第九章 破軍1
共和国特級《星喰》アナスタシア・ローデンは、会議が嫌いだった。正確には、会議そのものより、会議が終わったあとに、誰も口にしなかったことだけが部屋へ残っている感じが嫌いだった。
「カール」
地下施設から続く長い廊下を歩きながら、アナスタシアが呼んだ。
「何だ」
「甘いもの食べに行かない?」
「今か?」
「今」
「さっき国家存亡の話をしていたんだぞ」
「だからよ」
「意味が分からん」
「国家存亡の話したあとに苦い珈琲だけ飲んで帰ったら、今日一日ずっと国家存亡味になるじゃない」
カールは足を止めた。
「国家存亡味とは何だ」
「苦くて胃に悪いやつ」
「……お前の言葉は時々本当に分からん」
「奥さんにも言われる?」
「妻はもっと容赦がない」
「仲良しね」
「なぜそうなる」
アナスタシアは笑った。
「いいじゃない。甘いもの食べましょうよ。私がおごる」
「また給料日前か?」
「なんで知ってるの」
「先月も同じことを言った」
「覚えてたの?」
「お前は金の使い方が雑すぎる」
「特級なんだからもっと給料くれてもよくない?」
「もう十分もらっている」
「夢がないわねえ」
「お前に管理能力がないだけだ」
「はいはい」
二人は地上へ向かう昇降機へ乗った。
扉が閉じる。
外の音が消える。
そこで。
アナスタシアの笑顔も消えた。
「……やるの?」
カールは答えなかった。
「命令が来たら」
「まだ来ていない」
「来たら」
「……」
「カール」
昇降機の灯りが、灰色の髪を照らしている。
カールは前を向いたまま答えた。
「命令の内容による」
「エルネストを殺せ、だったら?」
「直接的だな」
「遠回しにしても意味ないでしょ」
「ないな」
「じゃあ?」
カールはしばらく黙っていた。
「受ける」
アナスタシアは目を閉じた。
「そっか」
「反対か」
「もちろん」
「国家の判断でも?」
「国家の判断だから何でも賛成するほど、私いい子じゃないもの」
「そうか」
「でも」
目を開く。
「分かるのよ」
それが一番嫌だった。
「四対二は怖い。あの子が悪くなくても怖い。帝国が明日攻めてこなくても、十年後どうなるか分からない」
「ああ」
「私たち二人が死んだら終わりだし、片方だけになってもほぼ終わり」
「そうだな」
「だから先に一人減らす」
「……」
「理屈は分かる」
アナスタシアが壁に寄りかかる。
「分かるから嫌なのよ」
カールが横目で見る。
「分からない悪意なら怒ればいい。馬鹿だって言えばいい。でも、これ、怖がってるだけじゃない」
「共和国は生き残ろうとしている」
「そう」
彼女は小さく息を吐いた。
「帝国だって同じなんでしょうね」
「おそらく」
「だったら、みんな自分の国を守ろうとして、最後には星を壊す」
「……」
「馬鹿みたい」
「そうだな」
「否定してよ」
「できん」
「真面目すぎ」
昇降機が止まる。
扉が開く。
だが。
アナスタシアはすぐには出なかった。
「ねえ、カール」
「何だ」
「もし行くなら」
「まだ決まっていない」
「分かってる。もしよ」
いつもの軽さを。
無理に。
声へ戻す。
「ちゃんと帰ってきて」
カールが彼女を見る。
「お前がそう言うのは珍しいな」
「たまにはね」
「俺が負けると思うか?」
「思ってる」
「即答か」
「相手、破軍よ?」
「知っている」
「私、あのお爺さん嫌いじゃないのよね」
「会えば毎回喧嘩しているだろう」
「喧嘩できる相手って貴重よ」
「向こうも迷惑している」
「照れてるだけ」
「七十四歳の元帥を何だと思ってる」
「面倒くさいお爺ちゃん」
「……共和国の外交担当が泣くぞ」
アナスタシアはようやく少し笑った。
「だからさ」
昇降機を降りる。
「殺したくないのよ」
カールはその背中を見ていた。
「だが」
アナスタシアが止まる。
「殺されるのも嫌」
「……」
「私も。あなたも。家族も。共和国の知らない誰かも」
