第35話 背負う者
秋雨の声が、資料室の中に落ちた。
「私の雨を、返す」
その言葉は、秋雨の中から出てきたもののはずだった。
前総代さまでも、紗和でも、まひるでもない。
秋雨が、自分で選んで口にした言葉だった。
それなのに、秋雨の顔は軽くなっていなかった。
秋雨は机の上に置かれた資料を見ているのに、目は文字の上を滑っている。
紙の端に触れた指先も、そのまま動かない。
「……今日は、ここまでにしましょう」
紗和が静かに言った。
秋雨が顔を上げる。
「でも、まだ」
「方向は見えたわ。けれど、手順はまだ照合が必要よ。今すぐ答えはでないわ」
紗和の声は柔らかかった。
けれど、そこから先へ進ませない線を引いているようだ。
「秋雨ちゃん。このことは、必要な人には共有させてもらうわ。源一郎さんと、前総代さま。それから研究所の記録を扱える人たち」
「島の人たちには……」
「すぐには広めない。秋雨ちゃんの気持ちを置いて、周りだけが先に動くようなことはさせない。私が止めるから」
まひるにも、紗和が秋雨を守ろうとしているのは分かった。
急がせないために。
周りに先走らせないために。
それでも、秋雨の肩は、そこでわずかに縮んだ。
待ってもらっている。
守ってもらっている。
そう聞こえるはずのものが、秋雨の中では、別の重さに変わっている。
「それと」
紗和は、資料を閉じてから秋雨を見た。
「辛くなったら、いつでもいらっしゃい」
「……え?」
「神社でも、家でも、宿でも、どこにいても苦しい時はあるでしょう」
その時の紗和は、保護官というより、まひるの知っている母の顔に近かった。
「もちろん、お父さんやお母さんが悪いという話ではなくてね。家族だからこそ、言いにくいこともあるでしょう」
紗和はまひるをちらりと見る。
まひるはその視線に気づいて、思わず横を向いた。
「……はい」
「私とまひるの所では、雨巫女さまとして話さなくていいわ。秋雨ちゃんとして来ていい」
秋雨は、返事をしなかった。
ただ、紗和を見ていた。
「娘の友達が疲れているなら、休ませるくらいはできると思うから」
まひるの胸が、わずかに緩んだ。
雨巫女さまではなく、娘の友達。
その言い方が、まひるには嬉しかった。
けれど、秋雨の口元はゆるまなかった。
制服の前で両手をそろえて、それから丁寧に頭を下げる。
「……ありがとうございます」
その丁寧さが、今は痛かった。
研究所を出ると、空は低くなっていた。
雨はまだ降っていない。
けれど、空気は湿っていて、肌に薄い膜が張りつくみたいだった。
道端の草の葉には、小さな水の点がついている。
雨粒なのか、葉から落ちた水なのか、分からない。
降りそうで、降らない。
湿気た空気と、重たい雲の色。
空全体が、ぎりぎりのところで持ちこたえていた。
まひるは秋雨を途中まで送っていくことにした。
秋雨は隣を歩いていた。
でも、歩けている、というだけだった。
「秋雨ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫」
聞いた瞬間、まひるは口を閉じた。
秋雨が、反射みたいに答えたからだ。
すぐ隣にいるのに、まひるのところまで届かない。
秋雨の声は、湿った空気に吸われてしまうようだった。
しばらく歩いていると、秋雨が手に持ったままのスマホが震えた。
「チハルちゃん?」
秋雨は画面を見て、うなずいた。
まひるの位置からも、短い文面が見えた。
『写真、役に立った?』
『秋ちゃん、大丈夫?』
秋雨は、ゆっくりと文字を打った。
『役に立った』
『ありがとう』
すぐに返信が来た。
『よかった』
『秋ちゃんが決めることだよ』
『どっちでも、わたしは秋ちゃんの味方だから』
画面には、チハルらしい短い言葉が並んでいた。
急かす文字は、ひとつもない。
それなのに、返信欄には何も入らない。
画面だけが、秋雨の顔を白く照らしていた。
決めていい。
味方でいる。
そのどちらも、秋雨の中では、別の何かに変わっていく。
まひるは、画面を見つめたまま動かない秋雨に声をかける。
「秋雨ちゃん、返事、あとでもいいと思うよ」
「あ、うん」
秋雨はスマホを胸の前に寄せてから、ポケットにしまった。
集落の道に入ると、店先に人がいた。
こちらに声をかけてきたわけではない。
ただ、何人かのグループが軒の下で話している。
その声の一部が、湿った空気に乗ってこちらまで届いた。
「雨巫女さま、研究所にいたんだって」
「顔色、あんまりよくなさそうね」
「このところ、ずっと無理してたんじゃないの」
「雨巫女さまが楽になるなら、それでいいんじゃないかね」
「でも、雨が降らなくなったら、島はどうなるんだろうか」
それらは秋雨を責めている声ではなかった。
雨巫女に対する心配はあった。不安もあった。
島で暮らしている人たちの、当たり前の声だった。
だからこそ、秋雨は無意識に拾ってしまう。
秋雨の歩幅が、また狭くなった。
秋雨の肩が、歩くたびに少しずつ前へ落ちていく。
足の出方も、さっきより遅い。
まひるは迷わず、秋雨の手に触れた。
——とても、冷たかった。
「座るよ」
「え」
「座って。今すぐ」
秋雨がまひるを見た。
まばたきの途中で、目だけが遅れている。
「大丈夫」
「大丈夫って言うの禁止」
「でも」
「でもも禁止。こっち来て」
