第7話 普通の女の子、秋雨ちゃん。
翌朝、まひるはいつもより少し早く目が覚めた。
身体を起こして宿の窓の外を見ると、空は晴れていた。
遠くの海が朝の光を受けて、白くきらきらしている。
昨日の雨が嘘みたいだった。
まひるはもう一度布団の中に戻り、しばらく天井を見ていた。
振り返るのは、雨の神社。
白に近い淡い色の着物を着た秋雨。
――外の世界って、どんな感じなんですか。
澄んだ声が、まだ耳の奥に残っている。
それから、少し照れたように交換したメッセージアプリ。
画面には、秋雨の名前がある。
「友達に、なったんだ」
昨日、そういうことになった。
そう思った瞬間、まひるは布団の中で少しだけ足を動かした。
別に、浮かれているわけではない。
ただ、今日は秋雨と朝から会う約束をしている。
祭りの準備が近いから、長い時間は無理だと聞いている。
それでも会えることに変わりはない。
だから、早く目が覚めただけだ。
荷物の中から服を選ぶ。
昨日は挨拶があったから制服だった。
けれど今日は、神社に行くだけだ。
かしこまりすぎる必要はない。
白いTシャツの上に、日除け用の薄い羽織を引っかける。
下は膝丈のスカート。肩からは、折り畳み傘とスマホが入るポーチ。
鏡の前に立って、まひるは少しだけ首を傾げた。
「変じゃないよね」
神社に行くだけなのに、何枚も荷物から服を出して選んだ。
そのことに気づいて、まひるは鏡の中の自分から目を逸らす。
別に、秋雨ちゃんに見せるためじゃない。おしゃれって普通のことだ。
「それにまあ……暑いし」
誰に聞かせるでもなく言い訳して、まひるはスマホをポケットに入れた。
◆
朝食を終えると、母は仕事用の鞄を確認しながら言った。
「今日は秋雨さんと会うんだったわね」
「うん。でも、少しだけ。お祭りの準備で忙しいんだって」
「そう。なら、あまり引き止めないようにね」
「分かってる」
「写真を撮る時は、相手に確認すること。神社の中には、撮っていい場所と駄目な場所があるかもしれないから」
「それも分かってるって」
「ならいいわ。気を付けて」
母はそれ以上言わなかった。
まひるは靴を履きながら、少しだけ口を尖らせる。
親だから、正論で釘を刺す。そんなことは分かっている。
でも、やっぱり面白くない。
まひるは反発する自分が子供っぽくて、それも面白くなかった。
けれど、玄関を出ると、朝の空気がふわりと肌に触れた。
昨日の雨がまだ地面に残っている。
風に乗ってやってきた土と草の匂いが、胸の中のもやもやを少しだけ薄めた。
まひるはポーチを肩にかけ直し、神社へ向かった。
◆
石段の下まで来ると、既にそこにいた秋雨がまひるに手を振った。
黒い髪は下ろしたまま、薄い水色のTシャツに色の薄いジーンズ。
足元は歩きやすそうなスニーカーだった。
昨日の白い着物姿とは全然違う。
(なんだか、普通の子みたいだ)
昨日の秋雨は、雨の神社に立っている姿が様になっていた。
まるで、物語の中から出てきた人みたいだった。
けれど今日の秋雨は、自分と同じ年頃の普通の女の子に見える。
普通の服を着て、普通に石段の下で待っている。
それだけで、まひるは少しだけ胸の奥がくすぐったくなった。
「まひるちゃん」
まひるに気付いた秋雨が、こちらに近づいてくる。
「秋雨ちゃん。おはよ」
「おはよう」
「待たせちゃった?」
「ううん。私も今来たところ」
「それ、待ってた人が言うやつじゃない?」
「本当に今来たんだよ」
秋雨が真面目な顔で言うので、まひるは笑った。
そして、改めて秋雨の服装を見る。
「……今日、普通の服なんだ」
「まるで昨日が普通じゃなかったみたいだね」
「いや、昨日は普通じゃなかったでしょ。雨巫女さまだったじゃん」
「雨巫女さまって言わないで」
秋雨が困ったように眉を寄せる。
その反応が昨日より自然体で、まひるはまた少し笑ってしまった。
「ごめんごめん。秋雨ちゃん」
「うん、秋雨ちゃんがいい」
表情が明るくなった秋雨はそう言ってから、今度はまひるを見た。
視線が羽織からスカートへ、それからまた顔へ戻ってくる。
「まひるちゃんも、今日は制服じゃないんだね」
「そりゃ、夏休みだし。昨日は挨拶があったから制服だっただけ」
「うん。なんだか、かわいいね」
「……え?」
まひるは目を開いて、閉じて、自分の服を見下ろした。
