第十四章 力の使い方
翌朝。
リナは本当に学校へ行った。
ただし、昨日までとは少し違った。
「《虚空》だ」
廊下ですれ違った上級生が、小声で言った。
「昨日の国葬にいたって」
「共和国へ出るんじゃないの?」
「軍が使いたがってるって父さんが――」
声そのものは小さい。
けれど、リナには聞こえた。
聞こうとしなくても。
最近はそういうものまで、前よりよく分かる。
リナは何も言わず教室へ入った。
「おはよ」
カイルが言う。
「おはよー」
鞄を置く。椅子へ座る。
カイルがこちらを見る。
「……大丈夫?」
「何が?」
「昨日」
「ああ」
リナは少し考えた。
「まだ悲しい」
「そっか」
「うん」
「じゃあ」
カイルは自分の机から紙を一枚取り出した。
「これ教えて」
「何?」
「昨日の算術。分かんない」
リナが紙を見る。
「ここ?」
「そう」
「これ簡単だよ」
「言うと思った!」
カイルが嫌そうな顔をする。
リナは少し笑った。
「じゃあ教える」
「ちゃんと分かるように教えろよ」
「任せて」
「帝国語で俺に教わってる奴が偉そうに」
「算術は私の方ができるもん」
「はいはい」
授業が始まるまで二人は問題を解いた。
廊下の向こうではまだ誰かが《虚空》について話していた。
でも。
机の上にあるのは。
共和国でも。
戦争でもない。
数字だった。
*
午後、通常授業を終えたリナは学院の訓練区画へ連れていかれた。
待っていたのはミレイアとサイラス。
「……ほんとにいる」
リナが言った。
サイラスの眉が動く。
「来ると言っただろう」
「先生二人」
「教官だ」
「白冠さんも?」
ミレイアは少し考える。
「私は先生でも構わない」
「殿下!」
「何だ。別にいいだろう」
「よかった。ミレイア先生」
「うむ」
「サイラス先生」
「教官だ!」
その場にいた学院教師が咳払いで笑いを誤魔化した。
「始めるぞ」
サイラスが言う。
「今日は戦闘訓練ではない」
「じゃあ何するの?」
「壊さない訓練だ」
リナは少し首を傾げた。
「私、最近壊してないよ」
「天井」
「一回だけ」
「二回だ」
「最初のは数えない」
「なぜだ」
「入学した日だから」
「何の免除にもならん」
ミレイアが手を上げる。
「サイラス」
「何です」
「話が進まない」
「誰のせいだと」
「主にお前だ」
「……」
リナがニカッと笑った。
「ミレイア先生つよい」
「そうだろう」
「殿下まで乗らないでください」
*
訓練場の中央に透明な箱が置かれた。
中には。
小さな模型の家。
道。
木。
人形。
そして。
その中央に。
赤い球が一つ。
「これ何?」
リナが聞く。
「街だと思え」
サイラスが答えた。
「小さいね」
「模型だからな」
「それくらい分かるよ」
「では言うな」
「先生細かい」
「教官だ」
「今日は」
ミレイアが説明を引き取った。
「この赤い球だけを止める」
「壊す?」
「止めるだけだ」
「簡単そう」
「そう思うか?」
「うん」
「ではやってみろ」
ミレイアが指を鳴らす。
赤い球が猛烈な速度で動いた。
「わっ」
模型の家へ向かう。
リナは反射的に手を伸ばした。
「止まれ!」
ぴたり。
赤い球。
家。
木。
模型の人形。
箱そのもの。
全部が空中で固定された。
「できた!」
「失格」
「なんで!?」
サイラスが即答した。
「赤い球以外も止めた」
「だって壊れてないよ?」
「街中の人間全員を固定して『守った』と言うのか」
「……」
リナが箱を見る。
「痛い?」
「実際の人間なら、固定の仕方次第だ」
サイラスは言う。
「呼吸。血流。飛行中の魔導師。走っている車両。病院。工場」
「……」
「全部を一律に止めればいいわけではない」
