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雨巫女さまじゃなくて、秋雨ちゃんと呼びたかった。  作者: 氷澄そら
第5章 雨巫女さまと、秘密の気持ち。
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第29話 雨巫女さまと、チハル。

 チハルはバインダーを抱えたまま、秋雨(あきさめ)の前に立っている。

 指先に力が入っていた。

 折れた紙の角は、もうきれいな形をしていなかった。


「……何か言いなよ」


 チハルが言った。

 声はまだ、いつもの形を保っている。


 秋雨は、すぐ謝りたかった。

 謝って、楽になりたかった。


 ここで謝れば、チハルはきっと笑う。

 そんなことないよ、と言ってくれる。

 秋ちゃんが悪いわけじゃないよ、と続けてくれる。

 それは、嫌だった。


「私は謝らないよ」

「……ほんと、嫌なとこ見てるね」


 チハルは笑おうとした。

 でも、その笑いは口元に届く前に止まった。


「でもまあ、そうだね。秋ちゃんが謝る理由はどこにもない。だって、秋ちゃんは、何も悪くないんだから」


 チハルが足元の小石を蹴る。


「雨巫女さまになったのも、泣いたら雨が降るのも、秋ちゃんが選んだことじゃない」

「うん」

「だから辞めたくなるのもわかるよ」


 チハルはそこで言葉を切った。

 バインダーを抱え直す。

 紙の角が、また折れた。


「なのに、なんでこんなに嫌なんだろうね」


 秋雨は答えなかった。


「手伝うって言ったのに。秋ちゃんが苦しいなら、手伝うべきなのに、秋ちゃんが雨巫女さまを辞めたいって言うたびに、喉の奥が変になる」


 チハルの声は、まだ繕えていた。

 けれど、少しずつ綻び、抱えていたものが見えていく。


「チハル」

「誰かが秋ちゃんに『雨巫女さまじゃなくても秋ちゃんだよ』って言うたびに、分かってるのに、分かってるはずなのに、なんか――」


 チハルの靴先が、砂の上に短い線を引いた。

 引いた線を、すぐに自分で踏み消す。


「――じゃあ、あたしは何だったのって、思う」


 今度は、はっきりとした声になっていた。


「チハルはチハルだよ」

「秋ちゃんはそう言うよ。まひるちゃんもそう言うと思う。『雨巫女さまになれなくても、そんなの関係ないよ』って」

「そんなふうに言わない」

「同じだよ」


 チハルの声が擦れた。

 秋雨は、紙垂の束を持つ手を下ろしたまま、動けなかった。


「秋ちゃんは、いつもそう。不器用だけど素直に、ありのままの言葉を伝えてくれる」


 チハルはバインダーから片手を離した。

 けれど、その手はすぐに行き場をなくして、また端を掴む。


「あたしは、そういうの得意じゃない」

「チハルは、ずっと上手にやってた」

「上手にやれてたから、嫌なんだよ」


 その言葉だけ、チハルは噛むように言った。

 秋雨は目を逸らさない。必死に歯を噛んでチハルを見る。

 チハルは、今にも視線を外しそうになりながら、でも外さなかった。


「ねぇ、秋ちゃん」

「チハル……」

「あたしだって、雨巫女さま候補だったんだよ?」


 チハルが言った。


「秋ちゃんと一緒に神社に通って、雨巫女さまのお話いっぱい聞いたよね。雨のことも、島のことも、役目のことも」

「うん」

「でも、大人たちがどういう顔で雨巫女さまを見るのか、知ってた?」


 秋雨は頷けなかった。

 チハルは笑った。

 短くて、ひび割れた笑いが、すぐに消えた。


「秋ちゃんが泣いた日も覚えてるよ。晴れて暑くて、誰かが水を撒いたあとで、石畳の一部だけ色が濃くなってた」

「……うん」

「なんでもない日だったのに、秋ちゃんが急に泣いた。あたし、最初は転んだのかと思った」


 秋雨は首を横に振る。

 その日のことは、今でも変な形で残っている。

 涙の熱さ。喉の奥にあった重さ。空の色が、変わる瞬間。


「でも違った。秋ちゃん、どこも痛そうじゃなかった。ただ泣いてた。ぽろぽろと、涙だけを零してた」


 でも、秋雨が一番覚えていたのは、チハルがそばにいてくれたことなのに。


「それで言ったんだよね。雨が降るよって。みんなで秋ちゃんの方を見て、一斉に空を見上げて」


 チハルの声が低くなった。


「大人たちが来て、秋ちゃんを囲んで、先代の名前が出て、本当に雨が降って、これはって誰かが言っちゃって」


 秋雨の指が、紙垂の端に触れた。

 白い紙が風で揺れる。


「……あたしもそこにいたのにね」

「チハルはずっと、一緒にいてくれたよ」

「別に、秋ちゃんが選ばれたのが嫌なわけじゃない。ただ、秋ちゃんが泣いて、雨が降って、みんなが秋ちゃんを見た時ね」


 チハルはそこで息を詰めた。

 堪えていたものが、チハルの瞳いっぱいに満ちる。


「あたし、すごいって思った」

「……うん」

「怖いとも思った。大変だとも思った。だけど、秋ちゃんが何も分かってないのも分かった。だから、助けなきゃって思った」


 バインダーの端を掴む手が震えた。

 胸元に抱えた紙の角が、さらに潰れる。


「でも、それだけじゃなかった」

「……」

「……あたしだって」


 チハルの声が割れた。


「あたしだって、雨巫女さまになりたかった!」


 叫んだあとで、チハル自身が息を止めた。

 今の言葉を、自分で聞いてしまったみたいだった。

 けれど、もう遅かった。

 一度外れた蓋は、戻らなかった。


「こんなの……言いたくなかった……っ」


 チハルの目から涙が落ちた。

 一粒だけでは終わらなかった。

 頬を伝って、顎から落ちて、バインダーの表紙に小さな跡を作る。

 太陽の下、チハルの涙が落ちる。


「秋ちゃんに言いたくなかった!」


 秋雨の手から、紙垂の束が少しずれた。

 白い紙が指の間で擦れて、乾いた音を立てる。

 秋雨は握り直すこともできなかった。


「秋ちゃんが悪いわけじゃないなんて分かってる! そんなの、ずっと分かってた! 秋ちゃんだって怖かったし、秋ちゃんだって大変だったし、秋ちゃんが雨巫女さまになりたかったわけじゃないのも、全部ぜんぶ分かってる!」


