第29話 雨巫女さまと、チハル。
チハルはバインダーを抱えたまま、秋雨の前に立っている。
指先に力が入っていた。
折れた紙の角は、もうきれいな形をしていなかった。
「……何か言いなよ」
チハルが言った。
声はまだ、いつもの形を保っている。
秋雨は、すぐ謝りたかった。
謝って、楽になりたかった。
ここで謝れば、チハルはきっと笑う。
そんなことないよ、と言ってくれる。
秋ちゃんが悪いわけじゃないよ、と続けてくれる。
それは、嫌だった。
「私は謝らないよ」
「……ほんと、嫌なとこ見てるね」
チハルは笑おうとした。
でも、その笑いは口元に届く前に止まった。
「でもまあ、そうだね。秋ちゃんが謝る理由はどこにもない。だって、秋ちゃんは、何も悪くないんだから」
チハルが足元の小石を蹴る。
「雨巫女さまになったのも、泣いたら雨が降るのも、秋ちゃんが選んだことじゃない」
「うん」
「だから辞めたくなるのもわかるよ」
チハルはそこで言葉を切った。
バインダーを抱え直す。
紙の角が、また折れた。
「なのに、なんでこんなに嫌なんだろうね」
秋雨は答えなかった。
「手伝うって言ったのに。秋ちゃんが苦しいなら、手伝うべきなのに、秋ちゃんが雨巫女さまを辞めたいって言うたびに、喉の奥が変になる」
チハルの声は、まだ繕えていた。
けれど、少しずつ綻び、抱えていたものが見えていく。
「チハル」
「誰かが秋ちゃんに『雨巫女さまじゃなくても秋ちゃんだよ』って言うたびに、分かってるのに、分かってるはずなのに、なんか――」
チハルの靴先が、砂の上に短い線を引いた。
引いた線を、すぐに自分で踏み消す。
「――じゃあ、あたしは何だったのって、思う」
今度は、はっきりとした声になっていた。
「チハルはチハルだよ」
「秋ちゃんはそう言うよ。まひるちゃんもそう言うと思う。『雨巫女さまになれなくても、そんなの関係ないよ』って」
「そんなふうに言わない」
「同じだよ」
チハルの声が擦れた。
秋雨は、紙垂の束を持つ手を下ろしたまま、動けなかった。
「秋ちゃんは、いつもそう。不器用だけど素直に、ありのままの言葉を伝えてくれる」
チハルはバインダーから片手を離した。
けれど、その手はすぐに行き場をなくして、また端を掴む。
「あたしは、そういうの得意じゃない」
「チハルは、ずっと上手にやってた」
「上手にやれてたから、嫌なんだよ」
その言葉だけ、チハルは噛むように言った。
秋雨は目を逸らさない。必死に歯を噛んでチハルを見る。
チハルは、今にも視線を外しそうになりながら、でも外さなかった。
「ねぇ、秋ちゃん」
「チハル……」
「あたしだって、雨巫女さま候補だったんだよ?」
チハルが言った。
「秋ちゃんと一緒に神社に通って、雨巫女さまのお話いっぱい聞いたよね。雨のことも、島のことも、役目のことも」
「うん」
「でも、大人たちがどういう顔で雨巫女さまを見るのか、知ってた?」
秋雨は頷けなかった。
チハルは笑った。
短くて、ひび割れた笑いが、すぐに消えた。
「秋ちゃんが泣いた日も覚えてるよ。晴れて暑くて、誰かが水を撒いたあとで、石畳の一部だけ色が濃くなってた」
「……うん」
「なんでもない日だったのに、秋ちゃんが急に泣いた。あたし、最初は転んだのかと思った」
秋雨は首を横に振る。
その日のことは、今でも変な形で残っている。
涙の熱さ。喉の奥にあった重さ。空の色が、変わる瞬間。
「でも違った。秋ちゃん、どこも痛そうじゃなかった。ただ泣いてた。ぽろぽろと、涙だけを零してた」
でも、秋雨が一番覚えていたのは、チハルがそばにいてくれたことなのに。
「それで言ったんだよね。雨が降るよって。みんなで秋ちゃんの方を見て、一斉に空を見上げて」
チハルの声が低くなった。
「大人たちが来て、秋ちゃんを囲んで、先代の名前が出て、本当に雨が降って、これはって誰かが言っちゃって」
