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第34話 雨巫女は辞められる

 神社から研究所まで、まひるは秋雨(あきさめ)の隣を歩いていた。

 先導せず、意識して隣に立っていた。

 秋雨は、さっきからあまり喋っていない。

 視線が道の端を滑り、石垣に触れて、まだ濡れていない水路の底へ落ちる。


 研究所へ向かう道は、神社へ来た時よりも静かに感じた。

 空の色は薄く沈んでいた。

 雲が厚いわけではないのに、海の方から湿った風が押し寄せてくる。

 雨はまだ、降っていない。


「秋雨ちゃん、疲れてない?」


 まひるが聞くと、秋雨は返事まで間を空けて、首を横に振った。


「大丈夫」

「本当に?」

「……今、他の場所に行く方が、もっと大丈夫じゃないと思うから」


 秋雨の手は、袖に触れかけて、また下りた。

 戻ろうとも、帰ろうとも言わない。

 ただ、一歩ごとに、靴音だけが慎重になっていた。



 研究所に着くと、紗和が玄関の前で待っていた。

 白衣ではなく、薄い上着を羽織っている。

 仕事中の顔だったけれど、まひるたちを見つけると、目元の力が抜けた。


「無事、来られたのね」

「うん」

「秋雨ちゃん、無理はしていない?」

「……していない、つもりです」


 紗和はうなずく前に、秋雨の顔を見た。

 それでも、引き返せとは言わなかった。

 研究所の中へ視線を向ける。


「資料室を空けてもらっているわ。前総代さまの話と照合できそうな古い記録を、閲覧できる範囲でお借りしたの」

「それ、わたしたちが見てもいいやつなの?」


 まひるが聞くと、紗和はうなずいた。


「研究所には確認済みよ。特異現象保護官の私が同席するなら、古い資料は見て構わないって」

「じゃあ、勝手に忍び込んでるわけじゃないんだ」

「当たり前。まひるだってそんなことしないでしょうに」


 紗和が眉を上げる。

 まひるは肩をすくめた。


「ただ、見られるのは、昔の聞き取りや古い記録だけよ。そもそも、現代の研究結果はほとんど更新されていないらしいの」

「詳しい人はいないの?」

「今の研究所は、雨巫女の研究を優先しているわけじゃないから、担当者はすぐに来られない。だから、読み方を教えてもらったわ」

「お母さんが解読したり、解釈したりするわけじゃないんだ」

「私は研究員ではないから、断定はしない。ただ、秋雨ちゃんが選ぶために必要な範囲を一緒に確認することはできる」

「ありがとうございます」

「いいのよ。娘の友達の頼みだもの」


 握られていた手が、秋雨の膝の上でほどける。


「こっちへいらっしゃい。資料は奥にまとめてもらっているわ」


 資料室には、ほかに誰もいなかった。

 机の上には封筒やファイル、古い記録の写しが並べられている。

 端には、研究所の人が残したらしい付箋が貼られていた。


「これらの資料はね、昔から、雨巫女関連として分類だけはされていたみたい。ただ、意味までは整理されていないの」


 神社の奥とは違う匂いがした。

 紙と埃ではなく、紙と機械と、乾いたインクの匂い。

 秋雨は椅子に座る前に、机の上を眺めた。

 そこに並んでいるものが、自分のことを書いたものかもしれない。

 秋雨より先に強張ったのは、まひるの方だった。


「さて、まずは前総代さまから聞いたことを、言える範囲で教えてもらえるかしら」


 紗和が言った。

 まひるは秋雨を見る。

 秋雨はうなずいた。


「雨から離れた人はいました」

「それから、雨巫女が預かった雨を、海へ返すための形があるって言ってた」

「あと、雨巫女は人が勝手に捨てるものじゃなく、人の都合で選び直すものでもないとも仰ってました」


 秋雨とまひるが言葉を継ぐと、紗和は机の上の資料をめくった。

 付箋の貼られた箇所で指が止まる。


「海へ返す、ね」

「研究所の資料にもあるの?」