「な、なに急に」
「え? 似合ってると思ったから」
「秋雨ちゃん、そういうこと急に言う人なんだ」
「言わない方がよかった?」
「そうじゃなくて……急だから」
「そっか。じゃあ、急に言ってごめんね」
「謝るところでもないんだけど」
「まひるちゃん、言ってもいい?」
「なにを?」
「かわいいって」
「いやそれ質問した時点で会話終わってるじゃん!」
まひるは照れくさくなってきて、羽織の裾を指先で少しだけつまんだ。
視線を秋雨の足元に逸らし、気持ちの置き場を探す。
まひるは別に、褒められ慣れていないわけではない。
けれど秋雨にそう言われると、なぜか目線を下げたくなる。
秋雨は不思議そうにまひるを見ていた。
本当に、ただ思ったことを言っただけらしい。
「……今日は、あんまり長くいられなくてごめんね」
秋雨が少しだけ声を落とした。
あまりに真剣な声だったので、まひるが顔をあげた。
「お祭りの準備?」
「うん。それと、午後に少しお役目があるから」
「……雨、降らせるの?」
「うん。少しだけ降ると思う」
秋雨は、それが普通のことみたいに頷いた。
さっきまで普通の服を着て、普通の女の子みたいに笑っていたのに。
その口から、お役目という言葉が出る違和感が拭えなかった。
「そっか。忙しいなら、無理しなくていいよ」
「ううん。まひるちゃんに会いたかったから」
「……秋雨ちゃん、むず痒いことばっかだね」
「そうなの?」
「そうだよ」
まひるは咳払いをして、スマホを取り出した。
「じゃあ、短い時間でちゃんと撮らないとね」
「撮ってくれるの?」
「撮っていい場所なら。あと、秋雨ちゃんが嫌じゃなければ」
「私は嫌じゃないよ。でも、神社周りは確認させてね」
「了解!」
二人は石段を上った。
晴れた日の神社は、昨日とは全然違って見えた。
雨に濡れて暗く沈んでいた石畳は、朝の光を受けて淡く光っている。
木々の葉にはまだ雫が残っていて、風が吹くたびに小さくきらめいていた。
境内についたまひるは、スマホのカメラを構える。
石灯籠の上に溜まった水。社殿の軒先からぽたりと落ちる雫。雨上がりのまだ湿った石段。
昨日は見えていなかったものが、今日はたくさん見える。
どこにシャッターを切ろうか考えていると、秋雨が少し後ろから覗き込んできた。
「雨上がりだと違う?」
「うん。昨日の雨の神社は神秘的だったけど、雨上がりの朝の神社はなんか懐かしい感じがする」
「そうなんだ。ねね、もしまだ撮らないなら、昨日の写真を見せてほしいな」
「いいよ」
まひるは昨日撮った写真を開いた。
雨の中の社殿。濡れた石畳。
淡い着物の秋雨――は、正面からは撮っていない。
ただ、画面の端に少しだけ白い袖が写っている写真があった。
まひるはその写真で指を止めかけて、すぐ別の写真に送った。
なんとなく、見せるのが恥ずかしかった。
秋雨はそれに気づいた様子もなく、画面をじっと見ている。
「これ、そのまま?」
「ううん、少しだけ明るくしてある。昨日の雨だと、思ったより暗くて見えなかったから」
「そういうのもするんだ」
「たまーにね。でも、あんまり変えすぎるのは好きじゃないかな。私が見たのと違っちゃう気がするから」
「まひるちゃんは、見たものを残したいんだね」
言葉にされると、少し照れくさい。
まひるがスマホの画面を消しかけたとき、秋雨がまだ見たそうにしていることに気づいた。
「もっと見る?」
「いいの? まひるちゃんが撮る時間、なくならない?」
「いいよ。そんな何十枚と撮りたいわけじゃないし」
それならと、秋雨は画面を覗き込む。
まひるは昨日の帰り道に撮った写真を何枚か見せた。
ベンチの横にあった苔むした岩。宿の窓から見えた屋根。雨で滲んだ街灯。
どれも、まひるにとっては特別な写真ではない。
けれど秋雨は、ひとつひとつを丁寧に見ていた。
「私――これが見たかったのかも」
「これ?」
「うん。まひるちゃんが何を見て、何を撮ろうと思ったのか」
まひるは胸の奥が熱くなる。
写真がうまいと言われたわけではない。
綺麗だと褒められたわけでもない。
でも、秋雨は写真の中の景色ではなく、まひるがそれを見たことに興味を持っている。
それが、まひるは想定外に嬉しかった。
「……秋雨ちゃんって、やっぱりそういうところあるよね」
「もしかして嫌だった?」
「ううん、全然そんなことはないよ。ただ」
