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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第2章 友達になったばかりの雨。
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第8話 雨巫女、辞めちゃおうよ。

 翌日は天気予報通り、よく晴れていた。

 まひるが神社へ向かうころには、昨日の雨の跡はほとんど乾いていた。

 石段の端にはまだ薄く湿った色が残っていたけれど、空は青く染まっている。

 昨日の夜の湿った風を思い出すと、同じ場所の空とは思えなかった。

 この島の晴れは、日差しが強くて眩しいんだなと思った。


 秋雨(あきさめ)は石段の途中で待っていた。

 白い半袖のブラウスに、紺色のスカート。

 髪は下ろしたままだったけれど、手首には細い紐のようなものを巻いていた。

 まひるが近づくと、秋雨は肩の力を抜いた。


「まひるちゃん」

「秋雨ちゃん。おはよ」

「おはよう。昨日は動画ありがとう」

「どういたしまして。そんなに気に入った?」

「うん。友達とこういう動画撮るの、ちょっとだけ憧れてたから」


 秋雨が口元をほころばせながら言うと、まひるも同じように笑った。

 けれど、その声は昨日の朝ほどは軽くなかった。

 境内には人の気配がある。

 社務所の方で誰かが戸を開ける音がして、遠くから祭りの準備らしい話し声も聞こえてきた。

 秋雨は一度そちらを見てから、まひるに向き直った。


「午後の準備までなら、少し話せるよ」

「うん。ありがと」


 二人は木陰に移動し、ほとんど乾いているベンチに座った。


「……私、昨日、変なこと言ったよね」


 まひるは、すぐには頷かなかった。

 昨日の夜、スマホの画面に並んだ秋雨の言葉を思い出す。


『動画の中の私と、雨が降ったあとの私が、別の人みたいに思えて』

『変なことを言いましたか?』


 まひるがすぐに「大丈夫」と返すには、秋雨の言葉は引っかかりすぎていた。

 だから、まひるは引っかかりを外さなくてもいい、別の方法を考えてきていた。


「秋雨ちゃんが変なこと言うなら、わたしも変なこと聞く」

「……どうして?」

「片方だけ失敗したみたいになるの、嫌じゃん」

「失敗だったのかな」

「うーん、わかんない。わたしは失敗じゃないと思うけど」


 境内の奥から、祭りの準備をする音が聞こえてくる。

 その音が一度途切れても、秋雨は何も言わなかった。

 だから、まひるは先に声を出した。


「昨日の雨のとき、秋雨ちゃんは泣いたの?」

「うん」

「泣かないと、降らないの?」

「たぶん、降らないと思う。私も、全部を知ってるわけじゃないけど」


 秋雨は石段の端を見た。

 そこには、昨日の雨が乾ききらずに残した薄い跡がある。


「でも、お役目のときは、そうすることになってる。泣いて、雨が降るのを待つ」

「……大変じゃないの?」

「大変だと、思う。けど、自分のことだからわからなくて」


 秋雨はブラウスの袖を指先でつまんだ。

 すぐに離したけれど、言葉はそこで一度止まった。


「小さい頃からそうだったから。雨巫女は雨が降るために泣くものだって、ずっとそうだった。つらい日もあるけど、そういうものなんだって思ってた」

「今は?」

「今も、そう思ってるところはあるよ。でも昨日の夜、まひるちゃんとの動画を見たら、なんだか変な感じがしたの」


 まひるは、秋雨の話に頷きながら耳を傾けていた。


「朝の私は、まひるちゃんと並んで笑ってたでしょ。でも、そのあとお役目に行って、泣いて、雨が降るのを待っていたの」

「……うん」

「どっちも同じ私なのに、うまく繋がらなくて」


 まひるは、昨日の動画を思い出す。