 言葉が速くなる。

 息が追いついていない。

 それでも、チハルは止まらなかった。


「でも、あたしもいたんだよ!」


 秋雨の胸の奥が、冷えた。

 知らなかった。

 そんなふうにチハルがあの日を覚えていたなんて、考えたこともなかった。


「あたしもそこにいた。秋ちゃんと一緒に神社に通ってた。雨巫女さまの話、ちゃんと聞いてた!」


 チハルはいつも隣にいた。

 手伝ってくれて、教えてくれて、笑ってくれていた。

 だから秋雨は、チハルも一緒にいてくれているのだと思っていた。

 そこに痛みがあったなんて、思っていなかった。


「大人たちが何を見てるのかも、雨巫女さまが島でどういうものなのかも、あたしの方が分かってた! みんな期待してくれてた!」


 チハルは泣いていた。

 泣きながら、怒っていた。

 怒りながら、秋雨から目を逸らさなかった。


「なのに、みんな秋ちゃんを見た!」


 声が、境内の音を裂いた。

 社務所の方で、誰かがこちらへ歩きかけた。

 けれど、その隣にいた大人が、静かに腕を引いて止める。

 止められた人はチハルを見て、それから何も言わず、祭りの準備へ戻った。


「雨が降ったら、みんな秋ちゃんを見た。秋ちゃんが雨巫女さまだって言った。あたしもそこにいたのに。あたしも、そこに! いたのに!」

「チハル」


 名前を呼ぶだけで、やっとだった。


「謝らないで!!」


 チハルが言った。

 涙で濡れた声だった。


「聞くって言ったよね。今、謝られたら、あたしはどうしたらいいの!?」

「……うん」

「だから、聞いてよ!」


 秋雨は頷いた。

 紙垂の束を持つ手が震えて、今にも泣いてしまいそうだった。


 でも、今泣いたら、チハルの涙まで雨巫女の雨に変えてしまう気がした。

 それだけは、したくなかった。


「あたし、秋ちゃんのこと助けたかったよ。これは嘘じゃないんだよ」


 チハルは泣きながら言った。


「秋ちゃんが分からないなら教えたいって思った。秋ちゃんが泣くときは、隣にいたいって思った」

「うん」

「でも、それだけじゃなかったんだよ」


 チハルは袖で涙を拭った。

 拭っても、またすぐに落ちた。


「雨巫女さまになりたかったのも、誰かに見てもらいたかっただけじゃない。期待に応えられなかったのが悔しいだけじゃない」


 その言葉は、泣き声に混ざってぐちゃぐちゃだった。

 順番も、正しさも、いつものチハルにある余裕なんて欠片のひとつもなかった。


「あたしね、役に立ちたかったの。雨が降って、島が助かって、みんながよかったって言う。そういう場所に立てる人になりたかったの。あたしがいることで、誰かが助かる人になりたかったの」

「チハル」

「なのに、雨巫女さまにはなれなかった」


 チハルはバインダーを抱えたまま、首を横に振った。

 涙がまた落ちる。


「だから、せめて雨巫女さまの一番近くにいたいって思った。秋ちゃんの隣にいれば、秋ちゃんを助けられれば、あたしにも役目があるって思った」

「そんなこと」

「それでよかった! あたしは、それでよかったことにした」


 秋雨は、ようやく声を出した。

 けれど、驚くほど頼りなかった。

 チハルに届いた瞬間、返す言葉で消えてしまうほど弱い声だった。


「秋ちゃんが困ってたら助ける。秋ちゃんが分からないなら教える。秋ちゃんが泣いたらそばにいる。そうしたら、あたしにも、ちゃんと誰かの役に立てる場所がある気がした」


 だけど、秋雨は声を出し続けた。

 チハルから、逃げないために。


「チハル、ずっと無理して」

「違う!」


 チハルの声が跳ねた。

 涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、秋雨を睨む。


「そういうことじゃない! 無理してたとか、背伸びしてたとか、そういうふうに言わないでよ!」


 チハルはバインダーを抱え直した。

 涙で濡れた指が、折れた紙の角を押し潰す。


「あたしは、ちゃんとやってたの! 分かってるふりじゃない。大丈夫なふりだけじゃない。秋ちゃんより先に知りたかったから聞いたの。神社のことも、雨巫女さまのことも、祭りのことも、できるようになりたかったから覚えたの!」


 チハルは捲し立てた。

 肩が震えている。

 泣いているのに、声だけは怒鳴るように前へ出た。


「あたし、雨巫女さまにはなれなかったから! だったら、せめて雨巫女さまのそばにいる子として、ちゃんとしてたかったの! 秋ちゃんの隣にいるなら、それくらいできる自分でいたかったの!」


 秋雨は何も言えなかった。

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

 優しくしたつもりの言葉が、チハルの大事にしていたものを傷つけた。


「秋ちゃんは泣き虫だから、今もあたしのことで泣きそうになってる。だから、言いたくなかったんだよ!」


 チハルは泣きながら叫んだ。


「秋ちゃん、優しすぎるから! あたしがこんなこと言ったら、絶対そうやって受け止めようとするでしょ! つらかったんだねって顔するでしょ! 頑張ってたんだねって、無理してたんだねって、あたしのこと、そういうふうに見るでしょ!」


 秋雨は息を止めた。

 否定したかった。

 でも、今の自分は、その通りだった。


「そうじゃないの!」


 チハルの声がかすれた。


「あたしは、可哀想だったんじゃない! ただ子どもが無理してたんじゃない! あたしは、あたしにできることを全部やってたの!」

「……うん」

「雨巫女さまになれなかったあたしでも、秋ちゃんの隣にいていいって思いたかったの! ちゃんと役に立てるって思いたかったの! ただ頑張ってたねって言われたいんじゃない!」