秋雨の指が、紙垂の端に触れた。
白い紙が風で揺れる。
「……あたしもそこにいたのにね」
「チハルはずっと、一緒にいてくれたよ」
「別に、秋ちゃんが選ばれたのが嫌なわけじゃない。ただ、秋ちゃんが泣いて、雨が降って、みんなが秋ちゃんを見た時ね」
チハルはそこで息を詰めた。
堪えていたものが、チハルの瞳いっぱいに満ちる。
「あたし、すごいって思った」
「……うん」
「怖いとも思った。大変だとも思った。だけど、秋ちゃんが何も分かってないのも分かった。だから、助けなきゃって思った」
バインダーの端を掴む手が震えた。
胸元に抱えた紙の角が、さらに潰れる。
「でも、それだけじゃなかった」
「……」
「……あたしだって」
チハルの声が割れた。
「あたしだって、雨巫女さまになりたかった!」
叫んだあとで、チハル自身が息を止めた。
今の言葉を、自分で聞いてしまったみたいだった。
けれど、もう遅かった。
一度外れた蓋は、戻らなかった。
「こんなの……言いたくなかった……っ」
チハルの目から涙が落ちた。
一粒だけでは終わらなかった。
頬を伝って、顎から落ちて、バインダーの表紙に小さな跡を作る。
太陽の下、チハルの涙が落ちる。
「秋ちゃんに言いたくなかった!」
秋雨の手から、紙垂の束が少しずれた。
白い紙が指の間で擦れて、乾いた音を立てる。
秋雨は握り直すこともできなかった。
「秋ちゃんが悪いわけじゃないなんて分かってる! そんなの、ずっと分かってた! 秋ちゃんだって怖かったし、秋ちゃんだって大変だったし、秋ちゃんが雨巫女さまになりたかったわけじゃないのも、全部ぜんぶ分かってる!」
言葉が速くなる。
息が追いついていない。
それでも、チハルは止まらなかった。
「でも、あたしもいたんだよ!」
秋雨の胸の奥が、冷えた。
知らなかった。
そんなふうにチハルがあの日を覚えていたなんて、考えたこともなかった。
「あたしもそこにいた。秋ちゃんと一緒に神社に通ってた。雨巫女さまの話、ちゃんと聞いてた!」
チハルはいつも隣にいた。
手伝ってくれて、教えてくれて、笑ってくれていた。
だから秋雨は、チハルも一緒にいてくれているのだと思っていた。
そこに痛みがあったなんて、思っていなかった。
「大人たちが何を見てるのかも、雨巫女さまが島でどういうものなのかも、あたしの方が分かってた! みんな期待してくれてた!」
チハルは泣いていた。
泣きながら、怒っていた。
怒りながら、秋雨から目を逸らさなかった。
「なのに、みんな秋ちゃんを見た!」
声が、境内の音を裂いた。
社務所の方で、誰かがこちらへ歩きかけた。
けれど、その隣にいた大人が、静かに腕を引いて止める。
止められた人はチハルを見て、それから何も言わず、祭りの準備へ戻った。
「雨が降ったら、みんな秋ちゃんを見た。秋ちゃんが雨巫女さまだって言った。あたしもそこにいたのに。あたしも、そこに! いたのに!」
「チハル」
名前を呼ぶだけで、やっとだった。
「謝らないで!!」
チハルが言った。
涙で濡れた声だった。
「聞くって言ったよね。今、謝られたら、あたしはどうしたらいいの!?」
「……うん」
「だから、聞いてよ!」
秋雨は頷いた。
紙垂の束を持つ手が震えて、今にも泣いてしまいそうだった。
でも、今泣いたら、チハルの涙まで雨巫女の雨に変えてしまう気がした。
それだけは、したくなかった。
「あたし、秋ちゃんのこと助けたかったよ。これは嘘じゃないんだよ」
チハルは泣きながら言った。
「秋ちゃんが分からないなら教えたいって思った。秋ちゃんが泣くときは、隣にいたいって思った」
「うん」
「でも、それだけじゃなかったんだよ」
チハルは袖で涙を拭った。
拭っても、またすぐに落ちた。
「雨巫女さまになりたかったのも、誰かに見てもらいたかっただけじゃない。期待に応えられなかったのが悔しいだけじゃない」
