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第41話 「秋雨ちゃん」

 帰り道のランタンは、行きよりも滲んで見えた。

 雨はまだ降っていた。

 けれど、音の聞こえ方が違っていた。

 木々の葉を叩いて、石の上を流れて、ロープを濡らしている。

 ただ、それだけ。なんでもない、普通の雨だった。


 まひるは、秋雨(あきさめ)の手を取っていた。

 儀式の前に離した手を、もう一度繋いでいる。

 秋雨の指先は冷たかった。

 濡れて、冷えて、力もあまり入っていない。

 それでも、まひるが触れていると、かすかに握ってくれている。


 山道を下りるにつれて、雨の粒が細くなっていった。

 行きではレインコートを叩いていた音が、今は木の葉の先でぽたりと落ちる雫になっている。

 ロープを伝る水も、さっきより遅い。

 まひるは足元を確かめながら、秋雨の歩幅に合わせた。

 板の端。ぬかるんだ土。雨に濡れたロープ。

 大人たちが用意してくれた道を、二人でゆっくり戻っていく。

 ふと、秋雨の足が、一度止まった。


「秋雨ちゃん?」


 まひるが呼ぶと、秋雨はロープを握ったまま、顔を上げた。


「……大丈夫」


 言いかけて、秋雨は口を閉じた。

 秋雨は、自分の言葉を選び直し、喉を動かした。


「……ううん、違う。大丈夫じゃない、疲れた」


 まひるは、すぐにうなずいた。


「じゃあ、ゆっくり帰ろう」

「ありがとう」

「それとも一度休む?」

「休まない。座ったら、立てないかもしれない」

「じゃあ、すごくゆっくり帰ろっか」


 秋雨が笑った。

 笑うと、目尻に残っていた涙が一粒だけ落ちた。

 まひるは思わず空を見た。

 雨は秋雨が泣いて、すぐに強まったりはしない。

 けれど、見上げた空は秋雨の涙を気にしていないように思えた。

 秋雨も、自分の頬に触れた。

 指先に残った雫を見て、目を瞬かせる。


「……雨に、ならない。本当に、ならないんだね」


 まひるは秋雨の横顔を見た。

 繋いだ手に、少しだけ力を込める。

 秋雨の指が、それに応えるように動いた。


 山道を下りるにつれて、神社の屋根が木々の間に見えてきた。

 そして、雨に濡れた瓦の下に、複数の人影があった。

 でも、誰も山道へ踏み込んではこなかった。

 ランタンの列の終わり、神社の裏手の庇の下で、大人たちは待っていた。

 源一郎、神社の人たち、チハル、紗和。

 姿が見えた時、まひるの足が止まる。

 秋雨も同じところで止まってくれた。

 屋根の下から、紗和が雨の中に出た。


「まひる」


 その声を聞いた瞬間、まひるの背中がぴんと伸びた。


(怒られる。間違いなく、怒られる)