「ただ?」
「ちょっと、照れてしまうってやつ」
照れくさそうに笑うまひるに対し、秋雨は意味が分からないといった様子だった。
まひるはそれ以上説明せず、スマホを持ち直した。
写真をスライドさせていく途中、秋雨が閃いたように口を開いた。
「そういえば、まひるちゃん。動画は撮らないの?」
「動画? 撮らないかな」
「どうして?」
「どうしてって……写真の方が好きだから。動画って、黙ってると長そうじゃない?」
「長いと駄目なの?」
「駄目じゃないけど……私は、その時に気になったところだけ残したいっていうか」
まひるがしどろもどろにそう言うと、秋雨は少しだけ考え込んだ。
それから、ぱっと顔を上げて、まひるとの距離を詰める。
「じゃあ、私と一緒に撮らない?」
「……なんで?」
思ったより近い距離で言われて、まひるは一歩だけ身を引いた。
秋雨は真面目な顔をしている。
「思い出一日目記念日」
「なにそれ」
「まひるちゃんと友達になって、一日目だから」
「昨日が一日目じゃないの?」
「昨日は初日だからゼロ日目じゃない?」
「そういう数え方なんだ」
「別に何日目でもいいの。私は、まひるちゃんと動画が撮りたいなって思ったんだ」
「……撮ってどうするの?」
「どうもしない。まひるちゃんと同じ。なんとなく、撮りたくなったの」
「そっか」
まひるはスマホをインカメラに切り替えた。
画面の中に、まひると秋雨が並ぶ。
まひるの方が背が低い。
秋雨の髪が、画面の端でさらりと揺れる。
昨日までスマホの画面にいたのは、まひるが見た景色だけだった。
今日はそこに、秋雨と並んでいる。
そのことが、少しだけ不思議だった。
「えっと、何言えばいいの?」
「思い出一日目記念日」
「それ言うの?」
「他になんて言うの?」
「……それでいっか」
録画ボタンを押す。
まひるは画面を見ながら、少しだけ息を吸った。
「まひると」
「秋雨の」
「「思い出一日目記念日」」
言い終わったあと、二人とも少し黙った。
数秒の沈黙のあと、どちらともなく笑ってしまった。
録画を止め、まひるはすぐに再生する。
画面の中の二人は、少しぎこちない。
たった一言だけの短い、数秒の動画。
けれど、ちゃんと並んでいる。
一緒に笑った声が残っている。
秋雨はそれを見て、嬉しそうに微笑んだ。
そのあと、もう一度、画面の中の自分をじっと見た。
何か言いかけたように唇が動いて、けれど秋雨はもう一度すぐに笑う。
「これ、ほしいな」
「いいよ。あとで送るね」
「ありがとう」
「別に、減るもんじゃないし」
「昨日も言ってたよね、それ」
「いくら使っても減らないからね」
まひるがそう言うと、秋雨は小さく笑った。
秋雨が笑顔になると、まひるは嬉しかった。
「秋雨ちゃん」
境内の奥から声がした。
まひるが顔を向けるより早く、秋雨が少し背筋を伸ばす。
社務所の方から、年配の女性がこちらを見ていた。
声を荒げているわけではない。
ただ、秋雨を呼んだだけだった。
それだけで、秋雨の表情が友達の顔から、別のものに変わった。
「ごめん。そろそろ行かないと」
「あ、うん。忙しいんだもんね」
「今度、ちゃんと案内するね」
「うん。約束」
秋雨は頷いた。
それから一度、まひるのスマホを見て、少しだけ笑う。
「動画、ほしいからね」
「分かってるって」
「ありがとう。じゃあ、またあとで」
秋雨はそう言って、社務所の方へ向かった。
水色のTシャツの背中が、朝の光の中で遠ざかっていく。
普通の服を着た、普通の女の子みたいな後ろ姿だった。
さっきまで、画面の中で一緒に笑っていた。
思い出一日目記念日なんて、変な名前の動画を撮って、二人で笑っていた。
その秋雨が、これからお役目に入る。
少しだけ雨が降る、と秋雨は言っていた。
まひるはスマホを胸の前で握ったまま、秋雨の背中が社務所の向こうに消えるまで見ていた。
晴れた空は、まだ青かった。
この青がこのあと灰色に変わるなんて、まひるには想像もつかなかった。
◆
昼を過ぎたころ、空の色が変わり始めた。
朝はあんなに晴れていたのに、宿の窓から見える海の上にはいつの間にか薄い灰色が広がっていた。
雲が流れてきた、というより、空そのものが色を失っていくようだった。
まひるは窓際に立って、しばらく外を見ていた。
風が湿っている。