 最後の方は、もう声になりきっていなかった。

 それでも秋雨は聞いた。

 逃げなかった。


「でもね——」


 チハルは荒い呼吸のままに息を吸い込む。

 つばが泣き声に引っかかり、嗚咽混じりの咳を出す。

 そうやって呼吸を無理やり整えてから、チハルは言葉を出した。


「——秋ちゃんを見てたら、分かっちゃうんだよ」

「何を」

「雨巫女さまって、ただ選ばれたらできるものじゃないんだって。泣いて、雨が降って、みんなに見られて、それでもそこに立ってなきゃいけないんだって」


 チハルの声が小さくなった。

 けれど、止まらなかった。


「何回も考えた。あたしだったらできたのかなって。秋ちゃんの代わりに、あそこに立てたのかなって」


 秋雨の胸が、今度は別の形で痛んだ。


「……考えるたびにね、無理だと思った」


 けれど、その言葉だけは、聞き流せなかった。


「チハル、自分のことを決めつけないで」

「なに、それ」

「私は、チハルの方がずっと向いてるって思ってた」

「やめてよ」

「やめない」


 秋雨は首を横に振った。

 今それを言うことが正しいのかは、分からなかった。

 でも、チハルが自分を諦めるように切り捨てるのは、嫌だった。


「チハルは、私よりずっと周りを見てた。大人の話も聞いてた。神社のことも、雨巫女のことも、私より知ってた。今だって、私にできないことをたくさんしてくれてる」

「だから、そういうことじゃないってば」

「分かってる。でも、チハルが自分には無理だったって言うのは嫌」

「でも、嫌なものは嫌なんだよ」


 チハルの声がまた大きくなった。

 でも、今度は秋雨も目を逸らさなかった。


「秋ちゃんが苦しいって分かってても、秋ちゃんが悪くないって分かってても、あたしがずっとそばにいたものを、秋ちゃんが手放すの……嫌なんだよ!」


 チハルは叫んだ。


「でもね、秋ちゃんが苦しいままでいるのも嫌なんだよ……」

「……うん」


 チハルはバインダーを抱え直した。

 涙で濡れた指が、折れた紙の角を押し潰す。


「どっちも本当なんだよ。どっちかだけにできないんだよ。秋ちゃんのこと好きなのに、雨巫女さまを辞めるって聞くと嫌だって思う。秋ちゃんに楽になってほしいのに、辞めないでって思う。秋ちゃんは悪くないって分かってるのに、なんで辞めるのって思っちゃう」


