第30話 物語が、動き始めた音がした。
チハルが社務所の前まで戻ると、机を運んでいた大人たちの手が一瞬だけ止まった。
誰も、泣いていたのかと聞かなかった。
何を話していたのかとも聞かなかった。
縄の束を担いでいた男の人が、隣にいた人へ顔を向ける。
「……さっき、何か聞こえたか?」
わざとらしいくらい、いつもの声だった。
隣の人も、同じくらいわざとらしく首を傾げる。
「いんや、何にも」
「そうか。じゃあ、サボりは終わりだ。仕事するぞ」
男の人はそう言って、縄の束を担ぎ直した。
その横で、別の人が机の脚を持ち上げる。
止まりかけていた祭りの準備が、何事もなかったみたいに動き出す。
チハルは袖で目元を押さえたまま、ほんの少しだけ頭を下げた。
ありがとう、とは言えなかった。
言ったら、また泣きそうだった。
代わりに、チハルは抱えていたバインダーを開いた。
紙の角は、折れたままだった。
折れたところを伸ばそうとして、途中でやめる。
不格好な紙を持ったまま、顔を上げた。
「チハルちゃん、机、こっちでいいか?」
鼻の奥がまだ痛い。
声も、いつもの高さに戻らない。
けれど、できるだけ平然を保とうとした。
「……違います。そっちは去年の配置です。今年は、こっち側を空けるって言ってました」
「ああ、そうだった。助かる」
「あと、縄はまだほどかないでください。先に柱の位置、確認してからです」
いつもなら、もう少し軽く言えた。
冗談を挟んで、相手が笑いやすい形にできた。
けれど今は、必要なことを言うだけで喉の奥が擦れた。
それでも大人たちは、何も聞かなかった。
チハルの声が鼻にかかっていることも、目元が赤いことも、見えていないふりをしてくれた。
見えていないふりをしながら、いつもより少しだけゆっくり動いてくれた。
その優しさが、チハルには痛かった。
けれど、それと同時にありがたいと思った。
チハルは社務所の横から境内を見た。
秋雨はまだ、さっきの場所に立っている。
まひるが、境内の端から戻ってきている。
チハルはそちらへ行かなかった。
行ったら、また何か言ってしまう気がした。
今は、これ以上、秋雨の前でぐちゃぐちゃになりたくなかった。
だからチハルは、バインダーを抱え直す。
「チハルちゃん」
「はい」
「こっち、手伝ってくれるか」
「……行きます」
返事をして、チハルは社務所の方へ戻った。
逃げるためではない。
でも、今はまだ。
◆
まひるが戻ってきた時、秋雨はまだ紙垂の束を持ったまま立っていた。
白い紙が風で揺れている。
秋雨の指の中で、その揺れだけが小さく残っていた。
「秋雨ちゃん」
まひるの声に、秋雨はゆっくり振り向いた。
まひるはスマートフォンを秋雨に見せる。
「ごめん。電話、ちゃんとはしてない」
「うん」
「お母さんには、あとで宿で話したいって送っただけ」
秋雨は頷いた。
責める気にはならなかった。
まひるが戻ってきたことに、少しだけほっとしている自分がいた。
まひるは社務所の方を見た。
大人たちは普通に動いている。
机を運び、縄をほどかずにまとめる。
誰かが声をかければ、別の誰かが返す。
いつも通り、祭りに向けて準備をしていた。
けれど、まひるにも分かった。
それは普通であろうとしているのだと。
「……チハルちゃん、言っちゃった?」
「……うん」
「わたしもね、全部じゃないけど、聞こえた。雨巫女さまを辞めるとか、嫌だとか」
「うん。もう、なかったことにはできないと思う」
秋雨は紙垂の束を胸元に寄せた。
まひるは、大丈夫とも、何とかなるとも言わなかった。
「でも、こっちから全部話して回る必要はないと思う」
まひるは言った。
「嘘はつかない。でも、今言わなくていいことまで、こっちから言わなくていいと思う」
「……できるかな」
「全部は無理かも」
まひるは正直に言った。
「でも、わたしたちはそうする。チハルちゃんも、たぶん今それやってる」
「チハルが?」
「うん。社務所で。あの感じ、たぶん大人の人も分かってくれてる気がする」
