第36話 『大丈夫』
朝、まひるは雨音で目を覚ました。
まひるは、布団の中でしばらく耳を澄ませていた。
人を起こすほどの音ではなかった。
か細い水音だけが、窓の外で続いていた。
寝返りを打つと、シーツが肌にまとわりついた。
まひるは身体を起こして、窓へ向かう。
カーテンを開けると、外は白く曇っていた。
雨は降っているけど、まっすぐ降っているわけじゃない。
細かい水の粒が、空気の中にほどけて漂っていた。
宿の前の道はまだらに濡れていて、軒先から落ちる水も、続いているようで途切れている。
まひるは、台風の前みたいだと思った。
けれど、窓の隙間から入ってくる空気は湿っているだけ。
風も特段、荒れているわけではなかった。
ただ、遠くの海は見えない。空と海の境目が、白くにじんでいた。
スマホを取る。
画面には、秋雨からのメッセージはなかった。
まひるは少し迷ってから、文字を打った。
『おはよう』
『昨日、ちゃんと帰れた?』
『今日、会えそう?』
送信して、すぐに画面を見つめる。
既読はつかない。
胸の奥が、じわりと重くなった。
昨日の秋雨の背中が浮かぶ。
木陰のベンチから立ち上がって、「家に帰るね」と言った声。
頬には少し色が戻っていたのに、指だけが固く丸まっていた。
秋雨は、大丈夫と言った。
でも、立ち上がったあとの指先は、何かを探すみたいに空を握っていた。
廊下の方から、慌ただしい足音が聞こえた。
宿の人の声がする。まひるは聞き耳を立てる。
低く抑えているのに、言葉の端だけが部屋まで届いた。
「集会所の鍵、もう開けるって」
「海側は見回りしないほうが……」
「速報は出ていないな」
「研究所から連絡が来てるみたい」
まひるは急いで着替えた。
ドアを開けて廊下へ出ると、宿の空気がいつもと違っていた。
朝食の匂いはする。
けれど、それよりも濡れた布と、外から入り込んだ雨の匂いで包まれていた。
階段を下りかけたところで、玄関の戸が開く音がした。
「すみませーん。神社の方から来ました」
聞き慣れた声だった。
「チハルちゃん!」
まひるが反射的に呼ぶと、雨合羽を着たチハルが顔を上げた。
髪の先に細かい水滴がついている。
手には、透明な袋に入れた紙の束を持っていた。
「あ、まひるちゃん。起きてたんだ」
「何してるの、何かあったの?」
「民宿とか宿に連絡係で回ってる。源一郎さんの指示ね」
「まってまって、なにごと?」
「うーん、ごめん。説明してる時間ないんだよね」
まひるがチハルと話していると、奥の方から宿の人が現れた。
「どうも、チハルちゃん。連絡係かい?」
「はい。『海側には近づかない、必要なら集会所も使える。あと、外から来てる人はできるだけ山側にも行かないように』とのことです」
「ありがとうねぇ。わかった。お客さんにも伝えておくよ」
チハルは早口で言ってから、宿の人に紙を一枚渡した。
宿の人はうなずいて、奥へ声をかけに行く。
チハルはまひるを見る。
そして、いつもみたいに軽く笑おうとした。
けれど、口元だけで止まった。
「秋雨ちゃんは?」
まひるが聞くと、チハルの目が一瞬だけ揺れた。
「家か神社にいるって聞いてる」
「会った?」
「会えてない」
チハルは即答した。
それから、自分でもその答えが短すぎたと思ったのか、少し声を落とす。
「昨日から返事の内容がぼんやりしてるんだよね。大丈夫って返ってくるけど、あれ、絶対大丈夫じゃないよ」
まひるの手の中で、スマホが重くなった。
画面を見ても、秋雨からの返事はまだない。
「チハルちゃんも、行けないの?」
「うん。今は行くなって。あたしが行っても、たぶん秋ちゃん、また色々考えちゃうから」
チハルは、濡れた合羽の袖を握った。
「行きたいけどね。めちゃくちゃ行きたいけど、今は頼まれたことをやる。あたしまで勝手に動いて、結果として余計めんどくさくなる方が嫌だから」
その言い方は、チハルらしかった。
そして、チハルはまひるの目を見た。
「だから、まひるちゃんも、勝手に行かないで。行きたいのはあたしも同じだから」
そう言って、チハルはすぐに玄関から出ていく。
雨合羽の背中が、白い空気の中に混じって見えなくなった。
まひるは、階段の途中に立ったまま、しばらく動けなかった。
チハルには役目があった。
宿へ来て、民宿へ回って、言われたことをこなしている。
秋雨に会えないのは同じなのに、チハルは動いていた。
まひるだけが、何をしたらいいのか分からない。
スマホが震えた。
秋雨からだった。
『大丈夫』
『昨日はありがとう』
それだけだった。
まひるは画面を見つめた。
返事が来た。
来たのに、少しも安心できなかった。
「……大丈夫じゃない、じゃん」
思ったより、情けない声が出てきた。
階段を降り、食堂に移動する途中、洗面所から紗和が出てきた。
既に仕事用の上着を着て、髪を後ろでまとめている。
電話を耳に当てたまま、もう片方の手で資料の入った封筒を押さえていた。
「ええ。昨日の資料と、神社側の記録を照合してください。前総代さまの証言も含めて。はい、急ぎで」
紗和はまひるを見ると、電話の相手に短く断ってから通話を切った。
「お母さん」
