第42話 雨上がりのお祭り
祭りの日は、予定より数日遅れてやってきた。
大雨の被害は、前から弱っていた場所だけが、押されて顔を出したのだと源一郎は言っていた。
古いロープ。水はけの悪い側溝。緩んでいた石垣の隙間。
新しい傷が増えたのではなく、見ないふりをしていたものが、雨で見えるようになっただけだった。
祭りが遅れた理由は、雨巫女さまがいなくなったあと、祭りをどう続けるのかだった。
毎年当たり前だった雨巫女さまの舞を、今年はどう扱うのか。
それがなかなか決まらなかったらしい。
けれど、決まってしまえば祭りは祭りだった。
雨巫女さまがいなくても祭りは、無事に始めることができた。
神社の前の道には、もう人が出ていた。
屋台からは湯気が上がり、焼いた魚や甘い餅の匂いが晴れた空気に広がっている。
乾いた石畳の上を、色とりどりの服とレインコートが行き交っていた。
でも、空は晴れていた。
島に来てから、こんなに明るい空を見たのは初めてかもしれない。
雲はあるが、白く薄く流れていくだけだった。
まひるは白い半袖シャツに紺のスカートを合わせていた。
秋雨はまひるの隣にいた。
淡い水色の上着に白いスカート。
雨巫女さまの衣ではないが、いつもより髪をきちんと結んでいて、祭りの日の服だと分かった。
二人は人の流れを避けるように石畳の端に並んでいた。
「走らない。転ぶよ」
チハルが通りかかった子どもに声をかけた。
子どもが笑いながら速度を落とす。
チハルはその背中を見送ってから、屋台の方へ声を飛ばした。
「それ、午後の分だからまだ開けないでくださーい」
チハルは動きやすそうな服に手ぬぐいをかけ、胸元には祭りの運営札を下げている。
片手に板を持ち、仕切り役の顔をしていた。
まひるがその手際を見ている横で、秋雨は境内の奥へ視線を向けていた。
小さな雨巫女さまの衣装を着た子どもたちが、大人に紐を直してもらっているのを眺めていた。
チハルがこちらに気づき、まひるを見る。
「まひるちゃん」
「なに」
「本当はね、手伝わせたい」
「わたし、半分は観光客なんだけど」
チハルは胸元の運営札を指で弾いた。
「この島、常に人手不足だから」
「急に生々しいじゃん」
「しかも神社の床下から侵入した前科持ち」
「前科にしないで」
「じゃあ伝説?」
秋雨はそう言って、くすっと笑った。
まひるはわざとらしく、むすっと頬を膨らませた。
チハルは、手にしていた紙をひらひらさせる。
「受付補助の補助とか見守りとか、仕事なら作ればあるからさ」
「補助の補助って何? 聞かなったことにしていい?」
秋雨が口元を押さえた。
「チハル、素直になりなよ」
「秋ちゃん」
「まひるちゃんと回りたいんだよね」
「……そうだけど」
まひるが吹き出す。
チハルの頬が赤いように見えた。
「否定しないんだ」
「あーもう、そのへん突っ込まないで!」
チハルはため息をついた。
「まあいいや。今日はちゃんと祭り見てきなよ」
「結局、追い出されたわたし」
「見逃してあげるって言ってるの」
まひると秋雨は、少しだけ笑った。
「見逃されとくね」
「迷子見つけたら係に渡して」
「うん」
「あと秋ちゃん連れてどっか行かないでね」
「それおかしくない?」
「おかしくない」
即答だった。
秋雨が肩を震わせる。
「まひるちゃん、すごい顔」
「なんか、こう、ものすごく腑に落ちない」
「だろうね」
その時、社務所の方から「チハルちゃーん」と呼ぶ声がした。
「はーい」
チハルは返事をしてから、秋雨を見る。
「秋ちゃん、あたし、舞の時は行くからね」
「忙しくないの?」
「それとこれとは別。それじゃ」
そう言って、チハルは人混みの中へ消えていった。
残されたまひると秋雨の前で、祭りのざわめきが大きくなる。
「秋雨ちゃん」
「なに?」
「舞のこと、気にしてるの?」
秋雨はうなずいた。
「出たいなら出ていいと思うけどね」
秋雨が目を丸くする。
「それは、そうなんだろうけど」
「簡単な話じゃないのは分かるけど」
まひるは肩をすくめた。
「雨巫女じゃなくなったからって、舞っちゃだめってことでもないでしょ」
「でも」
「秋雨ちゃんがやりたいなら、それで十分じゃない?」
秋雨は少し考えるように視線を落とした。
「変かな」
「変でもいいんじゃない?」
「そうなの?」
「だって、今までと違うんだから。同じ形じゃなくてもいいと思う」
「……そっか」
「それに、総代さん言ってたじゃん。雨巫女さまは、文化だって」
秋雨の目が、大きく開いた。
太鼓の音が、遠くで一つ鳴った。
そして、秋雨は静かに言った。
「私ね、雨巫女としてはもう舞わないつもりなの」
淡々とした口調で、歩きながら続ける。
「でも、祭りから離れたいわけじゃないんだ」
「じゃあ答え出てるじゃん」
「まひるちゃん、それはちょっと雑だよ」
