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第32話 前総代さま

 戸が開くと、奥の部屋の空気が流れてきた。

 湿った木、古い畳、紙。

 そして、雨の匂いがした。まだ降っていないのに。

 それでも、まひるは鼻の奥で雨を感じた。


 招かれた部屋は、想像より広くなかった。

 壁際には古い木箱がいくつも積まれ、低い棚には紙束や布に包まれたものが並んでいる。

 神具らしいものもあったけれど、どれも声高に存在を主張するものではなかった。

 前総代さまの部屋というより、私室のような雰囲気を感じた。


「入れ」


 部屋の奥に、前総代さまが座っていた。

 小柄な人だった。

 湯呑みを持って、部屋の中央に座布団を敷いて座っていた。

 けれど、その人が座っているだけで、部屋の奥が一段低く沈んで見えた。

 秋雨(あきさめ)の横に立ったまま、無意識に背筋が伸びていた。

 隣で秋雨の肩が、わずかに上がる。


「失礼します」


 源一郎が一礼してから、先に部屋へ入る。

 秋雨もそれに続いた。まひるは半歩遅れて足を踏み入れる。

 畳を踏む音が、思ったより大きく聞こえた。

 まひるが座る位置に迷っていると、源一郎が目で場所を示した。

 秋雨の斜め後ろ。

 まひるはそこに腰を下ろした。

 源一郎は、前総代さまの斜め後ろに座った。


「何を聞きに来た」


 前総代さまは、すぐにそう言った。

 挨拶も、天気の話も、前置きもなかった。

 けれど、責めるような棘は感じられなかった。

 まひるは、ただ、問いだけが畳の上に置かれたように思った。


 秋雨は、すぐには答えなかった。

 俯いて、白い袖の端を、指先でつまんでいる。

 力を込めて握るほどではない。

 ただ、布がそこにあることを確かめるように、触れていた。


 まひるの喉まで、言葉が上がってきた。

 けれど秋雨の袖の端が、まだ動いている。

 まひるは、その言葉を飲み込んだ。

 前総代さまも、秋雨を待っている。

 ほんの少し経ってから、秋雨が顔を上げて、口を開いた。


「——雨から離れた人のことを、知りたいです」


 声は小さかった。

 けれど、まひるの耳にはちゃんと届いた。

 前総代さまは、まばたきをひとつした。


「雨から離れた者の話、か」

「はい」


 秋雨が答える。目線は正面ではなく、畳や指先に散っていた。

 前総代さまは、湯呑みに添えていた指を、ゆっくりと離した。


「雨巫女を辞める方法、ではなくか」


 秋雨の肩がびくりと震える。

 指が、袖を強くつまんだ。

 まひるの視線は、秋雨の横顔ではなく、その指先に止まった。

 言い直すのかと思った。

 けれど、秋雨は首を横に振らなかった。


「……まだ、そう言えるかは分かりません」

「ほう」

「でも、知らないままでは、選べないと思いました」

「なるほどな……」


 辞めたい、とは言わなかった。

 でも、そこから目を逸らす言葉でもなかった。

 部屋の外で、風が木の葉を揺らす音がした。

 まひるは正座して合わせた膝の上で指を重ねる。


「秋雨、お主は知っておるな」


 前総代さまが言った。

 秋雨は前総代さまに顔を向ける。


「わしも、かつては雨巫女だった」

「……はい」


 秋雨の返事は、驚きではなかった。

 まひるは、自分の息を飲む音を聞いた。


 前総代さまは元総代だけなではなく、元雨巫女。

 秋雨がこの人の前で固くなる理由が、まひるの中で遅れて音を立てた。

 前総代さまは、まひるの反応には触れなかった。

 最初から、まひるが知らないことも分かっていたみたいだった。


「わしは、雨巫女であったことを悔いてはおらん」


 秋雨の肩が固くなった。

 まひるにも分かった。

 次に何を言われるのか、秋雨が身構えたのだ。

 まひるも同じように、身体が硬くなるのを感じた。


「だが」


 前総代さまは、そこで言葉を切った。


「悔いておらんことと、お主に同じ道を歩けと言うことは、別じゃろう」


 秋雨とまひるの肩から、わずかに力が抜けた。

 けれど前総代さまの視線は、まだ秋雨から離れない。


「雨から離れた者は、何人かおる」

「……何人も、ですか」


 まひるは、思わず口を挟んでいた。

 前総代さまの視線がまひるへ向く。

 まひるは肩をすくめたくなったが、どうにか目線を逸らさずに耐える。


「何人も、と言えるほど多くはない」

「……すみません」

「別に謝ることではない」


 前総代さまは、秋雨へ視線を戻した。


「病で舞えなくなった者もおる。家の事情で島を出た者もおる。自分の足で外へ向かった者もおる」


