第37話 隣にいるということ
さっきまで空気に滲んでいた水気は、もう雨になっていた。
研究所の窓を、細い線がいくつも濡らしている。
外の木々の葉先から、絶え間なく水が落ちている。
遠くの水路の音も、建物の中まで届くようになっていた。
まひるは待機用の椅子に座ったまま、膝の上のスマホを見ていた。
秋雨からの返事は、あれから来ていない。
画面には、さっきの文字だけが残っている。
『大丈夫』
『昨日はありがとう』
まひるは画面の端を指で押さえた。
『大丈夫』としか言わない秋雨に、何か返したかった。
大丈夫じゃないなら、大丈夫って言わないで。
そう打ちかけて、消す。
そんなことを言ったら、秋雨はきっと、困る。
困って、また同じ返事をする。
きっと、短く『大丈夫』って。
廊下の奥では、研究員たちが短い言葉を交わしていた。
「神社周辺、また上がっています」
「海側の立ち入り制限、一本手前まで広げてください」
「雨巫女さまの状態確認は?」
「神社より、ケアスタッフが現在対応中との連絡が入っています」
雨巫女さま。状態確認。ケアスタッフ。
その言葉が通るたびに、まひるの胸の中で小さなささくれが増えていく。
研究所の人たちは走っていた。
電話を取り、資料を運び、島を守ろうとしている。
そのたびに、廊下を「雨巫女さま」という言葉が通っていく。
まひるは、膝の上の画面を伏せた。これは、わたしのワガママだ。
会議室の扉が開き、紗和が資料を抱えて出てきた。
まひるはすぐに駆け寄る。
「お母さん」
「まひる。ここで待っていてと言ったでしょう」
「待ってた。でも、もう無理。耐えられない」
紗和は眉を寄せた。
怒ってはいないが、決して良い返事はもらえそうにない。
「秋雨ちゃんに会わせて」
「今はまだ判断できないわ」
「まだって、いつまで?」
「雨の状態が読めない。神社側も対応中よ」
「対応ってなに。『大丈夫』って、秋雨ちゃんに言わせるのが対応なの」
まひるの声は、周囲の研究員にも聞こえる大きさだった。
近くにいた研究員が一瞬こちらを見る。
紗和は視線だけでそれを下げた。
「まひる、声を落として」
「落としたら、秋雨ちゃんのところに行けるの」
「そういう話ではないわ。言って、どうするつもりなの」
紗和は資料を胸の前で持ち直した。
紙の角が、少しだけ折れている。
まひるは、怯まなかった。
「隣にいる」
「あなたは、秋雨ちゃんに近すぎる」
「それ、さっきも聞いた」
「ならわかるでしょう。今は、その感情の揺れが雨に強く影響する可能性がある」
「じゃあ、秋雨ちゃんは誰ならいいの」
「神社側には、秋雨ちゃんのケアをする人がいる」
「いるなら、なんで雨が、強まっていくの」
紗和の口が止まった。
「チハルちゃんだって会えてない。わたしも会えない。神社の人も、研究所の人もいる。ケアする人もいる。でも、秋雨ちゃん、ずっと『大丈夫』って返してくる」
「……」
「それ、本当に誰かが隣にいるって言えるの?」
まひるの声は、紗和の言う通り小さかった……小さくなっていった。
紗和はすぐに答えなかった。
資料を持つ指だけが、一度、動いた。
その時、研究所の電話が鳴った。
誰かが受話器を取る声がする。
雨音が、窓を叩いている。
「秋雨ちゃんを、危ないものみたいに扱わないで欲しい」
「危ないものとして、扱っているわけではないわ」
「でも、そう聞こえるよ」
「本人を守るためでもあるの」
「本人って言うなら、秋雨ちゃんの話を聞いてよ」
紗和が返事を探していた、その時だった。
スマホが震えた。
画面を見た紗和の表情が変わる。
まひるとの会話をいったん切り、すぐに通話を取った。
「はい、朝倉です——」
