第31話 雨巫女としての所作
朝から、風が湿っていた。
宿の窓を開けると、潮の匂いがいつもより濃く入り込んできた。
雨は降っていないけど、空は低い。
白い雲の底が、島の上に広がっていた。
まひるは、窓の外をしばらく眺めていた。
スマホが短く震えたのは、その時だった。
通知には、秋雨からのメッセージ。
『まひるちゃん。午前中、神社に来られる?』
まひるはすぐに画面を開いた。
『午前の舞が終わったら、源一郎さんと話すことになった』
『一緒にいてほしい』
短い文章だった。
秋雨らしい、簡潔な言葉だった。
短いぶん、余白に意味が重なった。
まひるは親指を動かした。
『行く』
『今から出る』
『秋雨ちゃん、大丈夫?』
間を置いて、返信が来た。
『大丈夫』
『まだ何も起きてない』
『九時半くらい』
まだ、何も起きてない。
その言い方が、まひるの胸に引っかかった。
まるで、これから何かが起きることを、秋雨自身が分かっているみたいだった。
まひるはスマホを握ったまま、もう一度窓の外を見た。
風が吹いて、宿の前の木の葉が裏返る。
雨はまだ降っていない。
けれど、空気の奥に湿ったものを感じた。
まひるは支度をして宿を出た。
道はいつもより静かだった。
いつもは人の声や物音が聞こえて来るのに、今日は風の音ばかりが耳についた。
まひるは神社へ向かって歩いた。
途中、店先の掃除をしていた人が顔を上げる。
「あ、まひるちゃん。神社?」
「はい」
まひるが答えると、その人はいつも通りに笑った。
「秋雨ちゃん、今日は舞があるからね」
「だから朝から神社にいるんですね」
「祭りの前にね。無事に終わりますようにって祈るんだよ」
その人は、普段の挨拶と同じ調子で言った。
「気をつけてね。今日は風が強くなりそうだから」
「ありがとうございます」
普通の会話だった。
けれど、まひるが数歩進んだあと、背中の方で声が小さくなった。
「……最近、秋雨ちゃんとよく一緒にいる子よね」
「紗和さんの娘さんでしょ」
「ああ、あの子が」
まひるは振り返らなかった。
責められているわけではなかった。
悪意のある声でもなかった。
ただ、話題にされている。それだけだ。
自分が秋雨と一緒にいることを、島の人たちは見ている。
背中に残った小声が、風よりも長く耳に残った。
まひるは、スマホを入れたポケットを服の上から軽く押さえた。
秋雨ちゃんは、それにも気づいているのだろうか。
神社に近づくにつれて、風が強くなり袖や髪を引くようになった。
鳥居の前で足を止めると、紙垂が白く揺れていた。
境内には、人が何人かいた。
祭りの準備をしている人たちと、舞殿の近くで静かに待っている人たちだった。
まひるは鳥居をくぐった。
秋雨は、舞殿にいた。
白に近い淡い色の装束をまとって、静かに立っている。
袖が風を受けて、ゆっくりと揺れていた。
秋雨は、こちらに気づいていない。
あるいは、気づいていても、今は振り向かないのかもしれなかった。
「始まるよ」
近くにいた誰かが、小さく言った。
その声につられるように、境内のざわめきが薄くなる。
自分の舞は、雨を呼ぶための舞ではない。と秋雨は前に言っていた。
『祭りが無事に行われるように』
『島の人たちが、穏やかにその日を迎えられるように』
『そう願うための舞』
その時のことを、まひるは思い出した。
秋雨の足先が、板の上を静かに滑る。
音はほとんどしなかった。
大きく跳ねるわけでも、誰かに見せつけるように動くわけでもない。
ただ、決められた型を、ひとつずつ丁寧になぞっていく。
袖が上がる。指先が空へ向く。
視線が、見えない何かを追うように遠くなる。
まひるはその姿を綺麗だと思い、だからこそ、胸の奥が苦しくなった。