「あら、起きていたのね」
「秋雨ちゃんのところに行きたい」
言葉が、考えるより先に出た。
チハルに止められたばかりなのに、喉の奥で止める暇もなかった。
紗和の封筒の角を押さえる指が、一度、動いた。
「今はだめ」
「どうして」
「まず、外が不安定。水路と海辺の確認が終わっていない。けれど、あなたの場合はそれだけじゃない」
紗和は、まひるの手元のスマホを見た。
「それだけじゃって」
「秋雨ちゃんから返事は?」
「え、あ、えっと、大丈夫って。でも、これ、大丈夫じゃないよ」
「そうね」
紗和は否定しなかった。
否定しなかったから、まひるの胸は余計にざわついた。
「そうねって……だったら、誰か側にいてあげなきゃ」
「まひる」
「雨合羽着る。言うことも聞く。秋雨ちゃんのところに——」
「まひる、聞いて。あなたが悪いという話ではないの」
紗和の声は低かった。
怒ってはいない。
でも、まひるの歩みを止めるには十分だった。
「あなたは、秋雨ちゃんに近すぎる。それこそ、秋雨ちゃんの感情を、大きく動かせてしまうくらいに」
まひるは息を止めた。
「本来なら、仲の良さはいいことよ。けれど、今は雨の状態が読めない。秋雨ちゃんの感情が動けば、雨も動く可能性がある」
「だから、わたしが」
「ええ、あなたに会うことで落ち着くかもしれない。でも、逆に大きく揺れるかもしれない」
まひるは自分の爪先を見た。
床板に、小さな水の跡がある。誰かが外から持ち込んだ雨だ。
「わたし、秋雨ちゃんにとって邪魔なの?」
小さい声で、まひるは言った。
「違うわ」
紗和は即座に言った。
「邪魔ではない。でもね、難しいの。特異現象が絡むと、近い関係そのものがリスクになることがあるのよ」
「……」
まひるは返事の代わりに、笑おうとした。
でも、うまくいかなかった。
肩が勝手に落ちる。
さっきまで胸の中で暴れていたものが、急にしぼんだみたいだった。
紗和はそんなまひるを見て、何か言いかけて、やめた。
そして、紗和のスマホがまた震える。
画面を見た紗和の表情が、仕事のものに戻った。
「研究所へ行くわ。あなたも来なさい」
「ぇ……行っていいの?」
「一人にしたら、何をするかわからないでしょう」
まひるは項垂れて、そのうえで小さくうなずいた。
うなずくしかなかった。
研究所へ向かう途中、雨は少しずつ強くなった。
島の道では、合羽を着た大人たちが動いていた。
水路を覗き込む人、集会所の扉を開ける人、海へ続く道に立って誰かを止めている人。
みんな慌ててはいない。
でも、普段の雨とは違う動き方をしていた。
台風に備えるみたいだった。
でも、これは台風ではない。
まひるにも、それだけは分かった。
研究所に着くと、玄関には濡れた傘と合羽が並んでいた。
中に入ると、電話の音と、誰かが資料をめくる音がした。
白い廊下の奥で、研究員らしい人が早足で通り過ぎる。
「雨量の推移、神社周辺だけ線が違います」
「昨日の資料、スキャン上がりました」
「記録班に回して。六番の注記、海へ返す、の項目も」
言葉の意味は、まひるには全部分からなかった。
でも、昨日見た資料がここでも扱われていることだけは分かった。
紗和は一度だけまひるを振り返る。
「ここで待っていて。会議室には入らないで」
「お母さん」
「これが今、私たちがしていることよ」
紗和はそう言って、廊下の奥へ消えた。
まひるは待機用の椅子に座った。
壁の時計の針が進む音がする。
窓の外では、雨がさっきよりはっきりと線になっていた。
しばらくして、研究員の一人が紙束を抱えて近づいてきた。
まひるが立ち上がると、その人は紙束を抱え直して足を止めた。
「朝倉保護官のお嬢さんですね。こちらで待機をお願いします」
「秋雨ちゃんは、今どうしてるんですか」
「雨巫女さまについては、神社側と確認中です」
雨巫女さま。
その呼び方が、まひるの胸に引っかかった。
「わたし、秋雨ちゃんのところに行けませんか」
「雨巫女さまには、雨巫女さまのケアスタッフがいるはずです。今はそちらに任せるべきかと」
丁寧な声だった。
冷たいわけではない。
むしろ、まひるを落ち着かせようとしているのが分かる。
でも、その言葉は、まひるの中で別の形になった。
雨巫女さま。ケアスタッフ。確認中。任せるべき。
「……秋雨ちゃんのこと、雨巫女さまって呼ぶんですね」
研究員は一瞬だけ目を瞬かせた。
「篠宮秋雨さんは、当代の雨巫女です。記録上も、対応上も、その呼称を使っています」
「そう、ですか」
秋雨ちゃんは、どこにいるのだろう。
今、誰の前で大丈夫と言っているのだろう。
まひるは椅子に座り直した。
言いたいことがいっぱいあったはずなのに、何一つ言葉にならなかった。
スマホを見る。
秋雨からの新しい返事はない。
さっきの『大丈夫』だけが、画面の中に残っている。
窓の外で、水路の音が大きくなった。
雨はもう、空気に混じる水ではなかった。
細い線になって、研究所の窓を濡らしている。
まひるは膝の上でスマホを握った。
行けない。会えない。今、ひとりかもしれない。
寂しくなっているのは、わたしの方なのに。
それなのに、窓の外の雨だけが強くなっていった。