「あるわ。ただ、断片的なの。『雨は消えず、海へ返る』とか、『名は残り、役目は離れる』とか。観測記録というより、昔の聞き取りの写しに近い」

「虫食いなんだ」


 紗和は、資料の端を揃えた。


「そうね。足りない」


 その言葉で、まひるの胸の奥が鳴った。

 それを、自分たちは持っているかもしれない。

 でも、それは三人だけの秘密だった。

 秋雨と、まひると、チハルだけで見つけたもの。

 まひるが秋雨を見ると、秋雨と目があった。

 二人で頷き合う。


「あの」


 まひるが口を開いた。


「わたしたち、前に見つけたものがある」

「見つけたもの?」

「倉庫で。秋雨ちゃんと、わたしと、チハルちゃんで」


 紗和の指が、資料の端で止まった。

 怒っている顔ではないが、まひるの目を見つめた。


「……秘密にしようって、なったから」

「誰の?」

「三人の」


 まひるは、そこだけははっきり言った。

 紗和は、机の端に置いた指を一度だけ引いた。

 それから、秋雨へ向き直る。


「秋雨ちゃん。聞いてもいいものかしら」

「……チハルにも、えと、一緒に見つけた友達にも一度聞きたいです」

「ええ、その方がいいと思うわ」


 秋雨がスマホを取り出し、まひるに渡した。

 まひるは、必要なことだけを端的に打ち込む。


『前総代さまと話してきた』

『今は研究所にいる』

『神社の情報と合わせて調べたい』

『あの紙を見せてもいいかな』


 チハルにメッセージを送る。

 すぐに既読がついて、返事が来た。


『いいよ』

『秋ちゃんが知りたいなら出して』

『今撮ってくるね』


「今撮ってくるって」


 まひるが言うと、秋雨が顔を上げた。


「今から?」

「うん。チハル、近くにいるのかな」

「そうだと思う。十分もかからずに返ってくるんじゃないかな」


 秋雨の声から、張りつめていたものが抜ける。

 けれど、そのあとすぐ、膝の上の指が重なり直した。


「……はあ、チハルまで巻き込んじゃった」

「チハルちゃんは巻き込むって、決めたんじゃなかったの?」

「それは、そうだけど……でも」

「秋雨ちゃんが頼んだから動いてくれてるんじゃなくて、チハルちゃんが自分で動いてるんだよ」


 まひるは、スマホの画面を伏せるようにして秋雨に返した。

 まだ写真は届かない。

 研究所の資料だけが、机の上に並んでいた。


「チハルちゃんって、そういうところあるじゃん」

「……ある」

「だから、大丈夫だよ」


 秋雨は、膝の上で指を組み直した。

 爪の先が、袖ではなく手の甲に触れる。

 紗和が、机の上の資料に目を落とす。


「写真が来るまでに、こちらの資料のことだけ先に確認しておきましょう」

「あ、うん。お願い」

「はい、お願いします」


 秋雨は、机の上に置かれた封筒を見ていた。

 古い資料。閲覧できる範囲。

 封筒の白い角は、秋雨の手の届かないところで揃えられていた。


「まず、ここにあるのは、秋雨ちゃんを雨巫女に縛るための資料じゃないわ」

「縛るって、そんな言い方する?」

「まひる、急がない。これは、秋雨ちゃんの選択肢を増やすためにあるもの。少なくとも、私はそう考えている」


 まひるは紗和に制されて、大人しくなる。

 秋雨の返事はなかった。

 封筒を見ているのに、そこにある文字を読んでいるようには見えなかった。


 そこに書かれているかもしれないのは、雨巫女のことだった。

 雨から離れた人のことだった。

 そして、これから秋雨もそうなるかもしれないことだった。


「……私が、見ていいものなのかな」


 秋雨が言った。

 紗和は答えを急がず、封筒の角を揃えた。


「見るかどうかは、秋雨ちゃんが決められるわ」

「……いいんですか」

「ええ。最後に決めるのは、秋雨ちゃんでいいと思う。今、受け止めきれないと思うなら、日を改めてもいいし」


 秋雨の膝の上で、制服の布だけがわずかに寄った。


