第38話 今、行くよ。
「……正面以外?」
雨音の向こうで、チハルの声が低くなった。
まひるは集会所の軒先にいた。
スマホを耳に押し当てたまま、神社の方角を見る。
鳥居までは、あと一本角を曲がれば見える。
「まひるちゃん、今どこ」
「集会所の近く。神社にはわたしが行くの伝わってる」
「じゃあ、普通に行けばいいじゃん」
「それだと、秋雨ちゃんに届かない」
「……どういう意味」
「正面から行って会ったら、秋雨ちゃんはまず周りを見るよね」
「……」
「神社の人とか、研究所の人とか、お母さんとか、チハルちゃんとか、島の人とか。誰が安心するか、誰が困るか、全部見てから、雨巫女さまの顔になっちゃう」
「……そうだろうね」
「背筋伸ばして、怖いのを後ろに隠して、相手が安心する言葉を選ぶ。それが秋雨ちゃんの、雨巫女さまだよね」
「……」
「だから、もし抜け道があったら、教えてほしい」
まひるの事情は一切伝えていない。
けれど、チハルは話を聞いてくれた。
電話の向こうで、人の声が遠くで聞こえた。
チハルはその声に一度だけ返事をする。でも、電話は切らなかった。
「……神社の裏手。古い石垣の横に、低い板戸みたいなのがある。たぶん、雨樋の下」
「板戸」
「お役目の部屋の床下につながってる。小学生の時、秋ちゃんが稽古サボる時に使ってた」
「秋雨ちゃんが?」
「そう。雨巫女さまの稽古が嫌になった時とかにね。ただ、それも数年前の話。今はまだ使えるか分かんないよ」
まひるは神社の方を見た。
雨に煙って、鳥居の上の方だけがぼんやり見える。
秋雨が昔、そこから逃げていたのだと思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
雨巫女さまから逃げるための道。
「それでもいい。ありがとう」
今は、秋雨ちゃんに会いに行くための道。
「ちょっと待って。話はまだ終わってない」
チハルの声は早かった。
怒っているというより、怒る時間すら惜しんでいる声だった。
「いい? 水が入ってたら戻る。板が動かなかったら終わり。変な音がしたら進まない。塞がってたら引き返してよね」
まひるは封筒の入った胸元を押さえた。
雨合羽越しに、硬い紙の角が指に当たる。
「チハルちゃん」
「なに」
「ありがとう」
「お礼は全部終わってからにして……あとは任せたからね」
電話が切れた。
まひるはスマホをしまい、雨の中へ戻った。
まひるは神社の正面へは向かわず、石垣沿いの細い道を回り込む。
足元の水たまりを踏むたびに、靴の中まで水が入ってくる。
懐中電灯の重さがポケットで沈む。
雨合羽の裾はもう泥を吸い始めている。
集会所の灯りが背中側に遠ざかっていく。
海側へ続く道には、ロープが張られていた。
誰かの懐中電灯の光が、遠くで一度だけ揺れる。
島は、雨の中でまだ動いている。
お母さんも、チハルも、神社の人たちも、研究所の人たちも。
誰も何もしていないわけじゃない。
それでも、今、秋雨のところへ行くのは、まひるだった。
雨護神社の裏手は、正面よりもずっと暗かった。
古い石垣には苔が濡れて貼りつき、雨樋から細い水が落ちている。
その下に、チハルの言っていた板戸があった。
まひるはしゃがみ込んだ。
手をかけると、板は湿って重かった。
指先に泥がつく。力を入れると、木が低く軋んだ。
「……開いた」
声に出してから、まひるは慌てて口を閉じた。
中は暗かった。
懐中電灯を点けると、細い光が床下の木組みを照らした。
狭いけれど、子供が一人、膝と手をつけば進めるだけの幅はある。
まひるの身長なら、雨合羽を引っかけないように気をつければ抜けられる。