リナの顔から少し軽さが消えた。
「もう一回」
サイラスが言う。
「赤だけだ」
「うん」
二回目。
球が飛ぶ。
リナが意識する。
赤。
赤だけ。
「止まって」
球が一瞬遅くなる。
家の屋根へ当たった。
「うわ!」
模型が崩れる。
「失敗」
「分かってる!」
「怒るな」
「怒ってない!」
「魔力が増えた」
「あ」
箱の周囲が少し歪んでいた。
リナは力を抜く。
「……難しい」
「そうだ」
「惑星消すより?」
サイラスは即答した。
「ずっと難しい」
リナが目を丸くする。
ミレイアが頷く。
「大きく壊すだけなら、我々にはそれほど難しくない」
「白冠さんも?」
「当然だ」
「先生」
「……先生でもいい」
「ほんとに!?」
「話を聞け」
「はい」
ミレイアは透明な箱を指した。
「私たちが何十年も訓練しているのは、力を大きくするためだけではない」
赤い球を持ち上げる。
「これだけを撃つ」
白い光が指先から伸びた。
細い。
髪の毛のような光。
球の中央だけに小さな穴が開いた。
その後ろ。
模型の家には傷一つない。
「すご」
「これが制御だ」
「私もできる?」
「今すぐは無理だ」
「……」
「落ち込むな」
ミレイアは笑う。
「私はお前よりずっと長く生きている」
「何歳?」
「それは聞かなくていい」
「なんで?」
「授業を続けるぞ」
「教えてくれない!」
サイラスが眼鏡を直した。
「今の質問はいい。訓練へ戻れ」
「サイラス先生も知らない?」
「知っていても言わん」
「仲間だった!」
「違う!」
*
三回目。
赤い球。
家。
木。
人。
リナは今度は、目を閉じなかった。
赤い球を見る。
それだけ。
飛ぶ。
早い。
怖い。
家に当たる。
壊れる。
でも。
全部を止めちゃダメ。
「……そこ」
空間の。
本当に小さなところ。
球の周囲だけ。
掴む。
赤い球が。
止まった。
家の前。
ほんの数センチ。
「……」
リナは息を止めた。
サイラスもミレイアも、すぐには言わない。
「できた?」
リナが聞く。
「できた」
サイラスが答えた。
「ほんと?」
「ああ」
「壊れてない?」
「壊れていない」
「他のも止まってない?」
「動いている」
模型の木の葉が訓練場の風で小さく揺れている。
「……やった」
リナがそっと笑った。
大声は出さなかった。魔力も暴れない。
ミレイアがそれを見ていた。
「今の感覚を覚えろ」
「うん」
「もう一度」
「え」
「一回できただけで終わりと思ったか?」
「休憩は?」
「五回成功したら」
「鬼!」
「誰が先生だったかな?」
「ミレイア先生」
「なら先生の言うことを聞け」
「先生になった途端厳しい!」
サイラスが小さく笑った。
「何笑ってるの!」
「笑っていない」
「みんなそれ言う!」
*
共和国軍中央病院。
《断界》カール・ノイマンが目を覚ましたのは、戦闘から二日後だった。
最初に見えたものは白い天井。
次に。
赤い髪。
「……」
「おはよう」
アナスタシアが言った。
目の下にはっきり隈がある。
「何日だ」
カールが聞く。
「起きて第一声がそれ?」
「何日寝ていた」
「二日」
「そうか」
「もっと何かない?」
「水」
「情緒が死んでる」
「喉が渇いた」
「はいはい」
アナスタシアが水を渡す。
カールは身体を起こそうとして、顔をしかめた。
「起きるな!」
「……」
「今あんた、身体の半分作り直した直後なんだからね」
「半分は大袈裟だ」
「腕一本と脚一本と胴体ごっそり無くして半分じゃないって言う?」
「重量比なら」
「黙れ」
カールは素直に横になった。
「……右腕は」
「ある」
毛布の下。
指を動かす感覚はまだ鈍い。
「左脚」
「ある」
「魔力器官」
アナスタシアが黙った。
