第28話 雨巫女さまに、言わなかったこと。
昼が近づくにつれて、境内の空気はさらに熱を持っていた。
社務所の前には机が並び、縄や紙垂の束が次々に運び込まれている。
大人たちの声、木箱を置く音、風に鳴る紙の音。
そのどれもが、祭りの準備という一つの流れに混ざっていた。
まひるは社務所の脇の日陰に立って、スマホを確認した。
お母さんからの返信は、短かった。
『確認には時間がかかるそうよ。詳しい話は宿に戻ってからにしましょう』
まひるはありがとうと返事をして、画面を閉じた。
今すぐ進められることは、思ったより少なかった。
「まひるちゃん」
声をかけられて顔を上げると、秋雨が立っていた。
白いシャツの袖を肘のあたりまでまくっている。
手には、まとめかけの紙垂があった。
「お母さんから?」
「うん。やっぱり時間かかるって。詳しい話も宿に戻ってからみたい」
「そっか」
秋雨は頷いた。
けれど、まひるのスマホではなく、社務所の方を見ていた。
視線の先にチハルがいる。
水色のTシャツのまま、バインダーを抱えて、大人たちに何かを説明している。
箱の置き場所を指し、縄の束を数え、誰かに呼ばれるとすぐに返事をする。
いつも通りだった。いつも通り、よく動いていた。
チハルが戻ってきたのは、そのすぐあとだった。
「なるほどね。じゃあ研究所は待ち。こっちはこっちで、聞ける人を――」
額にかいた汗を、腰に引っかけたタオルで拭う。
チハルは話しながら、すぐにバインダーを開いた。
「チハル」
秋雨が名前を呼んだ。
チハルの言葉が、途中で止まる。
「なに?」
「記録とか、倉庫とか、誰に聞くかとかじゃなくて」
「うん?」
「チハルがどう思ったかを、まだ聞いてない」
チハルは一度だけまばたきをした。
それから、いつもの調子で笑おうとした。
「あたしのこと? あたしはいいよ。今はそれどころじゃないでしょ」
「よくない」
「秋ちゃんが決めることだし。あたしは手伝うって言ったし」
「うん。それは聞いた」
「じゃあいいじゃん?」
「でも、それしか聞いてない」
チハルの指が、バインダーの角を押さえた。
紙の端が、親指の下で曲がる。
チハルの靴と砂が擦れて鳴った。
まひるは二人の横に立ったまま、スマホを握り直した。
秋雨は今、チハルと話したい。
それはもう分かっていた。
「――ごめん、わたし、ちょっと電話してくる」
まひるはスマホを持ち上げた。
そのまま急ぎ足で、場を離れる素振りを二人に見せる。
「お母さんに、さっきのことで聞き忘れたことがあったかも」
「今?」
「うん。宿で話すことにはなってるけど、今のうちに伝えたいことあったから」
「あっ、まひるちゃん」
まひるは境内の端へ向かった。
チハルの呼びかけには、小走りをしながら手を振って応えた。
まひるは石灯籠の影が伸びている場所まで歩き、そこで一度立ち止まる。
秋雨とチハルの声が聞こえないところまで来て、電話はまだかけずに確認する。
スマホの画面を開いたまま、二人の方を見ていた。
チハルの視線が、一度だけまひるの方へ流れた。
すぐに戻って、バインダーを抱え直す。
「じゃ、あたしも社務所戻るね」
チハルは明るく言った。
「おじさんたち放っておくと、先に机並べ始めちゃうし」
「チハル」
秋雨が名前を呼んだ。
チハルの足が止まる。
振り返らないまま、チハルは答えた。
「なに?」
「手伝ってくれるのは、分かってる」
「うん」
「チハルが考えてくれてるのも、分かってる」
「だから、それでいいじゃん」
「でも、さっきからチハルの話を聞いてない」
チハルの背中が動かなくなった。
境内の向こうでは、大人たちが机を運んでいる。
木箱を置く音がして、誰かが笑った。
その音だけが、二人の周りを避けていく。
「記録とか、倉庫とか、前総代さまのことじゃなくて」
「……」
「私はチハルがどう思ったかを、まだ聞いてない」
チハルはそこで振り返った。
口元には、いつもの笑い方が残っていた。
「今はあたしの話してる場合じゃないよ。調べることいっぱいあるし祭りの準備もあるし」
「そんなことない」
チハルの目が、ほんの少しだけ細くなった。
秋雨はチハルの一歩前に出た。
社務所へ戻る道を、ふさぐほどではない。
でも、すれ違って終わりにはできない距離だった。
今の秋雨は、雨巫女の白い服ではない。
白いシャツに、紙垂の束を持った、神社の手伝いをしている同年代の子。
その格好のままチハルの前に立った。
「雨巫女さまのことは、雨巫女さまが決めることでしょ」
チハルが言った。
言い方は軽かった。
けれど、その呼び方だけが、二人の間に小さな距離を置いた。
「今は、雨巫女じゃなくて」
秋雨は静かに言った。
「秋雨として、チハルと話してる」
「……やだなあ、秋ちゃん。そういうの、まひるちゃんの前でやるやつじゃない?」
バインダーを抱え直す。
紙の角が、チハルの親指の下で歪んだ。
「倉庫で話してくれたこと」
