第27話 雨巫女さまに、言えないこと。
祭具倉庫を出ると、外の光がまぶしかった。
さっきまで薄暗い場所にいたせいで、境内の白い石畳がいつもより強く光って見える。
まひるは手のひらを額の上にかざした。
社務所の前では、さっきと変わらず祭りの準備が続いていた。
机を運ぶ大人たち。束ねられた縄。風に揺れる紙垂。
倉庫の奥で見つけた紙のことなんて、誰も知らない。
それでも、祭りは形になっていく。
「鍵、返してくる」
チハルはそう言って、社務所の方へ歩いていった。
手にはいつものバインダーを抱えている。
「チハルちゃん、なんか平然としてるように見えるね」
まひるが小さく言うと、隣の秋雨は社務所へ向かう背中を見たまま頷いた。
「チハルは昔からそう。びっくりしても、優先順位を決めて動けるの」
「頼れるね」
「うん」
秋雨はチハルの背中を見送ってから、頷いた。
まひるは秋雨の横顔を見た。
白いシャツの襟元に、倉庫の埃がついている。
秋雨はそれに気づいていないらしく、まだチハルの方を見ていた。
「でも、それがいつものこと」
秋雨が言った。
「いつも?」
「うん。チハルは、私より先に、何をするか決めてる」
その言い方が、褒めているだけには聞こえなかった。
まひるは返事を探して、言い淀む。
結局、見つからないまま、先にチハルが戻ってきた。
「返してきたよ。特に何も言われなかったから大丈夫そう」
「大丈夫って、何が?」
「長居した理由とか。まあ、箱が多くて時間かかりましたで通ったからセーフ」
チハルはバインダーを開き、挟んでいた確認表の端に何かを書き込んだ。
細い欄の中に、チハルの字がひとつ増えていた。
まひるは覗き込みそうになって、途中でやめた。
「このあとはどうするの?」
まひるが聞くと、チハルはペン先を止める。
紙から離し、くるくるとペンを回す。
チハルは数回転させたあと、ペンを握って止めた。
「まず、今日見つけたものはここでは話さない」
「うん」
「それと、今すぐ誰かに見せるのもなし」
「それはどうして?」
「あたしたちの中で意味が分かってないまま持っていくと、こっちが何を探してるかだけ伝わっちゃうから」
「そっか、見ちゃいけないものの可能性だってあるんだもんね」
「そういうこと。だから、先に周りを固める」
チハルはバインダーに挟まった資料の一つを裏返す。
白紙にペンで関係図を書いて、まひると秋雨に共有する。
「あの紙の意味を知るために、調べたいところがいくつかあるんだよね」
まひると線が繋がっていたのは、研究所。
秋雨と線が繋がっていたのは、神社。
チハルと線が繋がっていたのは、その他の人。
「研究所側の古い資料。神社側の古い記録。あと、古いことを知ってそうな人」
チハルはそこで言葉を切った。
社務所の方から、大人の笑い声が聞こえてくる。
チハルはそちらを見ずに、バインダーの端を親指で揃えた。
「役割分担するんだね」
「そう。ただ、『雨巫女さまを辞める方法を探してます』なんて言ったら、それだけで騒ぎになるから注意してね」
「うん、わかった」
「特に秋ちゃん。調べ物の際に『なぜですか?』って聞かれてもボロが出ないようにしてね」
「が、頑張る」
まひると秋雨は頷いた。
分かっているつもりだった。
けれど、チハルの言葉で、その難しさが急に現実味を持った。
ただ調べればいいわけじゃない。
誰に、何を、どこまで言うか。
言ったあと、その人が誰に話すか。
話がどんなふうに島の中を回るか。
そこまで予測しないと、秋雨の話はすぐに秋雨だけのものではなくなってしまう。
それは怖い。まひるは背筋が冷えていくのを感じた。
「まひるちゃんは、お母さんにもう一回聞いてもらえる?」
チハルが言った。
「研究所の古い資料のこと?」
「うん。『海』が関わってるなら、雨巫女さまって言葉で出てこなくても、水質調査とか、昔の観測記録とか、聞き取りの端になにか残ってるかもしれないから」
――島の意志。涙を海へ返す。雨は霧散する。
まひるの中で、さっき読んだ文字が浮かび上がる。