「前総代さまは、知らないままでは選べないと言ったあなたに、話をしてくれたんでしょう」

「……はい」

「なら、この資料も同じ。私たち大人は答えを知らないのよ。できるのは、考える手助けだけ」


 待っている時間のあいだに、机の上の紙は少しずつ姿を変えていった。

 封筒は秋雨を囲むようには置かれていなかった。

 紗和が一枚ずつ、秋雨の前へ向けて並べ直していく。


 その時、秋雨のスマホが震えた。

 画面に、画像が一枚送られてくる。


『これで読める?』

『読めなかったら撮り直す』


 暗い倉庫の奥、古い棚の下。

 傾いた紙面に、スマホのライトが白く当たっている。

 端の方には、チハルの指らしい影が入り込んでいた。

 写っている文字は掠れていたけれど、いくつかは読めた。

 海へ返す。雨を返す。名を残す。


「チハル、送ってくれた」


 秋雨は『大丈夫。ありがとう』と返してから、写真を開いた。


「はやっ」


 まひるが言うと、秋雨の口元がわずかに緩んだ。

 秋雨は、スマホを机の上に置いた。

 紗和は画面に触れず、秋雨へ確認する。


「見てもいい?」

「……はい」


 秋雨が硬い声で答えてから、紗和は画面を覗き込んだ。

 スマホの向きだけを変える。

 机の上に、研究所の記録と、チハルから届いた写真が並んだ。

 そして、まひると秋雨の中に、前総代さまとの会話が思い出される。


 ——海。島。涙。雨。雨巫女。名を残す。返す。雨から離れる。

 さっきはまだ、ばらばらの単語だった。

 今は、別々の場所から同じ机の上に集まり、紡がれ、儀式の輪郭をはっきりさせていく。


「……内容を整理しましょうか」


 紗和が資料の位置を直し、秋雨がうなずき、まひるは椅子に座り直した。

 三人の視線が、同じ机の上へ戻る。

 紗和が、資料に貼られた付箋を指で押さえた。


「まず、研究所の資料から。添えられたメモでは『海へ返す行為とは、雨そのものを消すことではない』らしいわ」

「雨を消さない……」


 秋雨が、紙の上の文字をなぞるように呟いた。


「要約すると『雨巫女が預かっていた雨を、島と海の循環へ戻す』と読むそうよ」


 まひるはスマホの画面を見た。

 チハルから届いた写真には、古い書き付けの文字が斜めに写っている。

 そこにも、同じ言葉があった。

 海。雨。返す。


「倉庫で見つけた書き付けにも、同じことが書いてあるよ」


 まひるが言うと、紗和はスマホの画面と研究所の資料を見比べた。


「そうね。研究所の記録だけなら断片だけれど、こちらの書き付けと合わせると意味が絞られる」

「前総代さまも言ってたよね。島と海に礼を尽くして、預かったものを返すって」

「ええ」


 紗和は、付箋の貼られた資料を一枚ずらした。

 下から、別の写しが出てくる。

 そこにも短く、雨から離れた者、という文字があった。


「雨から離れた雨巫女の記録。研究所側に残っているのは断片だけだけれど、前総代さまの話とは矛盾しないわ」

「じゃあ……」


 まひるは、秋雨を見た。

 秋雨は机の上の紙と、スマホの画面を見ていた。

 その目は、どれかひとつの文字ではなく、並べられた全部を追っていた。


「研究所の資料には、雨を海へ返すってある」

「倉庫の書き付けにも、雨と海と、返すという言葉があるわね」

「前総代さまは、それが雨巫女の預かったものを返す形だって言った」


 まひるの中で、ばらばらだったものがつながっていく。

 雨を消すのではない。

 雨を捨てるのでもない。

 雨巫女が預かっていた雨を、島と海へ返す。

 そのために、形——儀式が残されていた。


「なら、前総代さまが言っていた儀式って、やっぱり」


 まひるは、ゆっくりと言った。


「秋雨ちゃんと雨との結びつきを、解くためのもの」


 紗和はすぐには答えなかった。

 資料に添えられたメモをもう一度見て、それから秋雨へ視線を移した。