この舞が終われば、秋雨は源一郎と話す。
雨巫女を辞めることに繋がるかもしれない話をする。
そのことを、秋雨自身も分かっているはずだった。
「……すごい」
それでも、舞は乱れなかった。
足先は迷っていなかった。
袖の動きも、視線の置き方も流れるようだった。
何度も繰り返して、身体に覚えさせたものなのだろう。
秋雨が最後に袖を下ろし、止まった。
まひるはその袖から目が離せなかった。
簡単に捨てられるものなら、こんなふうには舞えないと思った。
秋雨は最後の姿勢のまま、しばらく動かなかった。
風だけが、袖の端を揺らしていた。
やがて、秋雨がゆっくりと顔を上げる。
そこで初めて、まひると目が合った。
秋雨の表情が、ほんの少しだけゆるんだ。
雨巫女さまとして立っていた顔から、まひるの知っている秋雨ちゃんの顔へ戻る。
その一瞬を見て、まひるはようやく息ができた。
「綺麗だった」
気づいたら、まひるはそう言っていた。
秋雨の視線が、舞殿の板に一度落ちた。
「ありがとう」
それだけの返事だった。
けれど、その声は、舞の間ずっと遠くにいた秋雨が、こちら側に戻ってきた合図みたいだった。
境内の奥から、足音がした。
まひると秋雨がそちらを向くと、源一郎が歩いてきていた。
「秋雨」
源一郎は急ぐでもなく、けれど迷いなく舞殿の方に来た。
まひるに気づくと軽く目を向け、それから秋雨を見た。
源一郎の声は、まひるが思っていたよりもやわらかかった。
「はい」
「少し、話せるか」
秋雨の肩が、わずかに強張った。
源一郎はそれを見ても、急かさなかった。
ただ、秋雨が答えるのを待っている。
秋雨は、まひるを見た。
「まひるちゃんも」
「うん」
秋雨の指先が袖の端をつまんだ。
それと同時に、まひるはすぐに答えた。
源一郎は、まひるを見た。
それから秋雨に視線を戻し、短くうなずいた。
「……いいだろう」
源一郎は、二人を境内の奥へ促した。
表の神社から奥へ進むと、空気が変わった。
外の風の音が、戸や壁に吸われていった。
廊下の板は古く、歩くたびに低く鳴った。
祭りの準備で人が出入りしている境内とは違い、こちら側は人の気配がない。
源一郎が先を歩いた。
秋雨の歩く速さが、いつもより少しだけ遅かった。
だから、まひるは何も言わず、その横に並んだ。
廊下を進むうちに、源一郎の背中が離れた。
二人の足音だけが、板の上に残った。
「秋雨ちゃん」
小さく呼ぶと、秋雨がこちらを見た。
「ゆっくりでいいよ」
秋雨は瞬きをして、小さくうなずいた。
「……うん」
まひるはそれ以上言わなかった。
言葉の代わりに、秋雨の歩幅に合わせた。
源一郎は一度だけ振り返った。
それでも、何も言わなかった。
二人が遅れていることに気づいているはずなのに、急かさない。
ただ歩調を落として、それでも二人より半歩先を歩いた。
やがて、源一郎は古い戸の前で足を止めた。
廊下の奥にある、表からは見えない部屋だった。
戸の木目は黒く、金具には錆が浮いている。
そこには、長く使われてきた静けさがあった。
「前総代さま」
その呼びかけを聞いた瞬間、まひるの頭の中で、ひとつの言葉が繋がった。
前総代さま——本屋の店主が言っていた人だ。
昔のことを知っている人。
島の人たちが、名前ではなく役目で呼ぶ人。
その言葉だけで、秋雨の横顔が強張る人。
源一郎は、戸の向こうへ静かに告げた。
「雨巫女をお連れしました」
少しの間があった。
「来たか」
戸の向こうから聞こえた女性の声は、低く、静かだった。
秋雨の肩が、わずかに上がる。
けれど、足は下がらなかった。
まひるは、ほんのわずかに前に出た。
源一郎が、静かに戸を開ける。
部屋の奥の空気が、ゆっくりとこちらへ流れ出した。