秋雨は困ったように笑った。
まひるは、秋雨は笑っているのがいいなと思った。
太鼓の音が離れたところで鳴った。
次の催しを知らせる音に、人の流れが変わる。
子どもたちの衣装を整えていた大人たちが、中央へ声をかけ始める。
まひると秋雨も石畳の端へ寄る。
ただ、秋雨は途中で子どもに呼び止められ、ほどけかけた飾り紐を直してあげた。
「ありがとう、おねえちゃん!」
子どもはすぐに駆け出していった。
それを合図みたいに、太鼓の音が大きく鳴る。
人々は自然と中央へ顔を向けた。
小さな雨巫女さまの袖がいくつも揺れる。
秋雨が息を吸った。
「行ってきます」
「見てるからね」
秋雨は小さくうなずき、子どもたちの列の後ろへ向かった。
白い衣ではない。
特別な飾りもない。
けれど、それはたしかに雨巫女さまの舞だった。
その形を、今年は秋雨が受け取る。
島に感謝するために。
雨とともに暮らしてきた時間を、なくさないために。
秋雨が中央へ歩いていくと、人の声が静かになった。
人混みの向こうから、チハルが小走りで戻ってくる。
「間に合った」
「抜けてこれたの?」
「この時間だけ」
チハルはそれ以上何も言わず、中央を見た。
太鼓の音がもう一度鳴る。
子どもたちが島に感謝する、短い所作を始めた。
列の端で、秋雨が一歩前に出る。
晴れた空の下で両手を上げた。
秋雨は舞った。
ほんの短い舞だった。
袖も飾りも昔のままではない。
それでも、その手は空へ向かい、海へ向かい、最後に胸の前へ戻ってきた。
まひるはスマホを持ち上げた。
晴れた空の下で、秋雨が舞っていた。
画面の中で、指先が光を受けていた。
まっすぐ伸びた指が、ほんの少し硬い。
けれど、俯いてはいなかった。
だから、まひるはシャッターを切った。
最後の太鼓が鳴る。
子どもたちが手を下ろす。
境内に拍手が広がった。
秋雨は固まって、それから慌てて頭を下げた。
まひるも手を叩いた。
チハルも隣で叩いている。
「晴れてると、なんか違うね」
チハルがぽつりと言う。
「でも雨巫女さまの舞だった」
「うん」
チハルは中央の秋雨を見つめたまま笑った。
「残ったね」
「残った」
「秋ちゃんと、雨巫女さまの両方とも」
まひるは頷いた。
拍手の中で、秋雨はまひるの方を見て笑っていた。
やがてチハルは呼ばれ、社務所の方へ戻っていく。
「まひるちゃん、変なこと吹き込まないでよ」
「なにそれ」
「前科持ちだから」
チハルはまひるが言い返す前に、笑って走り去った。
舞が終わると、境内のざわめきが戻ってきた。
秋雨は中央から戻ってくる。
「まひるちゃん」
「秋雨ちゃん、撮ったよ」
「えっ」
まひるがスマホを見せる。
秋雨は目を瞬かせる。
まひるは写真を表示して見せた。
画面の中で、秋雨が舞っていた。
晴れた空の下で両手を上げている。
雨巫女の衣ではない。
涙も雨もない。
けれど、雨巫女の舞は確かにそこにあった。
秋雨は画面をじっと見た。
「私、こんなふうなんだ」
その声は小さかったが、嫌そうではなかった。
「変かな」
「全然」
秋雨が画面を見たまま笑う。
「知らない人みたい」
「秋雨ちゃん本人です」
「こんな私、初めて見た」
写真の中の秋雨の肩に、晴れた光が落ちていた。
「舞えたね」
まひるが言うと、秋雨はゆっくりうなずいた。
「うん、舞えた」
境内にはまだ、拍手の余韻が残っていた。
「あれで、よかったのかな」
「よかったんだよ」
少し考えてから、まひるは付け足す。
「……綺麗だったし」
秋雨はその言葉を受けてから、空を見上げた。
日差しを受けた横顔が少し赤く見えた。
まひるは、それを見ないふりをした。
◆
祭りの終わりが近づく頃、神社の石段には日差しが斜めに落ちていた。
まひると秋雨は、祭り用のべンチに座っていた。
「まひるちゃん、来年も来る?」
「来る」
答える前から決まっていたみたいに声が出た。
秋雨は、それを聞いて照れたように笑った。
「すぐ答えてくれるの、なんだか嬉しいな」
「うん、いっぱい写真撮って、また来る」
「楽しみにしてる」
その時、後ろから足音が近づいてきた。
運営札を下げたチハルが、空の箱を抱えて立っていた。
「また二人だけの空気になってる」
「なってない」
「今なってた。すぐそうやってムード作って」
チハルが言う。
まひるは肩をすくめた。
秋雨は困ったように笑う。
「チハルは来年も運営?」
「たぶん。やる人いないし」
「えらいえらい」
「来年はまひるちゃんも秋ちゃんもこっち側だからね」
「はいはい」
雨巫女さまのいない祭りはちゃんと開かれ、終わった。
けれど、境内には子どもたちの笑い声と、さっきまでの舞の余韻がまだ残っていた。
きっと、来年も祭りは行われる。形が変わっても、流れが変わっても、続いていく。