「待っててね、秋雨ちゃん」
そこは楽な道ではなかった。
床板は近く、湿った土の匂いが鼻につく。
奥へ行くほど光は届きにくく、足元には水を含んだ泥が溜まっていた。
まひるは封筒を上着の奥へ押し込み、雨合羽の前をもう一度閉じた。
膝をつく。泥が布越しに冷たく染みる。
それから、床下へ入った。
雨音は床板の上から聞こえてくる。
外にいる時より鈍く、重い。
懐中電灯の光が揺れるたびに、湿った柱の影が動いた。
まひるは片腕で封筒を押さえながら、進んだ。
手のひらが泥に沈む。
膝が小石を踏む。
雨合羽の裾が木のささくれに引っかかるたび、転びそうになって心臓が跳ねた。
——怖い。
そう思った瞬間、喉の奥がぎゅっと狭くなった。
ここで引き返しても、誰も責めない。
紗和も、チハルも、秋雨も、きっと誰も責めない。
危なかったなら戻っていいと、ちゃんと言われている。
今から立って、正面から神社に向かってもいい。
まひるは懐中電灯の光を足元に落とした。
泥の上に、自分の手の跡が残っている。
その跡は、入口の方へ続いていた。
戻れる。
戻ってもいい。
けれど、秋雨は戻れない。
正面には人がいる。
廊下には声がある。
神社の中には、雨巫女さまを待っている空気がある。
その中で、秋雨はきっと、また大丈夫と言う。
まひるよりずっと心細い場所にいるのに、自分の怖さを後ろに下げて、相手が安心する言葉を選んでしまう。
まひるは封筒を抱え直した。
泥のついた指が、紙の角を押さえる。
「……行こう」
声に出しても、床下の暗さは薄くならなかった。
膝は痛いままだったし、手は冷たくてしびれてきた。
でも、前に進む理由だけは、さっきよりはっきりした。
まひるは、秋雨に何を言うかを、ずっと考えていた。
儀式のこと。
雨を海へ返すこと。
秋雨が全部を背負わなくていいこと。
島の人も、チハルも、研究所の人も、お母さんも、秋雨の敵ではないこと。
まひるが隣にいたいこと。
けれど、床下を進むたびに、それらの言葉はひとつずつ泥をかぶった。
綺麗に並べたものほど、ここには持ち込めなかった。
秋雨に会いに行く道は、こんなに低くて、暗くて、泥だらけだったから。
「——雨巫女さまの状態は」
頭の上で、人の声がした。
まひるは反射的に止まった。
「今は落ち着いていらっしゃいます」
「外の道は?」
「海側は閉じています。神社から浜へ向かう道だけ、確認を進めています」
秋雨はきっと、どこかで大丈夫ですと言ったのだ。
誰かを安心させるために。
誰かを困らせないために。
まひるは懐中電灯を握り直し、さらに奥へ進んだ。
床下の奥に、板の継ぎ目から薄い明かりが漏れている場所があった。
チハルに教えられた通り、そこだけ床板がわずかに浮いている。
まひるは肩で板を押した。動かない。
今度は懐中電灯を置いて、手で押す。木が軋む。力が足りない。
まひるは板の真下に入り、しゃがみ込む。
両手で板に触れ、足を伸ばす力で持ち上げようとして——やっと、浮いた。
細い光が、床下に差し込んだ。
その向こうで、何かが動く気配がした。
誰かが息を飲む音が、雨音の隙間に落ちる。
まひるはしばらく、その光を見ていた。
暗さに慣れた目には、それだけで眩しかった。
雨と土の匂いの奥に、畳の匂いが混じる。
ここから先は、秋雨のいる場所だ。
まひるは懐中電灯を消した。
封筒を胸に押し当てる。
泥のついた手で床を押し上げ、片肘を畳の上にかけた。
腕に力を入れる。膝が滑る。
雨合羽の裾が木に引っかかる。
それでも、もう一度押した。
体が、床下から抜けた。