 まひるの頭の中で、言葉がいくつもぶつかった。

 ごめんなさい。

 勝手に行ってごめんなさい。

 心配かけてごめんなさい。

 床下から入ってごめんなさい。

 けれど、言葉が頭の中で詰まるだけだった。


 紗和は、まひるの前で立ち止まる。

 まひるは秋雨の手を取ったままだった。

 けれど、お母さんの腕が伸びてきて、背中に回った瞬間、指の力がゆるんだ。

 濡れた雨合羽ごと、まひるは抱きしめられた。

 秋雨の手が、まひるの手からそっと離れた。


「……ほんとうに、もう」


 お母さんの声が、耳のすぐそばで震えていた。

 まひるは一瞬、息が止まった。

 怒られると思っていた。

 けれど、抱きしめられている。

 どうすればいいかわからなかったけれど、まひるの手は自然と動いていた。

 まひるは、自分の手をゆっくりお母さんの背中に回す。


「……ごめんなさい」

「あとで、ちゃんと話してちょうだい」

「うん」

「聞きたいことが、山ほどあるんだから」

「……うん」

「でも、まず帰って来てくれて、ありがとう」

「……ただいま、お母さん」


 紗和はまひるから体を離す。

 まひるの顔を見て、泥の残った髪を見て、膝の汚れを見て、それから目元をきつくした。


「……まひる、あとで話をしましょう」

「……はい」


 まひるはもう一度うなずいた。

 それから、隣にいるはずの秋雨を探した。

 秋雨は離れたところで、チハルに手を掴まれていた。


「秋ちゃん、おかえり」


 チハルの目は赤かった。

 でも、泣いている顔ではなかった。

 唇をぎゅっと結んで、秋雨の手を握っている。


 秋雨の指が、チハルの手の中で震えた。

 雨巫女さま、ではなかった。

 チハルは、秋ちゃん、と言った。

 秋雨はまばたきをした。

 呼ばれた名前を、胸の中で確かめるみたいに。


「……ただいま、チハル」

「遅いよ」

「ごめん」

「謝るのはあとでいい」

「うん」

「今は、無事に帰ってきたからいい」


 チハルの声が、最後だけ掠れた。

 秋雨は、繋がれた手を見て、それからチハルへ顔を向けた。

 チハルは秋雨の手を握ったまま、空いている方の手でまひるを指した。


「ほら、まひるちゃんもそっち握ってあげて」

「え、わたし?」

「他に誰がいるの」


 まひるは苦笑しながら、秋雨の反対側に回った。

 秋雨の手は、さっき離れた時よりも冷たくなっていた。

 まひるが触れると、秋雨の指がゆっくり重なる。

 チハルとまひるの間で、秋雨が肩を縮めた。


「歩きにくい」

「我慢して」

「はーい」

「敬語じゃなくても返事できるようになったね」

「……本当だ」


 秋雨が小さく言って、まひるとチハルが同時に笑った。

 そのま、屋根の下にいる源一郎のところへ向かう。

 雨に濡れた石畳の上で、足を止める。


 源一郎は目の下に、濃い影が落ちていた。

 それでも、まひるたちを見る目元は柔らかかった。


「戻ってきたんだな」


 源一郎が言った。

 秋雨は、まひるとチハルに手を繋がれたまま、姿勢を正そうとした。

 けれど、やめた。

 そのまま源一郎と向かい合う。


「はい。戻りました」

「そうか」


 源一郎は短く答えた。

 まひるは、源一郎の後ろを確かめた。

 前総代さまの姿はなかった。


「あれ? おばあちゃんは?」


 まひるが聞くと、源一郎は眉を動かした。


「前総代さまからは、言伝を預かっている」

「……わたし、怒られるやつですか」

「まひるさんには『入る場所を間違えるな』と」

「……床下のことですか」

「さて、それはわからないな」

「回りくどいなぁ」


 まひるは返事をした。

 予想通りすぎて、反論する余地もない。

 チハルが横でふっと笑いかけて、まひるが顔を向ける。


「笑った?」

「笑ってない」

「でも、床下から入ったのは危なかったと思うな」

「教えてくれたのはチハルちゃんです」

「あっ! まひるちゃん!」


 秋雨とまひるとチハルが、口元を緩めた。

 源一郎は今度は秋雨を見た。

 さっきよりも、声が低くなる。


「秋雨には『よく頑張ったな』と」


 秋雨はすぐに返事をしなかった。

 雨が(ひさし)の端から落ちる。

 ぽた、ぽた、と石に当たる音は、さっきより間遠くなっていた。

 秋雨は、まひるとチハルに繋がれた手を見た。

 それから、深く頭を下げた。


「……はい」


 その一言だけだった。

 けれど、まひるには十分だった。

 前総代さま本人はいない。

 それでも、その言葉は秋雨に届いている。

 源一郎はうなずいた。


「中へ入ろう。これ以上、ここにいると冷える」

「賛成」


 まひるが即答すると、紗和がまひるを見た。


「まひる、あとで本当に話があります」

「はい」

「返事だけはいいわね」

「はーい」


 チハルがまた笑いそうになった。

 まひるは、見なかったことにした。


 社務所の一室に入ると、乾いたタオルと温かい飲み物が用意されていた。

 誰が用意したのかは分からない。

 けれど、白い湯気が上がっている。

 まひるはそれを見て、山道のランタンを思い出した。