朝、神社へ向かった時には、昨日の雨が地面に残っているだけだった。
土と草の匂いにも、朝の光が混ざっていた。
今は違う。
――少しだけ、雨が降る。
秋雨はそう言っていた。
朝、普通の女の子みたいに笑っていた秋雨が、当たり前のことみたいに。
まひるは窓に指先を添えた。
ガラスはまだ濡れていない。
スマホの天気予報には、太陽のマークが出ている。
けれど、もうすぐ降る。
まひるは、そう思った。
夕方になる前に、雨は降り始めた。
窓を叩くほど強い雨ではなかった。
屋根に落ち、庭の葉を濡らし、島の道の色を濃くしていく雨だった。
母は仕事用の資料を見ながら、窓の外に一度目を向けただけだった。
「降ってきたわね」
「うん」
「出かけるなら傘を持っていきなさい」
「出かけないよ」
まひるはそう答えて、口を閉じた。
雨が降ること自体は、別におかしくない。
この島にとって雨は大事なものなのだと、昨日から何度も聞いている。
必要な雨。大切な雨。ありがたい雨。
この島では、そういうものなのだろう。
けれど、まひるの頭には、朝の秋雨の姿が浮かんでいた。
薄い水色のTシャツ。色の薄いジーンズ。
思い出一日目記念日の動画で、少しぎこちなく笑った顔。
その秋雨が、この雨のどこかにいる。
そう思うと、窓に当たる雨粒まで涙みたいに見えた。
まひるは胸の奥がむずむずした。
同じ年頃の子を泣かせてまで雨を降らせる。
それが必要だとしても。
島の人たちにとって大切なことだとしても。
今のまひるは、素直に頷けなかった。
◆
夜、風呂から上がるころには、降り始めの雨の匂いは薄れていた。
廊下の窓から、湿った風だけが入ってくる。
まひるはタオルで髪の先を拭きながら、外を見た。
朝に見た青い空は、もうどこにもなかった。
まひるは部屋に戻ると、ベッドの上に座ってスマホを開いた。
朝に撮った動画が、画面の中にある。
再生すると、ほんの数秒だけ朝の神社が戻ってきた。
まひると秋雨が並んでいる。
少しぎこちない顔で、同じ言葉を言う。
『まひると』
『秋雨の』
『『思い出一日目記念日』』
そのあと、二人で笑っている。
たった数秒なのに、何度も見返してしまう。
画面の中の秋雨は、雨巫女さまではなかった。
まひるが今日会った、秋雨ちゃんだった。
まひるは動画を秋雨に送った。
送信済みの表示が出ると、すぐに既読がついた。
思ったより早くて、まひるは背筋を伸ばした。
しばらくして、秋雨から返信が来る。
『ありがとう』
『何回も見ちゃうね』
まひるは小さく笑った。
『そんなに見るもの?』
まひるは自分が何回も再生していたことを棚に上げる。
すぐに既読が付き、少し遅れて返事が来る。
『見ちゃうものだよ』
『まひるちゃんと普通に笑っているの、少し変な感じがする』
まひるの指が止まった。
『変?』
秋雨からの返事は、間が空いた。
『嫌な意味じゃないよ』
『今日、そのあとお役目だったから』
『動画の中の私と、雨が降ったあとの私が、別の人みたいに思えて』
まひるは画面を見つめていた。
秋雨の短いメッセージが届く。
『ごめんなさい』
『変なことを言いましたか?』
まひるはすぐに文字を打つも、送信ボタンの前で止まった。
変じゃないよ。そう、返そうとした。
でも、それだけで済ませていいのか分からなかった。
秋雨は、変なことを言ったわけじゃない。
画面の中で笑っていた秋雨と、雨の中にいる秋雨。
まひるの中でも、その二つはまだ重ならなかった。
だから、秋雨の言葉を変だとは思えなかった。
まひるはスマホを握り直した。
何を言えばいいのか分からなかった。
でも、しばらく迷っても、うまい言葉は出てこなかった。
だから、思ったことだけを伝えた。
『変じゃないよ』
『明日、会える?』
送ってから、心臓が少しだけ速く鳴った。
しばらくして、秋雨から返事が来る。
『少しなら』
『午後の準備の前なら会える』
まひるはすぐに返事を打った。
『じゃあ、その時にはなそ』
既読がつく。
今度はすぐに返事が来た。
『うん』
それだけだった。
まひるはスタンプを送って、スマホを伏せる。
ベッドに仰向けになると、まひるの目は自然と閉じた。
同年代の女の子が涙を流すことで雨が降る。
それは、まだ納得できることじゃない。
けれど、湿気た風が入る夜は、ひんやりして気持ちいいんだなと思った。