まひるは、自分の言葉が、胸の中にそのまま返ってきていた。
秋雨ちゃんの話を聞く。
それを、まひるはちゃんとできていただろうか。
神社の石段で、秋雨の声を待てなかった時のことが、胸の奥に引っかかった。
あの時のまひるは、秋雨のためみたいな顔をして、先に答えを置いてしまった。
秋雨が何を抱えているのかを聞く前に、楽になるはずの道を、勝手に選んだ。
今度は、間違えたくない。
でも、何を言えば間違えないのか分からない。
「……はい。照合できましたか!」
近くの研究員が足を止めた。
会議室の扉を押さえた手が、そのまま動かなくなる。
「海へ返す、の解釈は……はい。雨を消すのではなく、預かった雨を循環に戻す。……条件は?」
まひるは動けなかった。
紗和の声だけを聞いていた。
「雨巫女本人の……意思。本人が、返すと決めること。……はい、言葉にし、誠意を示す必要がある」
本人の意思。
その言葉だけが、まひるの中に残った。
他の説明が、雨音の向こうへ遠のいていく。
それが必要なのに。
秋雨は今、誰にも大丈夫しか言えていない。
「そばにいる者の支え……介添えではなく、共に立ち会う者がいたと。儀式を見守る役割、ということですね」
紗和がまひるを見た。
通話を切ってからも、しばらく画面を見ていた。
抱えていた資料を、胸の前から机の上へ置く。
それから、まひるを見た。
「分かりました。要点だけで構いません。文面で送ってください。こちらこそ、よろしくお願いします」
紗和は通話を切った。
研究員の一人がすぐに端末へ向かう。
プリンターの起動音が、廊下の奥から聞こえた。
「……今の、なに」
まひるが聞くと、紗和は一度だけ目を閉じた。
「儀式に必要な条件が、見えてきたわ」
「秋雨ちゃん、辞められるの?」
「可能性が見えたわ。けれど、秋雨ちゃん本人が、雨を返すと決めなければならない」
「それって」
「ええ」
紗和は、まひるの言葉を途中で受けた。
「まひる。あなたが言っていたことは、間違っていなかった」
まひるは息を止めた。
「ただし、秋雨ちゃん本人の言葉が必要になる。雨巫女さまとしての返事ではなく、秋雨ちゃん自身の意思と誠意が必要よ」
「誠意って……」
「他の誰でもない。秋雨ちゃん自身が、何を返して、何を残すのかを決めるということ」
研究員が印刷された書面を持ってきた。
紗和はそれを受け取り、目を通す。
刷りたての白い面に、黒い文字が並んでいた。
端が、研究所の湿った空気を吸ってわずかに反っている。
「朝倉保護官」
別の研究員が、慎重な声で言った。
「朝倉まひるさんとの接触は、情動変化のリスクを伴います。ただ、本人意思の表出が条件になるなら、完全に避けることはできません」
「分かっています」
「問題は、誰の前なら、秋雨さん自身の言葉が出るかです。その点では、まひるさんの接触には意味があります」
「……仕方ないわね」
紗和が窓の外を見た。
まひるも促されるままに、同じ方を見る。
雨脚が、弱まっていた。
止んだわけではない。
窓ガラスには、まだ細い水の筋がいくつも残っている。
けれど、さっきまで叩きつけるようだった音は遠のき、外の水たまりにも、荒い波は立っていなかった。
紗和は手元の端末に視線を落とした。
「神社側から、秋雨ちゃんの呼吸は落ち着いてきたと連絡が来たわ。今なら、海側を避ければ行ける」
まひるは、窓の外から紗和へ視線を戻した。
「行く」
「最後まで聞きなさい」
「はい」
「……本当は、あなたを行かせたくない」
「……お母さん」
「これは、失敗した時に、あなたが背負えることじゃない。秋雨ちゃんに背負わせていいことでもない。だから、できるなら大人の側で何とかしたかった」
「……」
