ちょっと失敗した」


「ちょっと!?」


「当たってないよ!」


「そういう問題ではない!」


「先生うるさい!」


「誰のせいだ!」


「でもカールさん生きてる!」


「それは――」


 サイラスの言葉が止まった。


「……生きているのか」


「うん」


「お前が」


「殺さなかった」


 リナは答えた。


「まだ嫌いだけど」


 サイラスはしばらく少女を見た。


 そして。


 小さく息を吐く。


「そうか」


「怒る?」


「山ほどある」


「えー」


「だが」


 サイラスはリナの頭へそっと手を置いた。


「まず帰るぞ」


「うん」


「父親が死にそうな顔で待っている」


「父ちゃん怒ってる?」


「泣く方だと思う」


「じゃあ早く帰ろ」


 ニカッ。


 いつもの笑顔。


 サイラスは。


 それを見て。


 ようやく。


 少しだけ笑った。


 その背後。


 星の消えた空域だけが。


 帝国第四特級《虚空》が。


 本気で一人の人間を消そうとした痕跡として。


 いつまでも。


 暗く残っていた。

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