その言葉は、泣き声に混ざってぐちゃぐちゃだった。
順番も、正しさも、いつものチハルにある余裕なんて欠片のひとつもなかった。
「あたしね、役に立ちたかったの。雨が降って、島が助かって、みんながよかったって言う。そういう場所に立てる人になりたかったの。あたしがいることで、誰かが助かる人になりたかったの」
「チハル」
「なのに、雨巫女さまにはなれなかった」
チハルはバインダーを抱えたまま、首を横に振った。
涙がまた落ちる。
「だから、せめて雨巫女さまの一番近くにいたいって思った。秋ちゃんの隣にいれば、秋ちゃんを助けられれば、あたしにも役目があるって思った」
「そんなこと」
「それでよかった! あたしは、それでよかったことにした」
秋雨は、ようやく声を出した。
けれど、驚くほど頼りなかった。
チハルに届いた瞬間、返す言葉で消えてしまうほど弱い声だった。
「秋ちゃんが困ってたら助ける。秋ちゃんが分からないなら教える。秋ちゃんが泣いたらそばにいる。そうしたら、あたしにも、ちゃんと誰かの役に立てる場所がある気がした」
だけど、秋雨は声を出し続けた。
チハルから、逃げないために。
「チハル、ずっと無理して」
「違う!」
チハルの声が跳ねた。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、秋雨を睨む。
「そういうことじゃない! 無理してたとか、背伸びしてたとか、そういうふうに言わないでよ!」
チハルはバインダーを抱え直した。
涙で濡れた指が、折れた紙の角を押し潰す。
「あたしは、ちゃんとやってたの! 分かってるふりじゃない。大丈夫なふりだけじゃない。秋ちゃんより先に知りたかったから聞いたの。神社のことも、雨巫女さまのことも、祭りのことも、できるようになりたかったから覚えたの!」
チハルは捲し立てた。
肩が震えている。
泣いているのに、声だけは怒鳴るように前へ出た。
「あたし、雨巫女さまにはなれなかったから! だったら、せめて雨巫女さまのそばにいる子として、ちゃんとしてたかったの! 秋ちゃんの隣にいるなら、それくらいできる自分でいたかったの!」
秋雨は何も言えなかった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
優しくしたつもりの言葉が、チハルの大事にしていたものを傷つけた。
「秋ちゃんは泣き虫だから、今もあたしのことで泣きそうになってる。だから、言いたくなかったんだよ!」
チハルは泣きながら叫んだ。
「秋ちゃん、優しすぎるから! あたしがこんなこと言ったら、絶対そうやって受け止めようとするでしょ! つらかったんだねって顔するでしょ! 頑張ってたんだねって、無理してたんだねって、あたしのこと、そういうふうに見るでしょ!」
秋雨は息を止めた。
否定したかった。
でも、今の自分は、その通りだった。
「そうじゃないの!」
チハルの声がかすれた。
「あたしは、可哀想だったんじゃない! ただ子どもが無理してたんじゃない! あたしは、あたしにできることを全部やってたの!」
「……うん」
「雨巫女さまになれなかったあたしでも、秋ちゃんの隣にいていいって思いたかったの! ちゃんと役に立てるって思いたかったの! ただ頑張ってたねって言われたいんじゃない!」
最後の方は、もう声になりきっていなかった。
それでも秋雨は聞いた。
逃げなかった。
「でもね——」
チハルは荒い呼吸のままに息を吸い込む。
つばが泣き声に引っかかり、嗚咽混じりの咳を出す。
そうやって呼吸を無理やり整えてから、チハルは言葉を出した。
「——秋ちゃんを見てたら、分かっちゃうんだよ」
「何を」
「雨巫女さまって、ただ選ばれたらできるものじゃないんだって。泣いて、雨が降って、みんなに見られて、それでもそこに立ってなきゃいけないんだって」
チハルの声が小さくなった。
