第39話 灯の道
まひるが目を覚ました時、最初に聞こえたのは雨の音だった。
天井を叩く音。
軒から落ちる音。
遠くで木々の葉を揺らす音。
それはまだ、止んではいなかった。
けれど、眠ってしまう前の雨とは違っていた。
あの時の雨は、部屋の内側まで染み込んでくるようだった。
今は、障子の向こうで降っている。
雨の音は外にあった。
まひるは、ゆっくりまぶたを開けた。
視界がぼんやりと明るい。
畳の感触が頬にあった。
朝なのか昼なのか、すぐには分からなかった。
雨雲のせいで光は鈍く、部屋の中には薄い灰色が溜まっていた。
少し動こうとした時、全身がぎし、と軋んだ。
「いたっ」
声に出してから、まひるは自分がどれだけ泥だらけで、どれだけ無茶な姿勢で眠っていたのかを思い出した。
そして、雨音の下に重なった、二人分の寝息。
すぐ隣に、秋雨が眠っていた。
秋雨は、封筒に片手を添えたまま横になっていた。
白い指先は力が抜けていて、眠る前よりも少し幼く見える。
長い髪が畳に広がり、頬にかかった髪が雨の湿気を吸って、細く張りついていた。
「雨巫女さま、じゃなくて、秋雨ちゃんがいる」
隣にいたのは、疲れて眠ってしまった女の子だった。
まひるはしばらく、その横顔を見ていた。
起こした方がいいのか、もう少し寝かせた方がいいのか分からなかった。
分からないまま、体を起こそうとして、腕に力を入れる。
その瞬間、肩から背中にかけて鈍い痛みが走った。
「うぐぅ」
変な声が出た。
秋雨のまぶたが、ぴくりと動いた。
「……まひるちゃん?」
寝起きの声は、いつもより少し低くて、やわらかかった。
「あ。ごめん、起こしちゃった」
「ううん、大丈夫」
秋雨はゆっくり目を開けた。
しばらくまひるを見て、それから自分の手元にある封筒に気づく。
眠気の残っていた目に、現実が戻った。
「私、行かなきゃ」
秋雨が言った。
その声で、まひるの中にも、雨音とは別の緊張が戻ってくる。
秋雨が返すと決めたものがある。
「うん、行こう」
まひるはうなずいて、立ち上がろうとした。
けれど、膝に力が入らなかった。
床下を這ってきた時には気づかなかった疲れが、眠ったあとで一気に戻ってきた。
腕も、腰も、脚も、ぜんぶ自分のものではないみたいに重たい。
畳に手をついて、まひるはよろけた。
「だいじょ——」
「大丈夫って言うの禁止」
先に言われた。
まひるは口を半開きにしたまま、秋雨を見た。
秋雨はまだ眠そうだったけれど、その目はまひるの足元をちゃんと見ている。
「昨日、まひるちゃんが言った」
「秋雨ちゃんだって、さっき言ってたよ」
「……次から、禁止」
秋雨がきちんと言う。
まひるは、笑いそうになった。
「秋雨ちゃんに言われる日が来るなんて、思わなかったや」
「私も、まひるちゃんに言う日が来るって思わなかった」
秋雨も小さく息を漏らした。
雨は降っている。
儀式へ向かわなければならない。
それでも、その一瞬だけ、部屋の中の空気が緩んだ。
二人は、ゆっくり起き上がった。
秋雨はこっそりと、戸を開ける。
廊下には、なぜか道具が置かれていた。
非常用のランタン。畳まれたタオル。水の入ったペットボトル。小さな救急ポーチ。
そして、まひる用らしい替えの上着と二通のメモ。
「……置き配」
まひるが呟くと、秋雨が首を傾げた。
「置き配?」
「いや、違う。……たぶん、用意してくれたのお母さんだと思う」
「紗和さんが、置き配を?」
「えっと、そういうことが言いたいんじゃないけど……」
秋雨が真面目に返すので、まひるは肩の力が抜けた。
まひるは、まずメモを取る。一通は、秋雨宛てだった。
まひるは秋雨にそれを渡す。
秋雨は丁寧に開き、紙の上で目をゆっくり動かす。
そこに書かれていたのは、長い文章ではなかった。
『道は整えました。
最後に決めるのは、あなたです。
どうか、あなたの足で進んでください。』
それは、源一郎の字だった。
秋雨は、紙を読み終えても背筋を伸ばさなかった。
雨巫女さまの返事を探すみたいに口を開きかけて、それから、閉じた。
紙を持つ指だけが、かすかに震えていた。
「……秋雨ちゃん」