「聞いてみる。でも、お母さんは、すぐには分からないって言ってたけど」
「すぐじゃなくていい。むしろ急ぎすぎない方がいいかも」
「どういうこと?」
「急に情報が集まると逆に目立つかもしれない。島は外よりも横のつながりが強い分、雑談で情報が回っちゃうんだよね」
チハルのペン先は、まひるが頷くより早くメモを増やしていた。
各々の名前の近くに、短い文字が増えていく。
まひる、お母さん。秋ちゃん、いつも通りと神社記録。
そして、秋雨の横にもう一本線を引いて、チハルはペンを止めた。
「で、この後の話だったよね」
「うん」
「秋ちゃんは、今日は普通に祭り準備」
「私は普通にしてればいいの?」
「うん。雨巫女さまのお仕事をいつも通りにやって欲しい。それであたしたちのカモフラージュにもなる」
「分かった」
秋雨は素直に頷いた。
チハルは続ける。
「あと、神社の古い記録はあたしが見る。入れないところもあるけど、見られる範囲で確認する」
「え、チハルが?」
「うん」
「あれ? でも、それって私の担当じゃない?」
秋雨が言った。
チハルのペン先が、紙の上で止まった。
バインダーを見ると、確かに『秋雨』と繋がっているのは『神社』だ。
「秋ちゃんは祭り準備があるでしょ」
「チハルもある」
「あたしは慣れてるからいいの。それに今年から準備の役をもらったから、入れる場所増えたし」
「でも、これは私のこと」
秋雨の声は大きくなかった。
それでも、まひるは二人のあいだの空気が変わったのを感じた。
チハルは顔を上げない。
確認表には、短い線が一つ、文字にならないまま残っていた。
「私のことだから、私もちゃんとやりたい」
秋雨はもう一度言った。
チハルはペンを握ったまま、ようやく顔を上げる。
ため息を一つ吐いて、いつもの調子に戻った。
「……秋ちゃんがちゃんとやろうとすると、だいたい余計に大変になるんだよ」
「ひどい。私だって、できることはあるよ……きっと……たぶん」
「うん、あるよ。だから祭り準備して。秋ちゃんがいつも通りにしてることが今は大事だから」
まひるは、チハルの言葉は間違っていないと思った。
秋雨が急に神社の古い記録を探り始めたら、誰かは気づくかもしれない。
雨巫女さまが何かを探している。
その噂だけで、島の中はざわつく。
まひるにも、それは分かった。
けれど、秋雨のことをチハルがすべて管轄してしまうのが嫌だという、秋雨の気持ちも理解できた。
でも、まひると秋雨が言葉を探している間に、チハルはもう次の話へ移ってしまった。
「それと、今日の午後は解散しよう。ついでに、二人はできれば社務所の近くに固まらないで」
「え、なんで? 私、今日はお仕事ないよ?」
秋雨は自分を指さして、チハルに質問するように言った。
「……気付いてないと思ってたけど、秋ちゃんとまひるちゃん、目立ってるからね」
チハルは悪い意味じゃないけどね。と、付け加えてくれた。
でも、今は目立たない方がいいとさっき話したばかりだった。
まひるは確かに雨巫女さまと外の子が一緒にいたら、珍しいのは当然だなと思った。
「だから、まひるちゃんは、お母さんに連絡。秋ちゃんは、頼まれてる手伝いを普通にやる。夕方、時間が合えばまた話す。これでどうかな?」
「チハルちゃんは?」
「あたし? あたしは祭り準備しながら、もう一度状況を整理して、順番の確認をする」
チハルは軽く言った。
軽く言ったはずなのに、秋雨はバインダーの余白を見ていた。
「順番って、何の?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろだよ」
チハルは笑って、バインダーを閉じた。
その笑い方は、さっきよりも渇いていた。
まひるがその焦燥感を感じ取るより早く、秋雨が口を開いた。
「チハル」
「ん?」
「今、何考えてるの」
チハルは目を丸くした。
それから、すぐに肩をすくめる。
「何って、秋ちゃんの雨巫女さま引退計画のことだけど」
「本当?」