けれど、止まらなかった。
「何回も考えた。あたしだったらできたのかなって。秋ちゃんの代わりに、あそこに立てたのかなって」
秋雨の胸が、今度は別の形で痛んだ。
「……考えるたびにね、無理だと思った」
けれど、その言葉だけは、聞き流せなかった。
「チハル、自分のことを決めつけないで」
「なに、それ」
「私は、チハルの方がずっと向いてるって思ってた」
「やめてよ」
「やめない」
秋雨は首を横に振った。
今それを言うことが正しいのかは、分からなかった。
でも、チハルが自分を諦めるように切り捨てるのは、嫌だった。
「チハルは、私よりずっと周りを見てた。大人の話も聞いてた。神社のことも、雨巫女のことも、私より知ってた。今だって、私にできないことをたくさんしてくれてる」
「だから、そういうことじゃないってば」
「分かってる。でも、チハルが自分には無理だったって言うのは嫌」
「でも、嫌なものは嫌なんだよ」
チハルの声がまた大きくなった。
でも、今度は秋雨も目を逸らさなかった。
「秋ちゃんが苦しいって分かってても、秋ちゃんが悪くないって分かってても、あたしがずっとそばにいたものを、秋ちゃんが手放すの……嫌なんだよ!」
チハルは叫んだ。
「でもね、秋ちゃんが苦しいままでいるのも嫌なんだよ……」
「……うん」
チハルはバインダーを抱え直した。
涙で濡れた指が、折れた紙の角を押し潰す。
「どっちも本当なんだよ。どっちかだけにできないんだよ。秋ちゃんのこと好きなのに、雨巫女さまを辞めるって聞くと嫌だって思う。秋ちゃんに楽になってほしいのに、辞めないでって思う。秋ちゃんは悪くないって分かってるのに、なんで辞めるのって思っちゃう」
チハルは息を吸った。
また涙が落ちた。
「最低じゃん、こんなの」
「最低じゃない」
「最低だよ!」
チハルが叫んだ。
肩が震えている。
顔は涙でぐしゃぐしゃだ。
いつもの明るい笑い方も、頼れる調子も、どこにもない。
「あたし、秋ちゃんにぶつけてる! 秋ちゃんが悪いわけじゃないって分かってるのに、秋ちゃんに言ってる! ほんとは、こんなの言っちゃ駄目なのに!」
「言っていい」
「よくない!」
「言っていいよ!」
秋雨はもう一度、大きな声で言った。
声は震えていた。
でも、引かなかった。
「あたしは、秋ちゃんの隣にいるために、ずっと雨巫女さまのそばの子でいたのに」
「うん」
「秋ちゃんが雨巫女さまじゃなくなったら、それもなくなる」
「うん」
「秋ちゃんは残るのに」
「……うん」
「あたしの方だけ、何もなくなる」
秋雨は、紙垂の束を握る手に力を入れた。
違う、と言いたかった。
そんなことない、と言いたかった。
チハルはチハルだと言いたかった。
でも、それらはさっき、チハルが先に言った。
だから、秋雨はその言葉を使えなかった。
「私、チハルのこと、なくならないって言いたい」
秋雨は言った。
「でも、今それを言っても、チハルには届かないと思う」
「分かってるじゃん」
「でも、チハルがなくならないようにしたい」
「……」
「私が雨巫女じゃなくなることを、チハルだけが何かを失う話にしたくない」
チハルは泣きながら、折れた紙の角を親指でなぞった。
元には戻らない。
けれど、もうこれ以上潰すこともしなかった。
「そんなの、どうやって」
「分からない」
「秋ちゃん、めちゃくちゃだよ」
「分からないけど、今みたいに、チハルが我慢して、私だけが楽になるのは嫌」
チハルは顔を上げた。
涙で濡れた目が、秋雨を見た。
「秋ちゃんは、辞めたら楽になるの?」
「分からない。でも、苦しいままではいたくない」
「……」
「それは、私のワガママだと思う。だけど、チハルにも、私のために苦しいままでいてほしくない」
「それもワガママだよ」
「うん。だから、私もう我慢しない。たくさんワガママを言う」
秋雨が頷くと、チハルはまた泣いた。
今度は声を抑えようとした。