「アナスタシア」
「……傷が残ってる」
「程度は」
「分からない」
「戦闘復帰」
「その話したら殴る」
「答えになっていない」
「じゃあ殴る」
「患者だぞ」
「知るか」
カールは少しだけ口元を動かした。
「元気そうだな」
「誰のせいで寝てないと思ってるの」
「俺か」
「他に誰がいるのよ!」
怒鳴って、それから、アナスタシアの声が。
落ちた。
「……馬鹿」
「五回目か?」
「覚えてるの?」
「途中までは」
「じゃあもう一回。馬鹿」
「六回」
アナスタシアは少し笑った。すぐに、笑顔が消えた。
「カール」
「何だ」
「聞く?」
カールは目を閉じる。
「エルネストか」
「……うん」
「死んだな」
疑問ではなかった。
「うん」
病室が静かになる。
「最後の攻撃で?」
「ほぼ同時」
「そうか」
「帝国は国葬をした」
「そうか」
「……」
カールは天井を見る。
「俺が殺した」
「国家命令よ」
「俺が行った」
「命令したのは大統領府と国家安全保障会議」
「刃を入れたのは俺だ」
アナスタシアは何も言えなかった。
「共和国では」
カールが聞く。
「勝利扱いか」
「公式には作戦成功」
「そうか」
「あんたは英雄らしいわよ」
声がひどく冷たかった。
「街じゃ《断界が破軍を討った》って」
「……」
「記事も出てる。軍も、共和国の安全を守った歴史的勝利だって」
「間違ってはいない」
「そうね」
アナスタシアが椅子へ深く座る。
「間違ってないのが腹立つ」
カールはしばらく黙った。
「勝ったとは思わん」
「……」
「最初から殺すつもりだった俺と、最後まで戦争を止めようとしていたエルネスト」
「うん」
「最初の数手で傷を入れた。それでも、本気になった後は俺が押されていた」
「見てた」
「民間船への意識が逸れなければ、あの内側への切断も入らなかった」
「……」
「最後も」
カールは再生した自分の右手を見る。
「先に入れた傷へ、もう一度刃を通しただけだ」
「それを見逃さなかったから勝ったんでしょ」
「ああ」
「なら勝ちは勝ちよ」
「戦闘結果としてはな」
「……」
「だが、実力で上だったとは思わん」
アナスタシアは少しだけ笑った。
「本人が聞いたら喜びそう」
「そうか?」
「『当たり前じゃ』って笑うわよ」
「……言いそうだな」
二人とも一瞬だけ笑った。すぐ、静かになる。
「リナって子」
アナスタシアが言った。
「ん?」
「エルネストと仲良くなってたらしい」
カールの視線が止まる。
「そうか」
「国葬で棺に話しかけてた」
「何を」
「学校行ってるよ、って」
カールが目を閉じた。
「……そうか」
「あんた」
アナスタシアが少し迷う。
「その子が復讐に来たらどうする?」
返事はすぐには来なかった。
「戦う」
「やっぱり?」
「共和国特級だからな」
「……」
「ただ」
「何」
「殺したくはない」
アナスタシアの眉が上がる。
「エルネストは殺したのに?」
「ああ」
「矛盾してる」
「知っている」
「勝手ね」
「ああ」
カールは否定しなかった。
*
帝国。
訓練は七回目になっていた。
「もう五回成功した!」
リナが抗議する。
「連続五回だ」
ミレイアが言う。
「そんなの聞いてない!」
「今言った」
「ずるい!」
「戦場の条件は後から増えることもある」
「先生がずるいだけでしょ!」
「学びが早いな」
「褒めてない!」
サイラスは端末を操作した。
「次は二個」
「え?」
透明な箱に。
赤い球。
青い球。
そして。
模型の街。
「赤を止めろ。青には触るな」
「どっちも飛ぶ?」
「ああ」
「家に?」
「ああ」
「青が当たったら?」
「失敗」
「でも触っちゃダメ?」
「そうだ」
リナが嫌そうな顔をする。
「難しくない?」