「少なくとも、この記録と書き付けを合わせる限り、そう読めるわ」


 資料室の音が、窓の外の風だけになった。

 秋雨の視線は、付箋の端から動かなかった。

 雨を海へ、雨巫女の役目を島へ。

 そして、雨巫女としての結びつきをほどく。


「これが、雨から離れるための形」


 紗和の声は低かった。

 けれど、事務的にはならなかった。


 雨から離れる。

 それは、前総代さまが使った言葉だった。

 辞める、とは言わなかった。

 けれど、雨巫女と雨との結びつきをほどくなら、それはもう、同じ意味に近かった。


 まひるは、もう一度、秋雨を見た。

 言葉にしてしまえば、スマホの明かりも、付箋の貼られた紙も、もうただの資料ではなくなる。

 でも、ここまで集まったものを、なかったことにはできなかった。


「それって、つまり」


 まひるは、息を整えた。


「秋雨ちゃんは、雨巫女を辞められるってことだ」


 秋雨は、すぐには動かなかった。

 ただ、スマホの画面に写った古い文字と、研究所の資料と、紗和が押さえている付箋を順番に見た。


「……辞められる」


 秋雨の声は、ほとんど紙の上に落ちるみたいだった。


「私が、雨巫女を」


 その言葉が、資料室の中に残った。


「前総代さま……」


 秋雨がぽつりと、独り言のように言葉をもらした。

 まひるは、無意識に机に肘をついて、ため息混じりに呟いた。


「あのおばあちゃん、言い方回りくどすぎ……」


 紗和は注意しようとしたのか、口を開きかけて、閉じた。

 秋雨は口をぱくぱくとしたまま、まひるの顔を見ていた。

 否定する声はなかった。


「……分かりやすい人では、ないから」


 秋雨が言った。

 まひるは椅子の背にもたれかかって、すぐに戻った。


「ごめん、失礼なのは分かってる」

「分かっているなら、声に出さない」

「でも、そうじゃん」

「……そうでは、あるけれど、ね」


 紗和が咳払いをした。


「言い方はともかく、何を返すのかは見えてきたわね」


 秋雨の唇が動いた。


「雨を、返す」


 まひるは、うなずいた。


「役目を、返す」

「うん」

「雨巫女では、なくなる」


 その言葉は、資料室の中で小さく響いた。

 まひるは、何か言おうとして、言えなかった。


 よかったね、ではなかった。

 これで大丈夫だね、でもなかった。

 怖くなった? でもなかった。


 目の前に置かれたその方法は、扉というより、深い水際だった。

 一歩近づけば、足元が濡れる。引き込まれる。

 もう戻れないところまで、来てしまった。


「ただ」


 紗和が、紙の端を押さえた。


「雨巫女だった過去が、消えるわけではないわ」

「……あっ」

「記録も、舞も、名前も、島で過ごした時間も、なかったことにはならない」


 秋雨の手が、紙の端に届く前に引かれた。

 まひるは、その手を見ていた。

 雨巫女であったことを消す儀式じゃない。


「雨巫女だった秋雨ちゃんを消すんじゃなくて、預かっていた雨を返すんだよね」


 秋雨は、うなずかなかった。

 首を横にも振らなかった。

 ただ、紙の上に置かれた言葉を見ていた。


「私が」


 秋雨が呟いた。


「預かっていた、雨」


 声は尖らなかった。

 ただ、言い終えたあと、秋雨の視線が紙の白い余白に落ちた。


「秋雨ちゃん、大丈夫?」


 呼ぶと、秋雨はまひるを見た。

 机の上の紙と、スマホの明かりが、二人の間に残っている。

 秋雨は、繕った笑みを浮かべた。


「私の雨を、返すんだよね」


 秋雨は、何度目か、繰り返すようにそう言った。

 とても静かな声だった。


 研究所の外で、風が窓を撫でた。

 まだ雨は降っていない。

 けれど、まひるは窓の向こうの空が、さっきよりも低くなっているのを見た。

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