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第33話 海と島に返すもの

「ただし、島や海が、人にそこまで求めておるのかは分からぬ」


 前総代さまは、そこで初めて湯呑みに口をつけた。

 飲んだのは、ほんの一口だけだった。


「儀式はもっと簡単に済むものなのかもしれぬ」


 まひるは思わず顔を上げた。

 それなら、と言いかけて、口を閉じる。

 前総代さまの話は、そこで終わらない。


「だが、分からぬからこそ、人は形を残した」


 秋雨(あきさめ)の指が、また袖に触れた。

 握るのではなく、端を確かめるように。

 雨巫女の輪郭に、触れるような手付きだった。


「預かった雨を、勝手に捨てぬために」


 まひるは、秋雨の袖から目を離せなかった。


「雨巫女を、人の都合で選び直さぬために」


 その言葉で、秋雨の手が止まった。


「島と海に対して、不敬とならぬように」


 前総代さまの声量は、最初から最後まで変わらなかった。

 それでも、まひるの背中は丸まらなかった。

 声が大きいから怖いのではない。

 この人は、逃げ道を塞ぐように正しいことを言う。

 しかも、それを急がない。追い詰めない。

 だから余計に、逃げられない。


「故に、儀式は伏せられてきた」

「伏せる……」


 まひるが繰り返すと、前総代さまはまひるを見た。

 前総代さまの視線は、まひるを責めてはいなかった。

 むしろ、昔話をしてくれるような、穏やかな表情をしていた。


「表に出れば、人は考えるじゃろう。今の雨巫女でなくてもよいのではないか」


 けれど、その言葉は軽くなかった。

 まひるは、膝の上で重ねた指を握り直す。


「もっとふさわしい者がいるのではないか」


 秋雨の指先が、袖から離れた。

 その手は、膝の上で小さく丸まっている。


「早く次を探せばよいのではないか」


 まひるは何も言えなかった。

 その考えがひどいと、すぐに言い切りたかった。

 でも、誰かが本当にそう考えるかもしれないことも、分かってしまった。


「そうなれば、雨巫女は選び直せる役目になる」


 前総代さまは、そこで秋雨を見た。

 秋雨は顔を上げなかった。


「それは、島にも海にも不敬じゃ」


 畳の上に置かれた秋雨の手が、さらに小さく見えた。

 まひるは、膝の上の手を握った。

 雨巫女を辞める方法がある。

 それだけなら、救いみたいに思えていたのに。


「何より、雨巫女本人に無理を強いる」


 助かる道だと思ったものの先に、別の子の顔が浮かんだ。

 名前も知らない、まだ雨巫女ではない誰かの顔だった。


「改めて言おう。秋雨よ、形はある」


 前総代さまは、もう一度そう言った。

 さっきと同じ言葉なのに、今度は違って聞こえた。


「だが、形だけでは足りぬ」


 前総代さまは、秋雨を見た。

 秋雨も、前総代さまを見ていた。


「何を返すのか、何を残すのか、何を返してほしいのか」


 まひるは、倉庫の紙にあった文字を思い出す。

 海、涙、名を、返す。


「それを決めるのは、雨巫女本人じゃ」

「私が……決める」

「そうじゃ」

「でも、私は」


 秋雨はそこで言葉を止めた。

 まひるは、秋雨が何を言おうとしたのか分からなかった。

 辞めたい。辞めたくない。大切にしたい。分からない。

 そのどれもきっと、間違っていない。


「……秋雨」


 秋雨の肩が小さく揺れる。


「お主は、分からぬものを大切に扱える」

「……はい」

「それは悪いことではない」


 前総代さまの声が、そこで初めて角を落とした。


「だが、大切にすることと、すべてを背負うことは違う」

「……」

「お主は、島の声を聞きすぎる」

「島の、声」

「背負うべきものと、背負えてしまうものを(たが)えるな」


 秋雨は、何も言わなかった。

 まひるは、胸の奥がざわつくのを感じた。

 それは正しいと思った。

 でも、同時に、正しいだけでは秋雨を守れない気もした。


「雨巫女が何を選ぼうと、誰かは安心し、誰かは怒り、誰かは寂しがり、誰かは泣くものじゃ」


 秋雨は背負えてしまう。

 背負わなくていいと言われても、秋雨なら拾ってしまう。

 分からないものを、分からないまま放っておけない子だから。

 秋雨は俯いていた。唇をきゅっと閉め、言葉を必死に探していた。


「——でも」


 けれど、まひるが、気づけば口を開いていた。

 秋雨がこちらを見る。

 前総代さまも、まひるを見た。

 まひるは一度だけ唇を結び、それでも声を出した。


「背負わなくていいって言われても、秋雨ちゃんは、背負っちゃうと思います」


 秋雨の目が、揺れた。

 まひるは止まれなかった。


「島の人が困ってたら自分のせいにするし、私が何か言われてもきっと自分のせいにする。雨のことだって……」


 そこまで言って、言葉が詰まった。

 秋雨が雨巫女であることを、なかったことみたいには言いたくない。

 秋雨だけに、なんでも背負わせたくない。

 だけど、それだけで飛び出したから、その先が分からなかった。

 まひるは自分の言葉の足りなさに、歯を噛んだ。


「ならば」


 一呼吸置いて、前総代さまの声がした。


「その時、お主はどうする」


 まひるは顔を上げた。


「その子が、背負わんでよいものまで背負おうとした時」


 助けたいと思った。

 そばにいたいと思った。


「お主は、何をする」


 でも、すぐには答えられなかった。

 それが具体的に何をすることなのか、分からなかった。


「よくよく考えておくことじゃ」


