第40話 さようなら、雨巫女の私。
穴の奥からは、低い水音がした。
遠いはずの海が、山の中で息をしていた。
祠の前で開いている、黒い穴。
海へ続いているはずなのに、海は見えない。
ただ、水の音だけがする。
まひるは、秋雨の手を握ったまま、その音を聞いていた。
ここまで続いていたランタンの灯りは、祠の前で途切れていた。
雨に濡れた木の根。黒く沈んだ石。祠の屋根から落ちる水。
どれも小さな光を受けて、ぼんやり浮かび上がっていた。
秋雨が一歩前に出ようとして、止まった。
手が繋がったままだったからだ。
秋雨は、自分の手を見た。
それから、まひるを見た。
「まひるちゃん。ここからは、私がやる。だから、見てて」
つなげた言葉は小さく、震えていた。
まひるは、つないだ手に力を込めそうになった。
離したくなかった。
最後まで隣にいたかった。
けれど、まひるは、指を開いた。
まひるの手から、秋雨の手が抜けていった。
「うん、いってらっしゃい」
秋雨は封筒を胸に抱えたまま、祠の前へ進む。
まひるは、半歩後ろに下がった。
手を下ろした時、ポケットの中にスマホがあることを、ふと思い出した。
けれど、まひるはそれを取り出さなかった。
この瞬間を、わたしは切り取らない。
きっと、ずっと覚えている。
そう、思ったから。
秋雨は、祠の前で膝をついた。
濡れた石に、手を置く。
封筒を開き、中の紙を取り出す。
紙は雨に濡れないように、何重にも包まれていた。
秋雨に届くように、何人もの手を渡ってきたもの。
秋雨は、それを一度だけ見た。
それから紙を畳んで、胸元に当てる。
頬に張りついた髪の隙間から、細い息がこぼれた。
秋雨は顔を上げた。
穴の奥へ向かって、静かに口を開く。
「——雨が好きだった私を、ここに残します」
雨粒が、秋雨の睫毛に溜まった。
まばたきのあと、頬に張りついた髪の先から雫が落ちる。
「この島に私が降らせてきた雨を、なかったことにしません」
畳んだ紙を、秋雨は胸元に押し当てた。
指先が白くなるほど、強く押さえている。
「雨巫女さまと呼ばれた時間を、消しません」
穴の奥で、水音が低く鳴った。
遠い海が、山の底で揺れていた。
「雨巫女だった私を、私の中に残します」
最後の言葉を置くと、秋雨は短く息を吸った。
封筒を、膝の横に置く。
両手が、膝の上に揃えられる。
「そして、雨巫女の私を、お返しします」
祠の屋根から落ちた水が、石を叩いた。
黒い穴の縁へ、細い流れが伸びていく。
「涙で雨を降らせる役目を、お返しします」
秋雨の声が、一度だけ揺れた。
けれど、途切れなかった。
「『大丈夫』と言う雨巫女の顔を、お返しします」
雨具の端から落ちる雫が、膝の前に小さな跡を作る。
秋雨はそれを見ない。
視線は、祠の方へ向いていた。
「そして、私の涙は、島のものではありません。海のものでもありません」
その言葉のあと、秋雨は深く頭を下げた。
額が、祠の方へ傾く。
濡れた髪が頬から離れ、雨粒がいくつも落ちる。
その中に、雨とは違う雫が混じった。
秋雨の涙だった。
涙は祠の前の石に落ちた。
浅いくぼみを伝い、雨水と一緒に黒い穴の縁へ滑っていく。
まひるは息を止めた。
秋雨は頭を下げたまま、震える声で続ける。
「私が降らせる雨を、島にお返しします」
涙が、穴の縁で一度止まった。
そこへ、祠の屋根から落ちた雨水が重なる。
「雨巫女の涙を、海へ返します」
雫が、穴の中へ落ちた。
山の奥で、海の音がした。
見えない波が、祠の下で息をする。
秋雨の肩が、小さく震えた。
それでも、頭は下げたままだった。
「その代わり、私の涙を返してください」
その言葉が落ちたあと、穴の奥で水音が深く鳴った。
まひるの足元まで、低い震えが伝わってくる。
ランタンの灯りが揺れた。
祠の屋根から落ちていた水が、細い線になって穴の方へ引かれていく。
雨は止まらなかった。
空はまだ灰色で、木々の葉は濡れている。
まひるの頬にも、雨粒は落ちてくる。
けれど、祠の前に膝をつく秋雨の肩から、細い雨の筋がほどけていった。
雨具を伝う水とは違っていた。
雨巫女さまと呼ばれるたびに背筋を伸ばさせていたもの。
泣くことを役目に変えていたもの。
それが雨水に混じり、黒い穴の奥へ流れていく。
穴の向こうで、もう一度、水の音がした。
深く、遠く、水滴が落ちたような音だった。
しばらく、秋雨は動かなかった。
まひるは、手を伸ばさなかった。
秋雨が、ゆっくり顔を上げる。
頬は涙で濡れていた。
秋雨は指で触れる。
指先についた雫を見つめた。
「……終わった、のかな」
声は小さかった。
雨音に混じりそうなほど小さかった。
まひるは、穴の奥を見た。
水音はまだ続いている。
けれど、さっきまで水音の底に混じっていた呼び声は、もうなかった。
「……終わった、と思う」
まひるは答えた。
秋雨は、指先の雫を見つめたまま、もう一度まばたきをした。
涙が、頬を伝う。
雨具の襟に落ちる。
そのまま、ただ濡れた布に染みた。
「——雨に、ならない」
秋雨が呟いた。
「うん」
まひるはうなずいた。
秋雨の目から、また涙がこぼれた。
それでも、雨音は変わらなかった。
空の下で、雨はただ雨として降っている。
秋雨の涙は、秋雨のものとして頬を伝っている。
「……終わったんだね」
「……うん」
まひるが言った。秋雨が頷いた。
まひるは、ゆっくり秋雨のそばへ近づいた。
濡れた石の上で膝をつき、秋雨の隣に座る。
まひるが触れると、秋雨の指がゆっくり返ってくる。
秋雨の指先は冷えていた。
さっき秋雨が手を離した時とは違う。
まひるはその手を握った。
秋雨も、握り返した。
穴の奥で、水が低く流れている。
遠い海へ向かって、何かが帰っていく音がしている。
雨に濡れて、泣いて、それでも涙は雨にならない。
目の前にいるのは、ただの秋雨ちゃんだった。
「秋雨ちゃん」
まひるが呼ぶと、秋雨はゆっくりこちらを見た。
濡れた睫毛の先に、雨粒が光っていた。
「なに?」
「一緒に、帰ろう」
秋雨は、すぐには答えなかった。
祠を見て、穴の奥を見て、置いた封筒を見た。
それから、まひるの手を見た。
「うん」
秋雨はうなずいた。
「帰ろう、まひるちゃん」
雨はまだ降っていた。
祠の前で、二人は手を繋いだまま立ち上がる。
ランタンの灯りが、帰り道を薄く照らしていた。
雨の音はもう、遠いものになっていた。