 チハルは息を吸った。

 また涙が落ちた。


「最低じゃん、こんなの」

「最低じゃない」

「最低だよ!」


 チハルが叫んだ。

 肩が震えている。

 顔は涙でぐしゃぐしゃだ。

 いつもの明るい笑い方も、頼れる調子も、どこにもない。


「あたし、秋ちゃんにぶつけてる! 秋ちゃんが悪いわけじゃないって分かってるのに、秋ちゃんに言ってる! ほんとは、こんなの言っちゃ駄目なのに!」

「言っていい」

「よくない!」

「言っていいよ!」


 秋雨はもう一度、大きな声で言った。

 声は震えていた。

 でも、引かなかった。


「あたしは、秋ちゃんの隣にいるために、ずっと雨巫女さまのそばの子でいたのに」

「うん」

「秋ちゃんが雨巫女さまじゃなくなったら、それもなくなる」

「うん」

「秋ちゃんは残るのに」

「……うん」

「あたしの方だけ、何もなくなる」


 秋雨は、紙垂の束を握る手に力を入れた。

 違う、と言いたかった。

 そんなことない、と言いたかった。

 チハルはチハルだと言いたかった。

 でも、それらはさっき、チハルが先に言った。

 だから、秋雨はその言葉を使えなかった。


「私、チハルのこと、なくならないって言いたい」


 秋雨は言った。


「でも、今それを言っても、チハルには届かないと思う」

「分かってるじゃん」

「でも、チハルがなくならないようにしたい」

「……」

「私が雨巫女じゃなくなることを、チハルだけが何かを失う話にしたくない」


 チハルは泣きながら、折れた紙の角を親指でなぞった。

 元には戻らない。

 けれど、もうこれ以上潰すこともしなかった。


「そんなの、どうやって」

「分からない」

「秋ちゃん、めちゃくちゃだよ」

「分からないけど、今みたいに、チハルが我慢して、私だけが楽になるのは嫌」


 チハルは顔を上げた。

 涙で濡れた目が、秋雨を見た。


「秋ちゃんは、辞めたら楽になるの?」

「分からない。でも、苦しいままではいたくない」

「……」

「それは、私のワガママだと思う。だけど、チハルにも、私のために苦しいままでいてほしくない」

「それもワガママだよ」

「うん。だから、私もう我慢しない。たくさんワガママを言う」


 秋雨が頷くと、チハルはまた泣いた。

 今度は声を抑えようとした。

 でも、抑えきれなかった。


「秋ちゃんは、自分がワガママだって開き直ればいいと思ってる?」

「思ってない」

「じゃあ、なんでそんなにまっすぐ言うの」

「曲げたら、チハルが逃げられるようになっちゃうから」


 チハルの口が止まった。

 涙が顎から落ちる。


「……あたし、秋ちゃんが悪いって言いたかったわけじゃない」


 チハルはそう言ってから、自分で首を横に振った。


「違う。言いたかった。うん、言いたかったんだ。秋ちゃんが悪いわけじゃないって分かってるのに、秋ちゃんにぶつけたかった……最低だよね」

「最低じゃない」

「なんで」

「やっと、わかったから」


 チハルは泣いたまま秋雨を見た。

 秋雨は、チハルから目を逸らさなかった。


「今、言ってくれたから。私は、初めて聞けた」

「……」

「チハルが雨巫女さま候補で頑張ってた時の気持ちも、私のそばにいてくれた理由も、率先して手伝ってくれる性格も、全部知ってるつもりだった」