 まひると秋雨が並んで、思い出一日目記念日なんて変な言葉を重ねて、数秒後には笑っている。

 あれが、本当の秋雨なのだと、まひるには思えた。

 雨巫女さまと呼ばれて泣きに行く秋雨より、昨日の朝、隣で笑っていた秋雨の方がずっと本物に見えた。


「嫌だった?」


 風が止んだ。

 境内の物音が、急に近くに聞こえてきた。


「嫌だけじゃないよ。雨が降るとみんな安心する。昨日もありがとうって言ってもらえた」

「うん」

「だけどね」


 秋雨の手が、白と青の二色で結ばれた手首の紐に触れた。

 それは、雨巫女が持つお守りのようなものだった。

 ほどくわけでもなく、ただそこにあることを確かめるように、指先でなぞる。


「泣くところ。祭りが近くなると、みんなが私を見る目が変わるところ。秋雨ちゃんじゃなくて、雨巫女さまになるところ。泣いてくれるって、思われているところ」


 秋雨の声は静かだった。

 静かなぶん、まひるの中に深く入ってくる。

 一つひとつの言葉が、まひるの中に雨巫女というおぼろげな輪郭を鮮明に変えていく。


「悪い人はいないんだよ。みんな優しい。心配もしてくれる。終わったあとには労わってくれる」

「うん」

「だから、嫌だけじゃないんだよ」

「でもさ、泣かなきゃいけないんでしょ」

「……うん。もし、まひるちゃんみたいに、普通の女の子だったら泣かなくてもよかったのかな」


 まひるの手に、力が入った。

 昨日の夜、窓に当たる雨粒が涙みたいに見えたことを思い出す。

 同じ年頃の女の子が泣くことで、雨が降る。

 それは、やっぱり納得できることじゃなかった。

 まひるは無意識に触っていた髪の毛の先から指を離し、自分の両手を強く握った。


「じゃあ、雨巫女、辞めちゃおうよ」


 言ってから、まひるは自分の声が思ったより大きかったことに気づいた。

 秋雨の指が、手首の紐に触れたまま止まる。

 顔が上がり、まひるの目を見据える。

 まひるは境内の奥から聞こえていた物音が、一瞬遠くなったように感じた。


「……え」

「あ、いや、辞めるっていうか。引退? 卒業? 普通の女の子に戻ります、的な?」


 秋雨は答えなかった。

 まひるは両手を小さく振った。


「違う違う。秋雨ちゃんが普通じゃないって意味じゃない。そうじゃなくて、泣かなくていい方っていうか、そういう……」


 言葉の先が、うまく続かない。

 けれど、秋雨が泣かなくていい方があるなら、そっちがいいと思った。

 今のまひるは、それが一番伝えたい言葉だった。


 秋雨はすぐには返事をしなかった。

 まひるの言葉だけが、二人の間に残った。


「そんなの、あるのかな」

「分かんないけど……」

「分かんないのに、辞めちゃおうよって言ったの?」


 秋雨の声は責めているわけではなかった。

 だから余計に、まひるの言葉が急に軽くなってしまった。

 勢いだけで、秋雨が大事にしてきた場所へ踏み込んだ。

 まひるの手がスカートの裾を握りしめる。


「……ごめん、無責任だったよね」


 まひるは、小さく言葉を零した。


「でもね、泣かなくていいなら、そっちの方がいいと思ったんだ」


 秋雨はすぐには答えなかった。

 木槌で何かを打つ音。

 神社の内側から外の人を呼ぶ声。

 初夏の、風が草木をそよぐ音。

 そのどれもが、秋雨の返事を待っている間だけ、遠く聞こえた。


「……辞めたいって思ったこと、あるよ」

「あったんだ」

「小さい頃ね。泣くのが嫌で、もうやだって思った」

「うん」

「でも、辞められるとか考えたことなかった」

「……そっか」

「雨巫女は、そういうのが当たり前だって思ってたから」


 秋雨は手首の紐から指を離した。

 けれど、まひるには、その紐の感触がまだ秋雨の指先に残っているように見えた。