まひるは畳の上に、前のめりに倒れ込む。
肩で息をしていた。
膝も、雨合羽の裾も、ひどく汚れている。
髪から水が落ちて、畳に小さな染みを作った。
喉の奥が熱い。手のひらが震えている。
でも、まひるは床下を抜けて来た。
顔を上げる前に、視界の端で、白い指が動いた。
膝の上にそろえられていたはずの手が、形を失っていた。
秋雨の指先が、畳を掴むみたいに曲がっている。
まひるは、ゆっくり顔を上げた。
部屋の隅に、秋雨がいた。
もう、雨巫女さまの顔はしていなかった。
背筋だけはまだ残っているのに、目が追いついていない。
驚きと、怖さと、信じられないものを見るみたいな色が、全部そこに出ていた。
目が合った。
雨音だけが残った。
廊下の向こうの声も、床板の下で聞いた足音も、その一瞬だけ遠のいた。
秋雨の視線が、まひるの髪から落ちる水を追った。
泥のついた袖を見る。
胸に押し当てられた封筒を見る。
それから、もう一度、まひるの目に戻ってきた。
まひるは何か言おうとした。
けれど、胸の奥に詰まっていたものが一気にほどけて、言葉が全部遅れた。
「まひるちゃ……!?」
声が大きくなりかけた瞬間、まひるは慌てて人差し指を立てた。
泥のついた指を、唇の前に当てる。
「しーっ」
声は、ほとんど息だった。
秋雨の口が止まる。
まひるは何度か浅く息を吸って、それでもまだうまく言葉にならないまま、封筒を自分の胸に押し当てた。
慌てたままの秋雨が、小声でまひるに話しかける。
「まひるちゃん、どうして」
「……何言うか、考えてたん、だけど」
「……え?」
「たぶん、違った。んでもって、忘れた。覚えてない。きっと、大したことじゃなかった」
秋雨は、まひるの袖についた泥を見た。
それから、胸に押し当てられた封筒を見た。
まひるは泥だらけのまま、畳の上に座り込んだ。
膝が笑って、もううまく立てなかった。
「だから——秋雨ちゃんの話を、聞かせて?」
秋雨は、すぐには答えなかった。
部屋の外で雨音が続いている。
その向こうに、人の気配もある。
けれど、この部屋だけは、切り取られたように静かだった。
秋雨は、まひるの泥だらけの膝を見た。
袖についた泥を見て、床板の浮いた隅を見る。
「……本当に、そこから来たの」
「そうだよ。チハルちゃんに教えてもらった」
「どうして」
「正面から来たら、秋雨ちゃん、大丈夫って言うと思ったから」
「どういうこと?」
まひるはすぐに答えようとして、うまく息を吸えなかった。
封筒を抱え直す指に、まだ泥がついている。
「うん。だから、間に合わないと思った」
「間に合わない?」
「秋雨ちゃんが雨巫女さまの顔になっちゃう前に、秋雨ちゃんに会わなきゃって思った」
秋雨は何も言わなかった。
まひるは封筒を抱えたまま、畳の上に座り直した。
膝がまだ震えている。呼吸も、ちゃんとは戻っていない。
それでも、急かしたくなかった。
「そんな危ないことして、どうして」
「最初はね、言うこといっぱいあったんだよ」
「……儀式のこと?」
「うん。それもある。あと、雨を海へ返すこととか、秋雨ちゃんが全部背負わなくていいこととか、みんな敵じゃないこととか」
「……」
「でも、床下通ってる間に、全部違うって思った」
「え?」
「だって、それってわたしが用意した言葉だから」
まひるは封筒に目を落とした。
紙は濡れていない。
泥もついていない。
「わたしが聞きたいのは、秋雨ちゃんの言葉なんだ」
それだけを守ってここまで来たのに、いま一番大事なのは紙ではなかった。
まひるはきゅっと、封筒の端を握る。
「教えてほしいな」
「何を」