「でも、今は違う。秋雨ちゃん自身の言葉が必要で、その言葉を待てる相手が必要になった。だから、あなた達にお願いするわ」
紗和は書面を封筒に入れた。
そして、それをまひるの前に差し出す。
「持っていなさい」
「……いいの?」
「神社にはこちらから伝えるわ。あなたが向かうことも、秋雨ちゃんに確認が必要なことも」
「秋雨ちゃんに、会っていいの?」
「会って、確認してきなさい。ただし、秋雨ちゃんの代わりに決めてはいけないわよ」
「分かった」
まひるは封筒を受け取った。
指先に、硬い紙の感触が伝わる。
「責任はあなた一人のものじゃない。何が起きても、それは大人が判断したことよ」
「うん、ありがとう」
「ほら、今すぐ雨合羽を着て。懐中電灯も持って。スマホのGPSは切らないこと」
言わなきゃいけないことが増えた。
秋雨が全部を背負わなくていいことだけじゃない。
儀式のこと。
雨を海へ返すこと。
島の人も、チハルも、研究所の人も、お母さんも、秋雨の敵ではないこと。
わたしが隣にいたいこと。
でも、ひとつ並べるたびに、胸の奥で何かが引っかかった。
それは秋雨の言葉ではなく、まひるが用意した言葉だった。
「まひる」
紗和が呼んだ。
出入り口の前で、まひるは振り向く。
「危ないと思ったら、そこで引き返しなさい」
「分かった」
「それから、戻ったら叱るから」
「え」
「当たり前でしょ。今から行かせる判断をしたことと、子供を心配しないことは別なのよ」
「ずるっ」
紗和はそう言って、まひるの肩に手をかけた。
雨合羽の上から触れられているのに、指先が温かい気がした。
「覚悟して、戻ってきなさい」
「……うん。行ってきます」
研究所を出ると、雨はさっきより細くなっていた。
玄関の庇の先では、まだ水が糸のように落ちている。
まひるは封筒を上着の内側に入れ、雨合羽の前を閉じた。
懐中電灯の重さが、ポケットの中で揺れた。
神社までの道は、何度も歩いた。
海側や危ない道を通らなくても行ける。
石垣の横を抜けて、集会所の前を曲がって、鳥居へ向かう道。
まひるは研究所から、雨の中へ踏み出した。
足元で水が跳ねる。
頬に当たる雨は冷たかったが、前が見えないほどではない。
息を吸うたび、濡れた草と土の匂いが入ってきた。
神社まであと一本になる曲がり角の前、まひるはふと気付いた。
神社には言ってある。
紗和はそう言った。
それは安全のためで、必要な連絡だった。
でも、神社に話が通っているということは、誰かが待っているということだった。
源一郎かもしれない。
神社の人かもしれない。
研究所側のスタッフかもしれない。
その前で秋雨に会ったら、秋雨はどうするだろう。
大丈夫です。
迷惑はかけません。
私が決めます。
そんな声が、まだ聞いてもいないのに浮かんだ。
秋雨はきっと、周りを見る。
自分の言葉で誰が安心するか、誰が不安になるかを考える。
それから、雨巫女さまの顔に戻ってしまう。
「それじゃ……だめだ」
まひるは足をゆるめた。
集会所の軒先に入り、濡れた手を雨合羽で拭う。
神社に着くまでに、正面じゃない道を見つけなきゃいけない。
秋雨が雨巫女さまの顔をする前に、秋雨ちゃんに会える道を。
スマホを取り出し、連絡先を開く。
まひるは迷わず、チハルの名前を押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
雨が軒を強く叩いている。
まひるは、スマホを耳に強く当てた。
四回目。音が切れた。
雨音の向こうで、チハルの声がした。
「もしもし、まひるちゃん? 今、こっち結構忙しいんだけど」
「チハルちゃん。神社に──正面からじゃない入り方って、ある?」