でも、抑えきれなかった。
「秋ちゃんは、自分がワガママだって開き直ればいいと思ってる?」
「思ってない」
「じゃあ、なんでそんなにまっすぐ言うの」
「曲げたら、チハルが逃げられるようになっちゃうから」
チハルの口が止まった。
涙が顎から落ちる。
「……あたし、秋ちゃんが悪いって言いたかったわけじゃない」
チハルはそう言ってから、自分で首を横に振った。
「違う。言いたかった。うん、言いたかったんだ。秋ちゃんが悪いわけじゃないって分かってるのに、秋ちゃんにぶつけたかった……最低だよね」
「最低じゃない」
「なんで」
「やっと、わかったから」
チハルは泣いたまま秋雨を見た。
秋雨は、チハルから目を逸らさなかった。
「今、言ってくれたから。私は、初めて聞けた」
「……」
「チハルが雨巫女さま候補で頑張ってた時の気持ちも、私のそばにいてくれた理由も、率先して手伝ってくれる性格も、全部知ってるつもりだった」
チハルは鼻をすすった。
子どもみたいな音だった。
チハルはそれを隠すように顔を横へ向けたけれど、もう隠しきれるものはなかった。
「でも、本当の気持ちは知らなかった。だから、私、チハルにもう一度聞きたい」
秋雨は言った。
「なにを」
「まだ、手伝ってくれる?」
「……ほんとうに、秋ちゃんはずるい子だ」
チハルはバインダーを見下ろした。
涙の跡が、表紙にいくつも落ちている。
折れた紙の角を、親指でなぞる。
元には戻らない。
けれど、もうこれ以上潰すこともしなかった。
「あたしは」
チハルは言った。
「あたしは、秋ちゃんが雨巫女さまを辞めるの、まだ嫌だよ」
「うん」
「嫌。すごく嫌。秋ちゃんが苦しいって聞いても、それでも嫌って思う。でも――」
チハルは唇を噛んだ。
また涙が落ちた。
「――秋ちゃんが苦しいままなのは、もっと嫌だから」
秋雨は息を止めた。
チハルは顔を上げないまま、続ける。
「だから、手伝うよ」
「チハル」
「でも、あたし、いい子の顔で手伝わないからね」
チハルはそこで、ようやく秋雨を見た。
涙で顔はぐしゃぐしゃだった。
でも、さっきまでの明るい逃げ方ではなかった。
そして、チハルは深呼吸をして、秋雨にもう一度言った。
「あたしね、雨巫女さまになりたかった」
チハルの目から涙が落ちた。
一粒だけでは終わらなかった。
頬を伝って、顎から落ちて、バインダーの表紙に小さな跡を作る。
昼の光を受けて、その跡だけがきらめいた。
「だけどね、それ以上に秋ちゃんのことが好きだよ」
秋雨は、すぐに返事ができなかった。
その二つの言葉は、どちらも本当なのだと思った。
どちらか一つを選んで、片方を軽くすることはできなかった。
胸の奥が痛い。
チハルにそんなふうに言わせてしまったことも。
それでも、チハルが言ってくれたことも。
どちらも、痛かった。
「……わかった」
秋雨はようやく言った。
「それだけ?」
「今は、ごめん。それだけ」
「あ、謝った」
「え、あ、ちが」
「いいよ。今は、わかってくれたならそれでいい」
チハルは鼻をすすった。
そして、ぐしゃぐしゃになったバインダーを抱え直す。
「じゃあ、戻る」
「チハル」
「逃げるんじゃないよ。呼ばれてるし、本当に机の配置がおかしくなる」
「うん」
「あと、さっき大声出したことは……あとで、あたしが言う」
「うん」
「でも、たぶん、隠し通せない……ごめん」
「いいよ。そっちより、チハルの方が大事」
チハルはそれを聞いて、もう一度、肩で涙を拭った。
そして、社務所の方へ歩き出した。
それから、祭り準備の人影の中へ戻っていく。
誰かがチハルを呼ぶ。
チハルは今度は返事をした。
いつもより低くて、少し鼻にかかった声だった。
秋雨はその背中を見送っていた。
手元の紙垂が、風に揺れる。
まぶたの裏に残っていたのは、昼の光を受けてきらめいた、チハルの涙だった。