「だから訓練する」
サイラスは淡々としている。
リナは透明な箱を見る。
「……先生」
「教官だ」
「これ、ずっと難しくなる?」
「ああ」
「どこまで?」
サイラスが答えようとした。
ミレイアが先に言った。
「終わりはない」
リナが振り向く。
「ないの?」
「ない」
「特級になったのに?」
「特級だからだ」
ミレイアは自分の掌を見る。
「力は、一度覚えたら終わりではない」
「……」
「今日できたことが、明日も正しいとは限らない。守るものが増えれば、難しくなる」
リナが少し考える。
「面倒だね」
「ものすごく」
「白冠さんでも?」
「ものすごく」
「天壁さんも?」
「当然だ」
サイラスが答える。
「お爺ちゃんも?」
二人とも少し黙った。
ミレイアが静かに答える。
「だから、最後まで訓練していた」
「七十四歳で?」
「ああ」
リナは箱へ向き直った。
「じゃあやる」
「休憩は?」
「終わったら」
サイラスの眉がわずかに上がった。
「いい判断だ」
「先生に褒められた」
「教官だ」
「そこは譲らないね」
「譲らん」
「お爺ちゃんみたい」
サイラスがほんの一瞬何も言えなくなった。
ミレイアは少しだけ笑った。
「始めるぞ、リナ」
「うん」
二つの球が飛び出した。
赤。
青。
壊してはいけない街。
止めていいもの。
触れてはいけないもの。
守るもの。
選ばなければならないもの。
リナは手を伸ばした。
「……赤だけ」
魔力が静かに動いた。
*
その日の夜。
侯爵邸の食卓でリナはスープを飲みながら、ずっと考えていた。
「父ちゃん」
「何だ」
「変だね」
「何がだ」
「前は、船いっぱい消せた」
アルベルトの手が止まる。
「リューベックの時か」
「うん」
「今日、赤い球一個止めるの、すっごく難しかった」
「そうか」
「船の方が大きいのに」
アルベルトは少し考えた。
「大きく壊すことと、何を壊さないか選ぶことは別なんだろう」
「ミレイア先生も似たこと言ってた」
「なら正しいのだろう」
「父ちゃん、自分で考えてない?」
「考えた上で同意した」
「ほんと?」
「本当だ」
リナは匙を置いた。
「私ね」
「うん」
「あの時、敵と味方は分かった」
「……」
「なんとなく。魔力がビリビリして。父ちゃんはこっち。知らない人はあっちって」
「覚えているのか」
「そこだけ」
自分の手を見る。
「でも、止めるって考えなかった」
アルベルトは何も挟まない。
「いなくなれって思った」
「……ああ」
「今日なら」
リナが顔を上げる。
「赤だけ止めて、青はそのままにできた」
「ああ」
「いつか」
少し迷って。
「怒ってても、止まれるかな」
アルベルトは簡単に『できる』とは言わなかった。
「そのために練習している」
「そっか」
「お前が自分を怖いと思うなら、その怖さごと扱えるようになればいい」
リナはエルネストの言葉を思い出した。
自分が怖くなくなった特級は信用しない。
「お爺ちゃんも言ってた」
「そうか」
「ゴル爺は、たぶん難しいこと言わない」
「何と言うと思う」
リナは少し考える。
「飯食え」
アルベルトがほんの少し笑った。
「それは間違いないな」
リナも笑う。
笑ったあと。
「父ちゃん」
「何だ」
「今度、ゴル爺のお墓行きたい」
「ああ」
「すぐじゃなくていい」
「……そうか」
「学校もあるし。先生たちも怖いし」
「教官だろう」
「父ちゃんまでそれ言うの?」
「サイラスに怒られる」
「父ちゃん、先生に弱いね」
「私は侯爵だぞ」
「でも先生に怒られるんでしょ?」
「……食べなさい」
「逃げた」
リナはニカッと笑い、残っていたパンを一口食べた。
ゴルの最後の言葉は今もちゃんと役に立っていた。