まひるが声をかけると、秋雨はゆっくり息を吸った。
「うん。大丈夫じゃないけど、読めたよ」
言い直すようなその言葉に、まひるは笑った。
秋雨は困ったように笑ってから、メモを畳んだ。
もう一通は、まひる宛てだった。
まひるはおそるおそる開いた。
『聞きたいことが山ほどあります。
絶対に帰ってきなさい。』
やっぱり、紗和の字だった。
「……」
まひるは紙を見たまま固まった。
秋雨が、横からそっと覗き込む。
「……紗和さん、怒ってる?」
「怒ってる」
「でも、帰ってきなさいって書いてある」
「これは覚悟しなさいって意味」
「そうなんだ」
秋雨は少し考えたあと、きちんと言った。
「でも、これ全部用意してくれたんだよね」
まひるは、手紙から顔を上げ、廊下に並ぶ道具の数々を眺める。
紗和は、きっと二人が寝ているのを見た。
見た上で、起こさずに、これだけ置いていった。
泥で湿った手紙が、手の中で少し重くなった。
「まひるちゃん、一緒に怒られよう?」
「秋雨ちゃんは怒られなくてよくない?」
「ここまできたら最後まで一緒だよ」
まひるは、メモを持ったまま秋雨を見た。
秋雨は本気だった。
なんでそこで本気なの、と思う。
思うけれど、胸の奥がゆるんだ。
「……じゃあ、一緒に怒られてくれる?」
「うん、任せて」
秋雨はうなずいた。
まひるは、紙を畳んで胸元に押し当てた。
その時、ようやく自分の服が視界に入る。
髪の毛に、泥。雨合羽の裾まで、泥。靴下も靴も、泥。
押し当てた手紙も、泥で濡れていた。
「うわっ。わたし、こんな状態で畳で寝ちゃったの」
「すごいね」
「すごいでいいの!?」
まひるが不意に大きい声を出したのに、秋雨は笑っていた。
まひるは置かれていたタオルを借りて、髪や手、腕や足の泥を落とす。
完全には綺麗にならない。
爪の間にも、膝のあたりにも、床下の名残は残っている。
それでも、替えの上着を羽織ると、冷えていた身体がマシになった気がした。
その間に、秋雨も身支度を整えた。
乱れた髪を指で梳き、封筒を胸に抱える。
秋雨はただ、封筒の角に指を添えて、小さく呟く。
「返すもの、残すもの」
その声は、雨音に消えそうなほど小さかった。
二人は廊下から外へ歩き出した。
廊下の角にはランタンが置かれていた。
戸の近くには、濡れた足元で滑らないように布が敷かれていた。
外へ続く場所には、雨合羽が二人分、きちんと用意されていた。
まひるはそれらを見て、胸の奥が重くなっていった。
勝手に床下から入ったことを、大人たちはきっと全部分かっている。
分かっていて、今は聞かないでいてくれている。
あとでなんて謝ったらいいのか、なんてお礼を言えばいいのかは、まだわからなかった。
廊下を抜けて外へ出ると、湿った風が頬に触れた。
雨は細く、でも絶え間なく降っていた。
境内の石畳は濡れて、空は灰色に低く垂れている。
神社の裏手から、山の方へ灯りが続いていた。
小さなランタンは、雨に濡れないように庇の下や木の根元に置かれている。
ぬかるんだ斜面にはロープが張られ、滑りそうな場所には板が渡されていた。
まひるは、足を止めた。
外にまで、準備がある。
廊下に置かれていたタオルや水なら、まだ分かる。
紗和や源一郎が、二人が部屋から出てくることを見越していたのだと思える。
けれど、山の方へ続く灯りは違う。
これは誰かが雨の中を歩いて、ひとつずつ置いたものだった。
秋雨も、同じものを見ていた。
ランタンの光が、雨粒の向こうで小さく滲んでいる。
「……なんで」
秋雨が呟いた。
まひるも、すぐには答えられなかった。
誰も立っていない。
けれど、ランタンは道を照らしている。
ぬかるみに渡された板も、雨に濡れたロープも、二人の道を整えている。
止めるためのものではなかった。
見張るためのものでもなかった。
前に進めるよう、そこにあった。
秋雨の指が封筒の角を押さえる。
「……行っていいって、ことなのかな」
その声は、雨音に混じるほど小さかった。
「行こう」
まひるは言った。
秋雨はしばらく黙っていた。
それから、雨に濡れたロープへ向かって、ほんの少し頭を下げた。
誰に向けたものなのか、まひるには分からなかった。