振り返らないまま。
「だから嫌なの」
カールは何も言えなかった。
*
リナが学院へ通い始めて二日目の午後。
帝国中央魔法学院。
「リナ」
「はい」
「これは何ですか」
「魔力球です」
「では、なぜ天井に刺さっているのですか」
「勢いがよかったから?」
「疑問形にしない」
魔法基礎の教師は天井へめり込んだ訓練球を見上げていた。昨日とは別の球である。
「昨日よりは低いです」
リナが言った。
「褒めるべきでしょうか」
「ちょっとだけ?」
「駄目です」
「えー」
「でも」
教師は少しだけ口元を緩めた。
「昨日より、魔力量を減らそうとはしていましたね」
リナの顔が明るくなる。
「分かった?」
「教師ですから」
「やった」
「ただし天井は修理です」
「はい……」
隣でカイルが肩を震わせていた。
「笑うな」
「笑ってない」
「昨日からそれみんな言う!」
「だって特級が訓練球で苦戦してるとか、誰が思うんだよ」
「特級と球浮かせるのは別だもん」
「それ、結構大事なこと言ってない?」
「そう?」
授業終了の鐘が鳴った。教師が手を叩く。
「今日はここまで。リナさんは壊した天井の修理申請書を書く練習もしておきましょう」
「なんで!?」
「帝国語の勉強にもなります」
「先生!」
「良い案ですね」
「味方がいない!」
教室が笑った。
昨日より、リナを怖がる笑いではなかった。
*
放課後。
校門の前に見覚えのある老人が立っていた。
「あ」
リナが目を丸くする。
「お爺ちゃん!」
周囲の生徒が一斉に止まった。
エルネスト・バルト。
帝国第一特級。
元帥。
《破軍》。
その人物へ。
初等部五年生が。
手を振っている。
「おーう」
エルネストも普通に手を上げた。
周囲がさらに固まった。
カイルがリナの袖を引く。
「お前、ほんとにお爺ちゃんって呼んでるのかよ……」
「そうだよ」
「元帥だぞ」
「知ってる」
「破軍だぞ」
「それも知ってる」
「怖くないの?」
リナはエルネストを見る。老人は校門の警備員と何か話している。
「怖くないよ」
「なんで?」
「笑うから」
「基準それ?」
「あと謝れる」
「何があったんだよ」
「父ちゃんに嫌なこと言って、ちゃんと謝った」
カイルは少し考えた。
「……じゃあ、まあ」
「ね?」
「いや、破軍だけど」
「おーい、虚空」
遠くからエルネストが呼ぶ。
リナの顔が少し変わった。
「それ私?」
「他におらんだろ」
「リナでいいよー」
「はっはっは! ではリナ!」
ニカッ。
「うん!」
エルネストが近づいてくる。
「学校はどうじゃ」
「楽しい」
「そうか」
「帝国語難しい」
「知らん」
「お爺ちゃん勉強できる?」
「儂を誰だと思っとる」
「破軍」
「そこだけ素直じゃな」
カイルは隣で直立していた。
「そっちの坊主は」
「カイル」
「リナ!」
カイルが小声で叫ぶ。
「何?」
「僕が名乗るところだろ!」
「あ、そうなの?」
「そうだよ!」
エルネストが笑う。
「友達か」
「うん」
即答だった。
カイルが少し照れた。
「……まあ」
「何じゃ」
「はい。友人です」
「そうか」
エルネストは、なぜか、少し嬉しそうだった。
「それはよかった」
*
「お爺ちゃん、なんで学校にいるの?」
二人で学院内の庭を歩きながらリナが聞いた。
「仕事のついでじゃ」
「元帥の?」
「そうじゃ」
「戦争?」
「まあ、そんなところじゃな」
リナは少し黙った。
「戦争するの?」
エルネストが見る。
「どうしてそう思った」
「共和国が怖がってるって、ニュースで見た」
「ほう」
「私が増えたから」
「……」
「四人になったから」
エルネストは歩く速度を少し落とした。
十歳。
だが。
何も分からない子供ではない。
「そうじゃな」
「私が特級にならなかったら、怖がらなかった?」
「それは違う」
「でも」
「リナ」
老人が止まる。
「お前が生まれたことと、国が何をするかは別じゃ」