「分かんない。秋雨ちゃんが今、言えること。なんでも、言いたいこと。吐き出したいこと。言えなかったこと、なんでもいいよ。それってきっと全部、秋雨ちゃんだから」
秋雨の指が、膝の上で一度丸まった。
それから、ほどけた。
まひるを見た。
雨巫女さまの顔ではなかった。
泣きそうな、でも泣くのを我慢している、同い年の女の子の顔だった。
「……私、小さい頃ね。雨の音、好きだった」
「……うん」
「寝る前に雨が降ってると、安心した。屋根に当たる音とか、葉っぱから水が落ちる音とか。朝起きた時に、土の匂いがするのも好きだった」
秋雨は、自分の手を見た。
何かを掬うみたいに、指先を開く。
「雨の日は、島が静かになるでしょう。人の声も、足音も、遠くなる。私は、それが好きだった」
「いいよね」
「でも、雨巫女になってから、雨がただの雨じゃなくなった」
「……」
「雨が降ると、よかったねって言われた。ありがとうって言われた。島の畑も、水路も、神社の人たちも、みんな安心した顔をした」
「そうだね」
「嬉しかったよ。嘘じゃない。私が泣いたことで、誰かが助かるなら、それは悪いことじゃないって思った」
秋雨の言葉が途切れる。
まひるは、待った。
「……でも、だんだん分からなくなった」
「何が?」
「雨が好きなのか、雨を降らせられる自分を、好きでいなきゃいけないのか。人が安心する顔を見るのが嬉しいのか、その顔を見ないと私がここにいていい理由がなくなるのか」
「……そうだったんだ」
「チハルが雨巫女さまって呼んでくれるのも、嫌いじゃなかった。嫌いじゃなかったんだよ。大事にされてるって、分かってた」
「うん」
「でも、雨巫女って呼ばれるたびに、私もその顔をしなきゃって思った。怖い時も、嫌な時も、ちゃんと雨巫女でいなきゃって」
秋雨は、膝の上で指を重ねた。
でも、きれいにそろえようとして、途中でやめた。
雨巫女であることを、今だけはやめていた。
「だから、雨巫女じゃない私は、どうやって立てばいいのか分からないの」
「秋雨ちゃん」
「雨を返したいって、思ってる。でも、返すって言ったら、今までに降った雨も、雨巫女だった私も、全部なかったことになるみたいで、怖い」
「ずっと、怖かったの?」
「うん。島を裏切るみたいで怖い。チハルの気持ちも、源一郎さんの責任も、前総代さまが持ってたものも、紗和さんたちが調べてくれたことも。全部知ったあとだと、余計に」
まひるは、封筒に手を伸ばそうとして、止めた。
秋雨がまだ、話してくれていたから。
「みんなが味方でいてくれるほど、私は、その気持ちまで裏切るんじゃないかって思う」
まひるは答えを探しかけて、やめた。
秋雨が話している。
「雨巫女じゃなくなったあと、私に何が残るのか、分からない。でも、雨巫女だったことを、嫌いになりたいわけじゃない。私は、雨を返したい。でも、雨巫女の私をなかったことにはしたくない」
最後の言葉だけは、部屋の中にちゃんと残った。
まひるは、胸元の封筒を見た。
それから、秋雨の前にそっと置く。
「これ、儀式のこと」
「……うん」
「でも、読むかどうかは、秋雨ちゃんが決めて」
「まひるちゃんは、読んだの?」
「ちょっとだけ。お母さんたちが言ってたのも聞いた」
「何て」
「雨を消すんじゃなくて、海へ返すって。秋雨ちゃんが、自分で返すって決めること。言葉にすること。何を返して、何を残すのかは、秋雨ちゃんが決めなきゃいけないって」
秋雨は封筒を見つめた。
指は、すぐには封筒に触れなかった。
畳の上で一度止まり、それから、端をつまんだ。
そのまま、秋雨は自分の方へ引き寄せた。
「……私、雨を返したい」