源一郎かもしれない。
神社の人たちかもしれない。
止めずに道を整えてくれた、ここにいない誰かたちかもしれない。
「……ありがとうございます」
秋雨が言った。
返事はなかった。
ただ、ランタンの灯りが雨の中で揺れていた。
二人は山道へ踏み出した。
足元は悪い。
板がある場所はまだいいけれど、板のない場所は靴が土に沈む。
ロープを掴む指は、雨に打たれて冷たくなっていく。
先を歩く秋雨は、少し進んでは何度も振り返った。
まひるは、その度に迷った。
昨日は、まひるが床下を這って秋雨のところまで行った。
今日は、秋雨が前にいる。
雨の中で、ランタンの灯りが秋雨の横顔を淡く照らしていた。
秋雨は、待ってくれている。まひるが、言葉を見つけるのを。
まひるは、喉の奥に引っかかった言葉を押し出した。
「秋雨ちゃん」
「なに?」
「お願いしてもいい?」
「いいよ」
「……手、引いてほしい」
秋雨が目を瞬かせた。
まひるは急に恥ずかしくなって、視線を逸らす。
「まだちょっとだけ、ちょこっとだけ疲れてるかもしれない。あと、山道って慣れてないから、歩くペース遅くなっちゃうかもしれない」
「……うん」
秋雨は、静かに手を差し出した。
まひるはその手を取った。
冷たい手だった。
けれど、力はちゃんとあった。
秋雨の指が、まひるの指を包む。
「転んでもいいからね」
「転ばないよ」
「転んでも平気だよ」
「転んでほしいの?」
「……転ばないでほしい」
そう言って、秋雨は小さく笑った。
その笑い声が、雨音の中にすぐ溶ける。
でも、まひるにはちゃんと残った。
二人は手を繋いだまま、山道を進んだ。
雨はまだ降っている。
木々の葉に当たって、土に落ちて、石の上を流れていく。
道の途中で、秋雨が立ち止まらないまま言った。
「返すもの、雨巫女の私」
まひるは、秋雨の手を握った。
「私の涙が、島のものになること」
雨が、二人の雨具を細かく叩く。
「大丈夫って言わなきゃいけない顔」
まひるは、ただ聞いた。
まとめない。直さない。励ましすぎない。
秋雨が、自分で言うのを聞く。
「残すもの、雨が好きだった私」
足元で、雨水が板の端を流れていく。
「島に降る雨」
ランタンの灯りが、濡れた睫毛の先に小さく引っかかる。
「チハルが、雨巫女さまって呼んでくれた時間」
秋雨は、ロープを強く握る。
「それと、雨巫女だった私」
秋雨はそこで一度、息を吸った。
「雨巫女だったことは、消さない」
「うん」
「でも、雨巫女の私は、返す」
まひるは、秋雨の手を握り返した。
それ以上の言葉は、今はいらなかった。
山の奥へ進むほど、雨音の下に別の音が混じり始めた。
水の流れる音。低く響き、地面の奥から、遠くの方へ続いていくような音。
辺りに川はない。不思議と、風の中に、かすかに潮の匂いが混じっていた。
まひるは、顔を上げる。
木々の先、洞穴の中に、小さな建造物が見えた。
それは、古い木でできた、小さな祠だった。
ランタンの灯りは、ここに繋がっていた。
秋雨の足が止まり、まひるがその横に立つ。
手は繋いだままだった。
その祠は雨に濡れて黒ずみ、屋根の端から細い水が落ちている。
祠の前には、黒い穴が開いていた。
穴の向こうから、水音が上がってくる。
それは山を貫いて、海へ続く穴だった。
ここが、雨を返す場所——儀式の場所だった。
「まひるちゃん」
秋雨の指が、まひるの指をきゅっと掴んだ。
「本当はね、怖い」
秋雨が言った。
まひるは、すぐには返事をしなかった。
怖くないよ、とは言えない。
大丈夫だよ、とも言いたくなかった。
「だから、まだ、離さないで」
まひるは言った。
秋雨は穴の奥を見ていた。
雨音と水音が重なる。
祠の周りの木々が、細かく震えている。
秋雨は、まひるの手を握ったまま、もう一度息を吸った。
「うん。離さない」
二人は祠と穴の前へ、一歩出た。
足元の石は濡れていた。
ランタンの灯りが、雨粒を小さく光らせている。
秋雨は封筒を胸に抱え直し、濡れた石の上に立った。
まひるが呼んだ名前のまま、秋雨ちゃんがそこにいた。
穴の奥から、低い水音がした。
遠い海の気配が、山の中に息をしていた。