「……」
「力があることも同じじゃ」
「でも私が四人目だから」
「だから何じゃ」
「え?」
エルネストは少し荒っぽい声で言った。
「共和国が怖がる。帝国が喜ぶ。軍人が計算する。政治家が悩む。それは全部、大人の仕事じゃ」
「……」
「十歳の子供が『私が生まれたせいかな』なんぞ考えるな」
「でも」
「考えるなとは言ったが、考えちまうのは仕方ない」
「どっち?」
「難しいのう」
リナが少し笑った。
エルネストも笑う。
「ただな」
「うん」
「責任と原因は違う」
リナは首を傾げる。
「私が原因?」
「一つのきっかけにはなっとる」
「リューベックも?」
エルネストの顔から、少し笑みが消えた。
「ああ。あの国が怖がった理由の一つは、お前の存在じゃ」
「じゃあゴル爺が死んだのも」
「そこを混ぜるな」
老人の声が強くなる。
「お前が生きとったから連中が来た。そこまでは原因の話じゃ。十歳の子を攫おうと決めたのは、リューベックの大人じゃ。老人を押しのけて殺したのも、兵士の行動じゃ」
「……」
「お前が自分に全部背負わせたら、決めた奴らが楽になるだけじゃぞ」
リナは唇を噛んだ。
「じゃあ」
「どう動くかを決めるのは共和国の大人じゃ。どう返すか決めるのは帝国の大人じゃ」
老人は少し先の木を見る。
「儂も、その大人の一人じゃ」
「お爺ちゃんも?」
「ああ」
「大変?」
「大変じゃ」
「特級なのに?」
「特級だからじゃ」
リナはその言葉を少し考えた。
「じゃあ私も大変?」
「そのうちな」
「今は?」
「学校行っとれ」
「いいの?」
「儂らが何のためにおると思っとる」
エルネストは大きな手で、リナの頭を軽く叩いた。
「子供一人学校へ行かせられんほど、帝国の大人は弱くない」
リナはサイラスを思い出した。
「サイラス先生も似たこと言いそう」
「はっはっは。まだ先生と呼んどるのか」
「うん。本人は嫌がるけど」
「あいつも、まだ諦めとらんのか」
エルネストは楽しそうに笑った。
「今度会ったら、儂も先生と呼んでやろう」
「怒るかな」
「怒る」
「じゃあやろ」
「悪い子じゃのう」
「お爺ちゃんもでしょ」
「違いない」
*
しばらく歩いて、リナが言った。
「お爺ちゃん」
「何じゃ」
「破軍って、どんな魔法?」
「儂のか」
「うん」
エルネストは少し考えた。
「派手じゃぞ」
「見たい!」
「ここでは無理じゃ」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも学院がなくなる」
「えっ」
「冗談半分じゃ」
「半分本当なんだ……」
「儂が得意なのは、難しいことではない」
老人は手のひらを開く。
「ただ撃つ」
「……それだけ?」
「それだけじゃ」
「火?」
「違う」
「雷?」
「違う」
「光?」
「白冠じゃあるまいし」
「じゃあ何?」
「魔力」
「そのまま?」
「そのまま」
リナの目が少し大きくなる。
「儂はな、細かいことが苦手じゃ」
「私も」
「お前と一緒にするな」
「えー」
「儂は魔力を大量に集めて、大量に撃つ。それだけを、ずっと磨いてきた」
「それで破軍?」
「ああ」
「軍隊壊せるから?」
「昔な」
エルネストは少し懐かしそうに笑った。
「まだ儂が若かった頃、敵の大艦隊を一撃で戦闘不能にしたことがある」
「全部殺したの?」
リナの問いに、エルネストの表情が少し変わった。
「いいや」
「そうなの?」
「艦だけ壊した」
「どうやって?」
「当たる場所を選んだ」
「細かいこと苦手なんじゃないの?」
「そこは頑張った」
リナがニカッと笑う。
「お爺ちゃん、偉い」
「子供に褒められたわ」
「でもなんで?」
「何が」
「敵なのに」
エルネストはしばらく答えなかった。
「昔は」
ようやく言う。
「儂も、強ければ全部解決できると思っとった」
リナは黙って聞く。
「敵を倒せば終わり。もっと強ければ、もっと早く終わる。そう思っとった」