道の脇に、木陰のベンチがあった。
神社への道とは違い、小休止を目的とした古いベンチ。
まひるは秋雨の手を引っぱってそこまで連れて行く。
雑だったと思う。
でも、丁寧に聞いていたら、秋雨はまた大丈夫と言う。
まひるは、それが分かってきたから強行した。
「歩ける」
「歩けるかどうかじゃない。秋雨ちゃん、酷い顔してる」
「まひるちゃん」
「名前呼んでもだめ。絆されない。とにかく座る」
秋雨は抵抗しきれず、ベンチに腰を下ろした。
まひるは目の前にしゃがみ込む。
握っている秋雨の手は、まだ冷たかった。
「秋雨ちゃん、今、みんなの言ったこと、全部考えてるでしょ」
「……みんな、間違ってない」
「うん」
まひるは否定しなかった。
否定したら、秋雨が守ろうとしているものまで乱暴に扱うことになる。
「チハルも、紗和さんも、まひるちゃんも、島の人たちも。みんな、私のことを考えてくれてる」
「そうだね、わたしもそれはそうだと思う」
秋雨は膝の上に視線を落とした。
制服の布が、指の下で浅く寄る。
「島のことを心配するのも、当然。雨がなくなったら困る人がいるのも、分かる。だから……」
まひるは何も言わなかった。
秋雨の言葉は、秋雨の中で煮詰まったものだ。
その全部を秋雨が抱えていたら、きっとまた立てなくなる。
「でも、決めていいって言われると、私がみんなのことを決めるって思うと」
秋雨の声が、膝の上に落ちた。
「私が間違えたら、チハルの気持ちも、紗和さんの気持ちも、島の人たちの気持ちも、全部、ぜんぶ」
「秋雨ちゃん」
まひるは、そこで遮った。
遮らないと、秋雨は最後まで言ってしまう。
最後まで言って、自分の中に入れてしまう。
自分だけを除いて、自分の言葉を作り出す。
だから、まひるは伝えた。
「わたし、違うと思う。そこは分けないと、その人たちの気持ちまで秋雨ちゃんが決めることになっちゃうよ」
秋雨が、息を止めた。
まひるは自分の言葉が、今の秋雨にとって強いものだとわかって言った。
でも、引っ込めなかった。
「……私が、決めつけちゃってたのかな」
「決めてたっていうより」
まひるは、握った手の冷たさを確かめた。
まだ冷たい。
でも、秋雨は逃げていない。
「秋雨ちゃんは、優しいから。誰かの気持ちを、関係ないものみたいに外へ置けないんだと思う」
「優しくなんて……」
「心配してくれた人が、本当に何を思ってるのか。チハルちゃんが、どうして秋雨ちゃんに任せたのか。お母さんが、どういうつもりで待つって言ったのか。島の人が、何を怖がって、何を願ってるのか」
「……」
「それ、全部秋雨ちゃんが預かったら、秋雨ちゃんがその人たちの答えまで出しちゃう。……違うかな?」
秋雨の指が、まひるの手の中で固まった。
まひるは自分がずるい聞き方をしたと思った。
「……違わない」
秋雨の顎が、ほんのわずかに上がった。
視線が、まひるのところで止まる。
「でも、聞こえたら」
「聞こえたら、聞こえただけでいいと思う」
「……いいの?」
「聞こえたことと、背負うことは違うよ。大事にすることと、代わりに答えを出すことも違うと思う」
まひるは、そこで一度だけ言葉を切った。
「チハルちゃんの気持ちは、チハルちゃんのものだよ。お母さんの気持ちは、お母さんのもの。島の人の不安も、その人たちのもの」
「……私のものじゃない」
「そう」
「私が、持たなくていいもの」
「持たなくていい。あ、見なかったことにしろって意味じゃないからね」
秋雨は、ゆっくりとうつむいた。
膝の上で、制服の布だけが浅く寄った。
「人は、人」
「うん」
「私は、私」
「そうそう」
「……分けても、いいのかな」
まひるは、すぐに「いい」と言いそうになった。
でも、それだけでは軽すぎる。
「一人ひとりの気持ちを、ちゃんと大事にするために分けようよ」
秋雨は目を閉じた。
長くはなかった。
次に目を開けた時、青白かった頬に、血の色がわずかに戻っていた。
握っていた手の冷たさも、さっきほど尖っていない。
その時、秋雨の頬に細い水の筋があるのが見えた。
雨ではない。
それなのに、秋雨の睫毛だけが濡れていた。
「秋雨ちゃん……」
まひるが呼ぶと、秋雨はゆっくり瞬きをした。
自分が泣いていることに、今気づいたみたいだった。
「……大丈夫」
そう言って、秋雨はベンチから立ち上がった。
まひるは反射的に手を伸ばしかけて、止めた。
止める言葉が喉まで上がった。
けれど、その言葉の形を考えた瞬間、まひるの手は動かなくなった。
「送ってくれて、ありがとう。もう大丈夫だから、私、家に帰るね」
秋雨は、そう言った。
頬には、さっきより色が戻っている。
けれど、制服の袖をつまむ指だけは、まだ固く丸まっていた。
「送る」
「子どもじゃないから、ひとりで帰れる」
秋雨は首を横に振った。
まひるの方を見て、ほんのわずかに口元を動かす。
「ありがとう、まひるちゃん」
それだけ言って、秋雨は木陰の外へ歩き出した。
まだ雨は降っていない。
けれど、道のところどころに、濡れたみたいな点が残っている。
まひるは、ベンチの前に立ったまま、秋雨の背中を見送った。
追いかけることも、呼び止めることもできなかった。
秋雨の背中が角を曲がって見えなくなってから、ようやく風が吹いた。
葉の上に溜まっていた水が、ぽつ、とひとつだけ落ちた。