「うん」
「でも、私の中から、全部なくすんじゃなくて、雨巫女だった私も、島に降った雨も、チハルが雨巫女さまって呼んでくれた時間も、なくしたくない」
「じゃあ」
「返すものと、残すものを、ちゃんと分けたい。私——雨巫女だけを、辞めたい」
まひるの胸の奥が、熱くなった。
それは、まひるが用意した言葉ではなかった。
秋雨の言葉だった。
「行こう、秋雨ちゃん」
言ってから、まひるの体がぐらりと傾いた。
秋雨が慌てて手を伸ばす。
「まひるちゃん!」
「ご、ごめん。ちょっと、床下、思ったよりきつかった」
「ちょっとじゃないよ」
秋雨はまひるの膝を見た。
雨合羽の裾も、手の甲も、泥だらけだった。
息もまだ整いきっていない。
まひるは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「行けるよ。大丈夫」
「だめ」
「でも」
「まひるちゃんが倒れたら、私が困る」
秋雨の声は、さっきよりはっきりしていた。
まひるは言い返そうとして、やめた。
たしかに、立ち上がるだけで膝が震える。
「休もう」
「休んでる場合?」
「休んでから行く。休まないと、私はまた雨巫女の顔に戻っちゃう」
秋雨は封筒を胸に抱えた。
さっきまで両手で握りしめていた指が、今は紙の端を潰していなかった。
まひるは、秋雨に支えられながら、ゆっくりと畳に倒れ込んでいく。
「じゃあ、しょうがないか」
「そうだよ。大丈夫、禁止なんでしょ」
秋雨の口元が、ほんの一瞬ゆるんだ。
まひるは泥のついた袖を見下ろして、眉を寄せた。
「今の、笑うとこ?」
「笑顔になるところ」
秋雨がそう言ったあと、目元に水が滲んだ。
雨の水ではなかった。
こらえていた涙というより、張っていた糸がほどけて、勝手に浮いてきたものに見えた。
「え、秋雨ちゃん」
「違う」
「違うってなにが」
「悲しいんじゃない」
「でも、泣いてる。なにかあった? やっぱり怖い?」
まひるは慌てて袖を伸ばしかけて、自分の袖が泥だらけなのを見て止まった。
拭けない。
どうしよう、と手だけが宙に浮く。
「……安心しただけ」
秋雨はその手を見て、また少しだけ笑った。
目元に涙を溜めたままなのに、その顔は苦しそうではなかった。
「まひるちゃんが、来てくれたから」
「……うん、来たよ」
「正面からじゃなくて、こんなところから」
「秋雨ちゃんに会いたかったから」
秋雨の目元から、涙がひとつ落ちた。
涙がひとつ落ちても、天井の向こうの雨音はそのままだった。
「うん、雨巫女じゃなくて、私に会いに来てくれてうれしかった」
まひるは宙に浮かせた手を、そっと下ろした。
胸の奥が、じわじわ熱くなっていく。
秋雨の言葉で、まひるの中の張っていたものもほどけた。
部屋の隅に、薄い座布団が置いてあった。
秋雨がそれを引き寄せる。
まひるは汚れた雨合羽をできるだけ畳につけないように脱ぎ、封筒だけは秋雨のそばに置いた。
ほんの少しだけ。
呼吸を整えるだけ。
そう言い合って、二人は並んで横になった。
雨音が、天井の向こうで続いている。
もう、床板を押しつぶす音には聞こえなかった。
障子の向こうの光は、さっきより鈍くなっていた。
廊下の向こうで、一度だけ足音が止まった。
戸は開かなかった。
しばらくして、その気配は静かに離れていった。
秋雨は封筒に手を添えたまま、目を閉じた。
まひるも、泥の残った指先を丸める。
少しだけのつもりだった。
雨音が、天井の向こうで続いている。
戸の向こうの気配は、もう戻ってこない。
そのうち、雨音の下に、二人分の寝息が重なった。