秋雨が言った。
「私、まだちゃんと聞けてない」
「何を」
「チハルも候補だったって」
「それは、言ったじゃん」
「言った。でも、何でもないことみたいに言ってた」
「何でもないなんて言ってない」
チハルの声が、早くなった。
軽くて流す、いつもの言い方じゃなかった。
「でも、今さらどうしようもないでしょ。昔の話だし。秋ちゃんが悪いわけじゃないし」
「悪いかどうかの話にしたくない」
「じゃあ何の話?」
「チハルがどう思ったかを聞きたい」
「だから、あたしは」
「まとまってなくてもいい」
「秋ちゃん」
「怒ってもいい」
チハルは言葉を飲み込んだ。
バインダーを抱えた腕に力が入る。
でも、声はいつもの高さに戻らなかった。
「怒ってないって言ってるじゃん」
「言ってない」
「確かに言ってないけど……別にそもそも怒ってないし、それにさっきから何回も手伝うって言ってるし」
「うん」
「それじゃ足りないの?」
秋雨は首を横に振った。
「足りないとか、足りてるとか、そういう話にしたくない」
「じゃあ何」
「チハル、我慢してるでしょ」
チハルの返事が、一拍遅れた。
「……意味分かんない」
「私のワガママのために、チハルが我慢するのは嫌」
「それがワガママだって、秋ちゃんはわかって言ってるの?」
「わかってる」
チハルは返事をしなかった。
祭り準備の声が、少し離れたところから聞こえてくる。
机を置く音。縄をほどく音。
誰かがチハルの名前を呼びかけて、別の誰かが対応した。
チハルはバインダーを抱えたまま、紙の端を親指で押さえている。
もう社務所へ戻るとは言わなかった。
秋雨も、目を逸らさなかった。
「……じゃあ、聞くけどさ」
チハルが言った。
声は小さくなかった。
そして、さっきまでの明るさはなかった。
「どうして、雨巫女さまを辞めちゃうの?」
秋雨はすぐには答えなかった。
紙垂の束が、手元で白く揺れている。
風に鳴る乾いた音を聞いてから、秋雨はチハルを見た。
「私は雨巫女でいることが、嫌になったわけじゃないよ」
秋雨は言った。
「島が嫌いになったわけでもない」
「じゃあ、なんで?」
「私が泣いたら、雨が降るでしょ」
「降らせてくれるね」
「それを、みんなが恵みって言う」
「助かってるよ」
「それは、たぶん間違ってない。島には雨が必要だし、雨が降って助かる人もいる」
「だったら」
「でも、私が泣いたあとに、よかったって言われるのは――もう、苦しい」
チハルの唇が動いた。
けれど、声にはならなかった。
「雨が降ってよかった。島が助かった。恵みの雨だった。そう言われるたびに、私の涙は、私のものじゃなくなる」
「秋ちゃん」
「泣いた後の気持ちまで、役目に持っていかれるのは……嫌だよ」
「……」
「私が泣いた理由より、泣いて雨が降ったことが大事になる」
秋雨は紙垂の束を持つ手を下ろした。
白い紙が、風で膝のあたりに触れる。
「だからって、雨巫女でいることの全部が嫌なわけじゃない」
「……」
「チハルが支えてくれたことも、神社の人が大事にしてくれたことも、島の人が雨を待ってることも、分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるから、言えなかった」
チハルの眉が動いた。
「言えなかったって、何を」
「辞めたいって」
「……」
「私が辞めたいって言ったら、困る人がいるって分かってたから。チハルも、困るって分かってたから」
秋雨の声は揺れていなかった。
チハルはバインダーを抱え直した。
紙の端に力が加わって、さらに歪む。
「役目がなくなったら、私は何になるのかなって、ずっと思ってた」
「秋ちゃんは、秋ちゃんでしょ」
「うん。まひるちゃんは、そう言ってくれた」
「……」
「でも、私が自分でそう思えないと、きっとまた苦しくなる」
チハルは何も言わなかった。
社務所の方から、誰かがチハルを呼ぶ声がした。
チハルは返事をしない。
いつもならすぐに振り向くのに、今は振り向かなかった。
全く、耳に入っていないようだった。
「だから、雨巫女を辞めたい」
「……」
「辞めて、それでも私がここにいていいのか、ちゃんと確かめたい」
「……」
チハルは、長く黙っていた。
バインダーの端を押さえていた親指が、紙から離れる。
歪んだ角は、元には戻らなかった。
「……そっか」
チハルはそう言った。
それから、口元を上げようとした。
でも、途中で止まった。
「秋ちゃんは、雨巫女さまじゃなくなっても、秋ちゃんなんだね」
その言葉は、祝福みたいには聞こえなかった。
責めているようにも聞こえなかった。
ただ、チハルの口元から、いつもの笑い方だけが消えていた。
――じゃあ、あたしは、何?
境内では祭りの準備が続いている。
誰かが机を運び、誰かが縄を結び、風が紙垂を鳴らしている。
その全部の中で、チハルだけが、バインダーを抱えたまま立ち尽くしていた。