 秋雨は畳の上に座った途端、肩から力が抜けた。

 まひるも隣に座る。

 紗和がタオルを持ってきて、まひるの頭にかぶせた。


「自分で拭きなさい」

「はい」

「秋雨ちゃん、こっちも使って」

「ありがとうございます」

「あたし、手伝います」

「助かるわ、ありがとう」

「秋ちゃんとまひるちゃんは、しっかり休んでね」


 紗和とチハルは神社の奥に入っていった。

 秋雨は受け取ったタオルで髪を拭こうとして、手が止まる。

 まひるが覗き込むと、秋雨は涙のあとを指で触れていた。

 さっきからずっと、そこを確かめている。


「また泣きそう?」


 まひるが声を落として聞いた。

 秋雨は、考えてからうなずいた。


「少しだけ」

「……そっか」


 まひるの肩に力が入る。

 秋雨はあわてて首を振った。


「でも、雨にはならないと思う」

「うん」

「思う。じゃなくて、雨にはもうならない」


 秋雨はそう言って、手のひらを見た。

 そこには何もない。

 雨を呼ぶ印も、役目の形もない。

 ただ、赤くなった指先があるだけだった。


「涙が、ただ涙なのって……なんだか、変だね」


 秋雨が言った。

 まひるはタオルを頭にかぶったまま、秋雨に顔を向ける。


「普通のことなのに?」

「うん。普通のことなのに」


 秋雨の目元がまた揺れる。

 けれど、屋根を叩く音。

 窓の外の葉を揺らす音。

 石畳を流れる音。

 それらの音は、少しずつ薄くなっていた。


「お茶ですが、どうぞ」

「ありがとうございます」


 まひるは、神社の人から受け取った温かい飲み物を両手で包んだ。

 指先に、熱が戻ってくる。

 隣で秋雨も、同じように両手を丸めていた。

 湯気が、秋雨の赤い目元の前で、白くほどける。

 秋雨は、その湯気を見ながら言った。


「あとで一緒に怒られるんだよね」

「秋雨ちゃん、怒られる要素ある?」

「まひるちゃんを止めなかった」

「どこの話?」

「ぜんぶ。雨の中来てくれたのも、床下を潜ったのも、山を登ったのも」

「ぜんぶ止められても行ったよ」

「そうだよね」

「だから、秋雨ちゃん悪くなくない?」

「それでも、一緒に怒られる」

「頑固だなあ」


 秋雨は否定しなかった。

 両手を丸めたまま、笑う。

 まひるも笑った。

 笑ったあと、手の中の熱が、指にじんわり残った。


 チハルは離れたところで、神社の人に毛布を渡されていた。

 受け取りながら、秋雨の方を見ている。


 紗和は源一郎と低い声で話していた。

 難しい話なのだろう。

 これからのことなのだろう。

 だけど、二人とも険しい顔はしていなかった。

 だからきっと、時間はかかるけど、助けてくれると思った。


 まひるは、隣にいる秋雨へ視線を移した。

 秋雨の濡れた髪の先から、まだ雫が落ちている。

 目元は赤い。

 それでも、秋雨はちゃんとまひるの隣に座っていた。


「秋雨ちゃん」


 まひるが呼ぶと、秋雨は顔を上げた。


「なに?」

「あのさ……これからも、友達でいてくれる?」


 秋雨は、まひるの言葉を受け止めたまま動かなかった。

 数回、瞬きをした。


「雨巫女じゃなくなって」


 まひるは、手の中の熱を包み直した。

 それでも、今なら言えると思った。

 雨巫女さまじゃなくて。

 役目の名前じゃなくて。

 まひるは、ずっと、この名前で呼びたかった。


「普通の女の子の秋雨ちゃんになっても——わたしの友達でいてくれる?」


 秋雨は、両手で持っていたコップに視線を落とす。

 水面が揺れて、すぐに静まった。

 手の中にあった温かさを畳の上に置く。

 そして、まひるの手に触れた。

 その手は、山道で繋いだ時よりも、祠の前で繋いだ時よりも、温かかった。


「うん、ずっと友達だよ」


 秋雨はそう言った。

 雨巫女の返事ではなかった。

 秋雨ちゃんの返事だった。


「ずっと?」

「うん。ずっと」


 秋雨の指が、まひるの指に重なった。


「まひるちゃんが、私のことを呼んでくれた時から」


 まひるは、すぐに言葉が出なかった。

 呼びたかった名前の、隣にいる。

 触れる指の温もりが、熱が重なる。


「私たちはずっと一緒の友達だよ、まひるちゃん」

「……そっか」

「うん」

「そっかあ」


 同じ言葉しか出てこなかった。

 それでも、秋雨は笑った。


 屋根の外で、雨が細くなっていく。

 まひるは、秋雨の手を離さないまま、その音を聞いていた。

 秋雨ちゃんが、隣にいる。


 やがて、屋根を叩く音が途切れた。

 チハルが最初に気づいて、窓の方を向いた。


「……止んだ?」


 まひるも顔を上げた。

 窓の向こうで、雲が薄く割れていた。

 雨に濡れた石畳の上に、細い光が落ちる。

 ランタンの灯りとは違う、白い光だった。

 まひるは思わず空を見上げた。


「……まぶしいね」


 声に出すつもりはなかった。

 でも、言葉がこぼれた。

 秋雨の指が、そっと握ってくれていた。

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