 前総代さまは、また湯呑みに指を添えた。


「その時に、慌てぬようにな」


 部屋の中に、静かな時間が落ちた。

 まひるは膝の上で手を握る。

 前総代さまの言葉は、重かった。


 けれど、秋雨を責めるためのものではなかった。

 まひるを試すためだけのものでもなかった。

 来るかもしれない時のために、そこへ置かれた言葉だった。


「話は、ここまでじゃ」


 前総代さまが言った。

 まひるは思わず目を上げる。

 秋雨が戸惑った顔のまま、問いかける。


「ここまで、ですか」

「すべてを話したところで、お主らの求める答えにはならぬ」

「え、でも」


 まひるは言いかけて、源一郎の視線に気づいた。

 ただ、続きを待て、という視線だった。

 源一郎は、前総代さまの斜め後ろで身じろぎ、口を開いた。


「神社に残る話だけでは、形しか分からないこともあるだろう」

「形しか……」

「手がかりが欲しいなら、研究所に行ってみるといい」


 まひるは源一郎を見る。

 源一郎は秋雨へ視線を向けた。


「今すぐ、何か見つかるとは限らないが、秋雨が顔を出すことには意味があると思う」

「……」

「記録だけを見るのと、秋雨と話をするのでは、向こうの対応も変わるだろう」


 秋雨は、しばらく黙っていた。

 それから、小さくうなずいた。


「……分かりました」


 部屋を出る時、まひるはもう一度だけ前総代さまを見た。

 前総代さまは、こちらを見ていなかった。

 視線は、湯呑みの縁を越えて、部屋の奥に留まっていた。


 秋雨が立ち上がる。

 まひるも続いた。

 戸を閉める直前、前総代さまの声が聞こえた。


「秋雨」

「はい」

「大切に扱うことは、悪いことではない」

「……はい」


 秋雨は返事をした。

 前総代さまは、そこで間を置いた。


「だが、お主自身も、大切に扱え」


 秋雨は、すぐには返事をしなかった。

 まひるは隣で、秋雨の膝の上に置かれた手を見る。

 秋雨は、下を向き、自分の手を見る。

 そして礼をした。


「……はい、ありがとうございます」


 秋雨は、戸を閉めた。

 廊下に出ると、まひるの肩から力が抜けた。

 秋雨も、張っていた糸をゆるめたように見えた。


「……すごい人だったね」


 まひるが言うと、秋雨は困ったように笑った。


「うん」

「怖いっていうか、言ってることはたぶん正しいんだけど」


 秋雨は否定しなかった。

 ただ、袖の端を指でなぞった。


「詰将棋みたいで、どこにも逃げ場がない。本当に息が詰まる」

「……うん」


 秋雨が小さくうなずく。

 まひるは、それで少しだけ笑いそうになった。

 笑える場面ではない。

 でも、秋雨も同じことを思っているのが分かって、胸の奥の硬さがほどけた。





「今の雨巫女は、辛く見えるか」


 前総代さまが、閉じた戸を見たまま言った。


「立派に見えますよ」


 源一郎は答えた。


「少なくとも、あの子はずっと、そうあろうとしてきた」

「ならば、続けさせるべきか」


 源一郎は、すぐには答えなかった。


「……立派であることと、選べることは、別です」


 前総代さまは、しばらく黙っていた。

 それから、ほんの少しだけ息を吐いた。


「……少し、大人げなかったかのう」

「いいえ、我々は大人ですから」


 源一郎は、少しだけ笑った。


「それに、子供たちは、私たちが思っているよりも強いですよ」

「やんちゃ坊主が言うようになったな、源一郎」

「前総代さまほどでは」

「口も達者になった」

「おかげさまで」


 前総代さまは、閉じた戸をしばらく眺めていた。





 廊下を歩く帰り道、まひるのスマホが震えた。

 画面を見ると、紗和からだった。

 まひるは秋雨を見てから、画面を押した。


「もしもし」

『まひる? 今、話せる?』

「うん。大丈夫。今さっき、前総代さまとのお話が終わったところ」

『ならちょうど良かった。研究所側で資料が用意できたみたいよ』

「本当?」

『前総代さまから何か聞いたなら、照合できるかもしれないわ』

「それっていつでも見られるの?」

『研究所の方は事前に一言くれれば構わないそうよ。ただし、秋雨ちゃんが疲れているなら、明日以降にした方がいいわ。無理はさせないであげて』


 まひるは、秋雨を見た。

 秋雨はまひるの声を聞きながら、こちらを見ている。

 まひるはスマホを耳から離した。


「研究所、今から来てもいいって」

「……」

「でも、明日以降でもいいらしい。秋雨ちゃんが疲れてるなら、無理しなくていいって。どうする?」


 秋雨は、廊下の床板を一枚分だけ見つめていた。

 まひるは、その一枚の幅がやけに長いと思った。

 秋雨の指が、袖へ伸びかけて止まる。

 それから、顔を上げる。


「今、行きたい」


 声は小さかった。

 でも、迷ってはいなかった。


「明日まで待ったら、たぶん、考えすぎるから」

「……うん」

「怖いけど」

「うん」

「知らないまま戻る方が、もっと怖い」


 まひるは、スマホを耳に戻した。


「お母さん」

『聞こえてるわ』

「今から行く」

『分かった。気をつけて来なさい』


 通話が切れる。

 まひるはスマホを握ったまま、秋雨を見た。


「じゃあ、行こう」

「うん」


 秋雨がうなずく。

 神社の廊下は、来た時よりも暗く見えた。

 でも、まひるは秋雨の隣に立った。

 前に出るのでも、後ろから押すのでもなく、隣に。


 暗がりの中、秋雨は一歩、歩き出した。

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