 チハルは鼻をすすった。

 子どもみたいな音だった。

 チハルはそれを隠すように顔を横へ向けたけれど、もう隠しきれるものはなかった。


「でも、本当の気持ちは知らなかった。だから、私、チハルにもう一度聞きたい」


 秋雨は言った。


「なにを」

「まだ、手伝ってくれる?」

「……ほんとうに、秋ちゃんはずるい子だ」


 チハルはバインダーを見下ろした。

 涙の跡が、表紙にいくつも落ちている。

 折れた紙の角を、親指でなぞる。

 元には戻らない。

 けれど、もうこれ以上潰すこともしなかった。


「あたしは」


 チハルは言った。


「あたしは、秋ちゃんが雨巫女さまを辞めるの、まだ嫌だよ」

「うん」

「嫌。すごく嫌。秋ちゃんが苦しいって聞いても、それでも嫌って思う。でも――」


 チハルは唇を噛んだ。

 また涙が落ちた。


「――秋ちゃんが苦しいままなのは、もっと嫌だから」


 秋雨は息を止めた。

 チハルは顔を上げないまま、続ける。


「だから、手伝うよ」

「チハル」

「でも、あたし、いい子の顔で手伝わないからね」


 チハルはそこで、ようやく秋雨を見た。

 涙で顔はぐしゃぐしゃだった。

 でも、さっきまでの明るい逃げ方ではなかった。


 そして、チハルは深呼吸をして、秋雨にもう一度言った。


「あたしね、雨巫女さまになりたかった」


 チハルの目から涙が落ちた。

 一粒だけでは終わらなかった。

 頬を伝って、顎から落ちて、バインダーの表紙に小さな跡を作る。

 昼の光を受けて、その跡だけがきらめいた。


「だけどね、それ以上に秋ちゃんのことが好きだよ」


 秋雨は、すぐに返事ができなかった。

 その二つの言葉は、どちらも本当なのだと思った。

 どちらか一つを選んで、片方を軽くすることはできなかった。


 胸の奥が痛い。

 チハルにそんなふうに言わせてしまったことも。

 それでも、チハルが言ってくれたことも。

 どちらも、痛かった。


「……わかった」


 秋雨はようやく言った。


「それだけ?」

「今は、ごめん。それだけ」

「あ、謝った」

「え、あ、ちが」

「いいよ。今は、わかってくれたならそれでいい」


 チハルは鼻をすすった。

 そして、ぐしゃぐしゃになったバインダーを抱え直す。


「じゃあ、戻る」

「チハル」

「逃げるんじゃないよ。呼ばれてるし、本当に机の配置がおかしくなる」

「うん」

「あと、さっき大声出したことは……あとで、あたしが言う」

「うん」

「でも、たぶん、隠し通せない……ごめん」

「いいよ。そっちより、チハルの方が大事」


 チハルはそれを聞いて、もう一度、肩で涙を拭った。

 そして、社務所の方へ歩き出した。

 それから、祭り準備の人影の中へ戻っていく。


 誰かがチハルを呼ぶ。

 チハルは今度は返事をした。

 いつもより低くて、少し鼻にかかった声だった。


 秋雨はその背中を見送っていた。

 手元の紙垂が、風に揺れる。

 まぶたの裏に残っていたのは、昼の光を受けてきらめいた、チハルの涙だった。

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