秋雨は社務所の方を見た。
チハルの姿は人影に紛れている。
水色のTシャツが、机の向こうに一瞬だけ見えた。
隣にはいない。
でもチハルはそこにいて、チハルにできることをしている。
「まひるちゃん」
「なに?」
「私、チハルにひどいこと言ったし、チハルも私にひどいこと言った」
「うん」
「でもね、聞けた」
まひるは何度も頷いた。
何があったのかは聞かなかった。
秋雨が話すのを待っていた。
その顔を見て、秋雨は少しだけ呼吸が楽になった。
「秋雨ちゃん」
「なあに、まひるちゃん」
「今日、宿に来る?」
「宿?」
「夕方、お母さんと話すときに、秋雨ちゃんもいた方がいいと思う。長期休みに秋雨ちゃんを呼びたいって話も、ちゃんとしたいし」
「でも、それって嘘にならないのかな」
それから、少しだけ視線を泳がせる。
まひるは慎重そうに、一つずつ言葉を置いていった。
「うちの方さ、島みたいに海は近くないんだけど」
「うん?」
「駅前に、たい焼き屋さんがあるんだ。あと、ちょっと歩くと大きい本屋があって、漫画も小説もいっぱいある」
「本屋……うん、本屋行ってみたいな」
「秋雨ちゃん、きっと好きだと思う」
まひるはそこで言葉に詰まった。
励ましたいのだと、秋雨にも分かった。
けれど、まひるはそういうことに慣れていない。
だから、自分が知っている場所の名前を、一つずつ並べている。
「あと、駅の近くに川がある。海じゃないけど、水はある」
「水」
「うん。雨が降ってなくても流れてる水、川……えっと」
まひるは言ってから、自分で困った顔をした。
「ごめん。なんか、変な説明になっちゃったね」
「ううん」
秋雨は首を横に振った。
緊張していた肩の力が抜けた気がした。
「聞きたい」
「え?」
「もっと教えてほしいな。まひるちゃんの町のこと」
「……うん。じゃあ、宿まで歩きながら話そうよ」
まひるは少しだけ笑った。
それは、秋雨を無理に明るくするための笑顔ではなかった。
言葉を探して、ようやく一つ見つけたみたいな笑顔だった。
秋雨はもう一度、社務所の方を見た。
チハルはこちらを見ていなかった。
でも、チハルが戻ってこないことの意味は、分かる気がした。
今は、三人で集まって続きを話す時間ではない。
チハルには、チハルの場所がある。
「行く」
秋雨が言うと、まひるは頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう」
そのまま二人は、神社を出た。
宿へ向かう道の途中で、まひるは自分の町のことを少しだけ話した。
たい焼き屋の皮が薄いこと。
本屋の二階に漫画の棚があること。
川沿いの道は、夕方になると犬の散歩をしている人が多いこと。
どれも励ましとしては不器用で、話の順番も少しばらばらだった。
それでも秋雨には、まひるが自分のために言葉を探しているのだと分かった。
宿に着いてから、二人はまひるの部屋で、紗和に何をどこまで話すかを確認した。
けれど、長い相談にはならなかった。
今日話せることと、まだ言葉にできないことを分けるだけで、夕飯の時間になった。
◆
夕飯の膳が並ぶころには、外の光はだいぶ薄くなっていた。
宿の食堂には、煮魚の匂いと味噌汁の湯気が広がっている。
まひるの隣に秋雨が座り、その斜め前に紗和が座っていた。
紗和は、秋雨が来たことに驚きはしたけれど、深くは聞かなかった。
ただ、まひるが「長期休みに秋雨ちゃんを呼びたい」と切り出すと、箸を置いた。
「この間の話の続きね」
「うん。まだ、ちゃんとスケジュールを組んでるわけじゃないけど」
まひるが言う。
その横で、秋雨は膝の上に置いた手を握った。
紗和は秋雨を見る。
問い詰める目ではなかった。
仕事の顔でも、母親の顔でもある、少し難しい表情だった。
「秋雨ちゃんの雨巫女に関する話でいいのよね」
「はい、お願いします」
「遊びに来ること自体は、不可能ではないと思うわ」
秋雨の返事を受けて、紗和はゆっくりと話し始める。