「嘘ついてどうするのさ。あ、やっぱり雨巫女さま辞めるのを止める?」
「そういう話じゃなくて」
「はいはい」
「……チハル」
「なに」
「今、逃げようとしてるでしょ」
チハルは軽く流そうとした。
けれど秋雨は、そこから視線を外さなかった。
まひるは二人の横に立ったまま、何も言えなくなった。
幼なじみ同士の会話に、どこから入っていいのか分からなかった。
「逃げるって……いや、うん。秋ちゃんは心配してくれてるんだよね。大丈夫、本当に大丈夫だから」
チハルが言った。
バインダーの上では、秋雨の名前から神社へ線が伸びている。
それなのに、チハルはその線の先を自分の指で押さえていた。
「まだ何も決まってないし、分かったことも少ない。だから、焦ってもしょうがないでしょ。秋ちゃん」
「それは、そうだけど……」
「まずは、調べる。変に動かない。できることはやる。それだけ。基本的には、いつも通り過ごすのが一番大事」
「でも、チハル」
「はい。解散。あたしは社務所戻るから、何かあったら電話してね」
チハルはそう言って、笑った。
それから二人に背を向けて、社務所へ戻っていく。
水色のTシャツの背中が、境内の人影の中に混ざっていった。
バインダーを抱えた肩はまっすぐだった。
歩く速さも、乱れていない。
でも、秋雨はまだ、その背中を見ていた。
「秋雨ちゃん?」
まひるが声をかけると、秋雨は遅れて振り向いた。
「ごめん。何?」
「ううん。チハルちゃん、行っちゃったね」
「うん」
秋雨は頷いた。
それから、自分の手元を見た。
倉庫の埃がついた指先を、親指でゆっくりこすっている。
「チハル、今ここにいなかった」
「え?」
「ここにいるのに、ここじゃないところを見てた」
まひるはチハルが消えた方を見た。
社務所の前では、大人たちがまた机を動かしている。
チハルはその間に入って、何かを確認していた。
誰かに呼ばれ、すぐに返事をして、バインダーを開く。
まひるには、いつものチハルに見える。
「わたしには、いつものチハルちゃんに見えたけど」
「うん。たぶん、いつも通りにしてる」
秋雨は言った。
「でも、チハルはいつも通りにしすぎてる」
その言葉は、祭り準備の音の中に落ちた。
紙垂が風に揺れる。
白い紙が乾いた音を立てる。
チハルが何を抱えているのか。
秋雨はそれに気づいている。
でも、今はまだ、チハルは話そうとしない。
「まひるちゃん」
秋雨が言った。
「なに?」
「ワガママ言ってもいい?」
「いいよ」
「私、あとで、チハルと話したい」
「わかった」
秋雨は社務所の方を見た。
そこには、祭り準備の中で動くチハルがいる。
誰かに指示を出し、誰かの質問に答え、何かを笑って受け流している。
チハルの周りには、次々に人が寄ってきた。
誰かが箱を持ち、誰かが縄を差し出し、チハルはそのたびに短く答える。
立ち止まる暇なんてないみたいだった。
「今のチハルを、放っておきたくない」
秋雨の声は大きくなかった。
それでも、言い終えたあと、社務所から目を逸らさなかった。
まひるは頷いた。
「わたしもできることする」
「ありがとう」
「チハルちゃんとの段取りは後で考えよう」
「うん」
「じゃあ、また後でね」
「うん、また」
秋雨は社務所の方へ向かっていった。
まひるはバッグからスマホを取り出す。
画面に映った自分の顔は、外の光で白く飛んでいた。
『お母さん、研究所に残っている古い島の記録について、もう少し聞きたいことがあります』
まひるは送信ボタンを押した。
画面の中で、短い文字が送られていく。
その向こうで、チハルの声がした。
「秋ちゃん、それ持つなら下から。落とすと欠ける」
「分かってる」
「だから分かってる人の持ち方じゃないって。危ないよ」
「もう、分かってるってば」
二人のやり取りは、いつもと同じだった。
いつもと同じに聞こえるからこそ、まひるはその声をしばらく聞いていた。
祭りの準備は進んでいく。
晴れた境内で、見えないものだけが嵩を増していた。