 秋雨は黙って聞いていた。

 雨巫女は、ずっと雨巫女のままなのだと思っていた。

 少なくとも、秋雨はそう思い込んでいたのだと思う。


「ほとんどは歴史の記録。しかし、わしも幼い頃に離れる者を見たことがある」


 それは救いのようにも聞こえた。

 けれど、秋雨の表情は明るくならなかった。

 前総代さまの表情がわずかに、曇っていたからだ。


「皆が、同じように離れたわけではない」

「同じように、ではない……」

「置いていくものも、雨巫女によって異なる」


 まひるは、眉を寄せた。


「置いていった、ですか?」


 前総代さまはうなずく。


「雨、名、役目、あるいは……雨巫女であった自分そのものかもしれぬな」


 前総代さまは一度秋雨から目を外し、遠くを見ていた。

 言葉はゆっくりだった。

 けれど、ひとつずつ置かれるたびに、部屋の空気が重くなっていく。

 まひるの中では、まだ言葉同士がつながらなかった。


「返すものは千差万別よ。しかし、返すための形はある」


 前総代さまは言った。


「雨巫女が預かった雨を、海へ返すための形じゃ」


 まひるの胸が、小さく鳴った。

 海へ返す。

 その言葉に、覚えがあった。

 けれど、今はまだ口に出せなかった。

 倉庫で見つけた古い書き付け。

 まひると、秋雨と、チハルだけで見たもの。

 意味の分からなかった言葉に、細い線が一本引かれた。


「わしらは形式上それを、儀式と呼んではおるがな」


 前総代さまは、湯呑みを持ち上げた。

 飲むのかと思ったが、口はつけなかった。


「それは、人が分かりやすくそう呼んでおるだけじゃ。島や海が、手順を説明したわけではない」

「……手順」


 まひるの口から、変な声がこぼれた。

 源一郎が小さく咳払いをした。

 秋雨もまひるの方へ目を向ける。

 まひるは小さく頭を下げた。

 前総代さまは、気にした様子もなく続ける。


「始まりまでは分からぬ。振り返ろうにも古すぎる」


 前総代さまは、畳の上へ視線を落とした。

 そこに何かが書かれているわけではない。

 ただ、長く踏まれてきた畳の目を、古い記録の続きみたいに眺めていた。


「誰が最初にそうしたのかも、未だ記録からは見つけられん」


 まひるは、膝の上の手に力を入れた。

 分からない。ここに来てから、その言葉ばかり聞いている気がする。

 けれど前総代さまの言うそれは、諦めとは少し違っていた。


「ただ、雨から離れた者はいた」


 秋雨の袖が、膝の上で小さく揺れた。

 その言葉だけは、秋雨の中にまっすぐ落ちたのだと分かった。


「そして、そのたびに、雨巫女が預かった雨をどう扱うかが問われた」


 預かった雨。

 まひるは、その言い方を頭の中で繰り返した。

 降らせた雨でも、止まらない雨でもない。

 前総代さまは、さっきからずっと、雨巫女を責める言葉を使わない。

 まひるは、それが不思議だった。


「源一郎」

「はい。……水だけなら、今の時代、外から運ぶこともできる」


 源一郎が、前総代さまの後ろから静かに言った。


「浄水の設備もある。非常時の手段も、昔よりずっと増えた。昔のように、雨巫女がいなくなると、明日から島が干上がるという話ではない」


 まひるは、少しだけ息を吐きかけた。


「なら——」

「だが、それで同じ島でいられるかは、別の話だ」


 源一郎の声は、そこで重くなった。


「この島は、雨を待ってきた。雨に礼を言い、雨巫女に祈り、祭りを続けてきた。水だけなら代えはある。だが、雨を待つ島でなくなることを、簡単に受け入れられる者ばかりではない」


 前総代さまは、源一郎の補足に頷いていた。


「つまり、人の意思で捨てるものではない」


 秋雨の膝の上で、指がほどけた。


「人の都合で選び直すものでもない」


 まひるは、その言葉で倉庫の古い紙を思い出した。

 海、雨、名を残す。

 あの時はばらばらだった文字が、今になって頭の中に並べられていく。


「島と海に礼を尽くし、預かったものを返す」


 前総代さまは、湯呑みに口をつけないまま、静かに置いた。

 ことり、と小さな音がする。

 それだけで、部屋の中の空気が一度区切られた。


「そのための形だけが、今なお長く残っておる」


 秋雨は、息を止めているみたいに静かだった。

 まひるも、すぐには息を継げなかった。

 形。儀式。海へ返す。

 前総代さまの言葉が、ひとつずつ意味を持っていった。

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