「ただ、秋雨ちゃんの場合は、普通の旅行とは少し違うのよ。島を離れた時に、現象がどう出るのか。どのくらい離れたら影響が変わるのか」
「外に出たら、危ないですか」
「危ない、と決まっているわけではないわ。分からないことが多い、という方が近いかしら」
秋雨が聞くと、紗和はすぐには答えなかった。
「だから、お家の人や神社だけじゃなくて、研究所側でも確認しておきたいの」
「確認、ですか」
「ええ。だから、私が言えるのは、準備なしに連れ出すのはよくない。まひるの友達として来てもらうにしても、秋雨ちゃん自身の安全と、周囲への影響を考えないといけない」
まひるは黙って聞いていた。
いつもなら、そこで何か言い返していたかもしれない。
でも今日は、秋雨が聞いていたから、紗和の言葉に反発しなかった。
「ただ、研究所にできるのは、現象の観測や、安全面の確認なのよ。それに、雨巫女という役目そのものは、研究所が決めたものではないでしょう」
「……はい」
「島の外へ出るにしても、神社側の理解は必要になると思うわ。秋雨ちゃんがどうしたいのかも含めて」
紗和はそこで、少しだけ言葉を止めた。
秋雨が何かを抱えていることには、気づいているのかもしれなかった。
けれど、紗和はそれを名前で呼ばなかった。
ただ、秋雨が自分で言うまで、待っている。
「神社側の古い記録って、お母さんの方では見られないの?」
まひるが聞いた。
紗和は首を横に振る。
「研究所に共有されているものもあるらしいけど、全部ではないみたい」
「じゃあ、神社の古いことを知ってる人に聞くしかないんだ」
「そうね。特に古い祭祀や役目の引き継ぎに関するものは、神社側に残っているものが多いはずよ」
まひるは秋雨を見た。
秋雨も、まひるを見た。
二人とも、同じ名前を思い浮かべていた。
前総代さま。そして、雨から離れた人。
チハルが残してくれた道筋は、そこへ向かっている。
夕飯のあと、秋雨は宿の玄関で靴を履いた。
外はもう暗かった。
雨は降っていない。
けれど、神社のある方角だけが、昼間より少し遠く見えた。
「秋雨ちゃん」
まひるが呼ぶ。
秋雨は振り返った。
「明日、神社行く?」
「うん。午前のお役目があるから」
「そっか」
「まひるちゃんは」
「行ってもいい?」
まひるはそう言ってから、少し言い直す。
「あ、でも、秋雨ちゃんが一人で行きたいなら、離れてる」
「……ありがとう」
秋雨は小さく頷いた。
その夜、源一郎から連絡は来なかった。
チハルからも、何も届かなかった。
けれど秋雨は、眠る前に何度も、昼の光を受けてきらめいたチハルの涙を思い出した。
◆
翌朝、秋雨はいつも通りに神社へ向かった。
いつも通りに手を清め、いつも通りに社殿の前へ立つ。
けれど、いつも通りではないものがあった。
社務所の前にいた大人たちの声が、少しだけ低い。
秋雨に気づくと、何人かがいつも通り挨拶をしてくれる。
そのいつも通りが、昨日よりも丁重だった。
社務所の前に、源一郎がいた。
秋雨に気づくと、持っていた紙を机に置く。
「秋雨」
呼ばれて、秋雨は足を止めた。
「午前のお役目が終わったあと、少し話せるか」
問いかける声は、いつもより低かった。
けれど、命令ではなかった。
秋雨に、断る余地を残している声だった。
「……今じゃないと、だめですか」
秋雨が聞くと、源一郎はすぐに首を横に振った。
「今じゃなくていい。だが、大切な話だ。できれば、早めに時間をもらいたい」
秋雨は源一郎を見た。
源一郎は目を逸らさなかった。
責めている顔ではない。
でも、昨日までと同じ顔でもなかった。
秋雨は紙垂の束を持つ手に、少しだけ力を入れる。
「……分かりました。お役目が終わったら」
源一郎は静かに頷いた。
「ありがとう。では、待っている」
それ以上、源一郎は何も言わなかった。
秋雨も、それ以上は聞かなかった。
ただ、社殿へ向かって歩き出す足が、いつもより重かった。
雨は降っていない。
空は晴れている。
それなのに、神社の空気だけが、昨日よりずっと湿っているような気がした。