「だからね、まひるちゃんに辞めちゃおうよって言われて、びっくりした。冷たい汗も出た」

「言い方、軽かったよね。ごめん」

「ちょっと軽すぎたね」

「うん……」

「でも、嫌じゃなかったんだ。そんなふうに言われたこと、なかったから」


 まひるの指が、スカートの裾から離れた。

 秋雨は逃げずに、まひるの方を向いた。


「今の私が本当にどうしたいのかは、まだ分からない」

「うん」

「そもそも辞められるものなのかどうかも、分からない」

「うん」

「でもね、泣かなくていい方があるなら。そう言ってくれたの、うれしかった」

「……そっか、よかった」


 まひるは頷いた。そして、あっ! と、声を上げた。

 秋雨はびっくりして、肩を震わせた。

 まひるの胸の奥のむずむずが形を持っていた。


「じゃあさ、探そうよ」

「探す?」

「雨巫女って、辞められるものなのかどうか」


 秋雨は手首の紐を見た。


「……知ったら、変わるのかな」

「分かんない。でも、知らないままだと、何も選べないじゃん」

「選ぶ」

「うん。秋雨ちゃんがどうするか」

「私が」

「そう。秋雨ちゃんが、どうしたいか」


 秋雨は手首の紐を見たまま、しばらく動かなかった。

 社務所の方で、誰かが木材を置く音がした。


「……まひるちゃん、急に話を進めるね」

「だって進めないと同じところぐるぐるしそうじゃん」

「でも、まひるちゃんは何にも知らないんだよ」

「そうだよ。だから調べるんじゃん」


 秋雨はまひるの言葉に、きょとんとした顔で返した。

 それを見て、まひるの肩からも力が抜けた。


「……雨巫女のこと、ちゃんと知れば分かるのかな」

「歴史とか、伝承とか、儀式とか、そういうやつ?」

「うん。昔の雨巫女のこととか、神社のこととか、そもそもの成り立ちとか。私、知ってるつもりだったけど、辞められるかどうかなんて考えたことなかったから」


 まひるは立ち上がった。

 木漏れ日の下に一歩出て、秋雨を振り返る。


「秋雨ちゃん、一緒に調べようよ!」

「でも、どうやって?」

「うーんと……秋雨ちゃんが知ってる、雨巫女に関係のある場所を案内してほしいな」

「特に辞められそうな場所はないけど……」

「でも、今見たら違うかもじゃん? 雨巫女を辞める鍵があるかどうか、探索しようよ」


 言ってから、まひるはポーチの紐を指でいじった。

 自分で口にしておいて、探索は大げさだった。

 でも、秋雨は笑わなかった。

 ただ、ゆっくり頷いた。


「分かった。じゃあ、明日なら歩けると思う」

「ほんと?」

「うん。午前中なら。午後は準備があるけど」

「じゃあ、明日」

「うん。明日」


 約束をした途端、まひるは明日の朝を考えていた。

 雨巫女を辞める方法があったとして、秋雨がそれを選びたいと思うのか。

 まだ何も分からない。

 でも、昨日の夜みたいに、一人で考えるよりずっといいと思った。


 社務所の方から、また秋雨を呼ぶ声がした。

 秋雨は振り返り、それからまひるを見る。


「そろそろ行かないと」

「うん。準備、頑張って」

「ありがとう」

「……今日は泣くやつじゃない?」

「今日は準備だけ」

「そっか」

「心配してくれてるの?」

「してるよ。友達だし」


 まひるが当然のように言うと、秋雨は返事をしないまま静かに笑った。

 そして、その頬は、ほのかに赤く染まっていた。


「まひるちゃん。また、明日」

「うん、また明日ね」


 秋雨はベンチから立ち上がり、駆け足で社務所の方へ向かった。

 秋雨が泣かなくていい方が本当にあるのかはわからない。

 けれど、まひるは秋雨に泣いてほしくない。

 それだけは、わかっていた。

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