「違った?」
「全然違った」
老人は遠くを見る。
「敵を一万人殺せば、一万人ぶん家族がおる」
「……」
「街を一つ潰せば、戦争が終わった後も誰かが困る」
「うん」
「勝つだけなら簡単な時もある」
破軍と呼ばれる男は静かに言った。
「勝ったあとまで考えるのが難しい」
リナは認定試験で消した黒い球を思い出した。
その前に、自分でも分からないまま消した、リューベックの艦隊を思い出した。
邪魔だと思っただけではない。
あの時は。
いなくなれ、と。
本当に思った。
「私も」
「ん?」
「消せる」
「ああ」
「たぶん、すごくいっぱい」
「ああ」
「前に、いっぱい消した」
「知っとる」
「怖いね」
エルネストは。
すぐには。
大丈夫だとは言わなかった。
「怖がっとけ」
「え?」
「その方がいい」
「怖くない方が強いんじゃないの?」
「逆じゃ」
エルネストは笑った。
「自分が怖くなくなった特級なんぞ、儂は信用せん」
リナは。
少し目を丸くして。
それから。
「じゃあお爺ちゃんも怖い?」
「ああ」
「何が?」
「儂自身じゃ」
「……」
「四十年くらいずっとな」
「長っ」
「そこは驚くところか?」
「私まだ十年だよ?」
「そうじゃった」
エルネストは笑った。
「なら、これからじゃな」
*
共和国。
夕方。
「はい、これ」
アナスタシアが皿を押した。
カールが見る。
「何だ」
「ケーキ」
「見れば分かる」
「食べなさい」
「俺が頼んだものではない」
「甘いもの好きでしょ」
「お前ほどではない」
「いいから」
カールは仕方なく一口食べた。
「……甘い」
「ケーキだからね」
「知っている」
「おいしい?」
「普通だ」
「素直じゃないわねえ」
アナスタシアは自分の皿をつつく。
結局、二人で店へ来ていた。
窓の外では共和国首都の街が光っている。
車。
人。
家族。
学生。
仕事帰りの大人。
いつもの暮らし。
「カール」
「何だ」
「家、帰った?」
「昨日な」
「子供たちは?」
「元気だ」
「奥さんは?」
「お前に聞かれたくないと言っていた」
「なんで!?」
「前回、酒を飲ませすぎたからだ」
「楽しかったじゃない」
「翌日死んでいた」
「生きてるでしょ」
「比喩だ」
「真面目ねえ」
アナスタシアは笑う。
そして。
窓の外を見る。
「……守りたい?」
「何を」
「全部」
カールも外を見る。
「無理な質問だ」
「でしょうね」
「だが」
一拍置く。
「守れる範囲なら」
「うん」
「守る」
「そっか」
アナスタシアはまたケーキを一口食べる。
「私も」
それから。
冗談めかして。
「だから死なないでね」
「まだその話か」
「大事だから」
「お前もだ」
「え?」
「俺にだけ言うな」
アナスタシアが。
少しだけ。
驚いた顔をした。
そして。
笑った。
「了解」
その笑顔はいつもの軽いものだった。
でも。
カールは知っていた。
この女が。
本当に怖いときほど。
よく笑うことを。
*
その夜。
帝国第一特級エルネスト・バルトのもとへ、一通の軍務命令が届いた。
内容は共和国国境方面への配置変更。
まだ。
戦闘命令ではない。
ただの。
抑止配置。
いつものこと。
長い年月、何度も繰り返してきた仕事。
エルネストは命令書を閉じた。
「やれやれ」
机の上には学院でリナからもらったものがあった。
小さな包み。
中身は昼食に出た焼き菓子を一つ。
『お爺ちゃんも食べる?』
そう言って。
半分ではなく。
一個まるごとくれた。
「食い意地の張った奴が珍しい」
エルネストは菓子を一口食べた。
「……甘いのう」
遠く離れた共和国では、《断界》カール・ノイマンのもとにも、同じ頃、一通の命令書が届けられていた。
共和国西方宙域。
警戒配置変更。
こちらも。
まだ。
戦闘命令ではなかった。
二人の特級が。
互いに。
相手のいる方向へ。
少しだけ。
近づいた。




